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2 須臾の出現

 

 翌日。
 授業中も圭一郎は考え込んでいた。あれから妖魔の気配は感じられない。圭一郎の力をもってしても、形を取って出現していない状態では、妖魔の気配はわからないのだ。
 今の彼は、ただ待つことしかできない。いつどこに出現するのかわからない妖魔を待つのは、かなり辛抱のいることだった。こんな状態のまま、一日の授業が終わろうとしている。
 今日はもうなにごともなく終わるのかも知れない。だが、それは事態が終息したことを意味してはいない。
(せめてタイプがわかっていれば……)
 じりじりする思いを、圭一郎は懸命に抑え、なんとか前向きに発想しようと試みる。
 タイプによっては、出現する場所や条件が判明しているものもある。そういった妖魔であれば、対処はかなりしやすくなるのだ。とはいえ、わからないものをあれこれ言ってみても仕方がない。そこで圭一郎は、様々な事態を想定してみることにした。
(出現しかけて消えたのなら、出現条件のあるやつかも。授業中の教室でそろう条件ってなんだ?)
「問6の答えはどうなる、宝珠」
「2x+9です」
「う、うむ、そうだな」
 授業に身が入っていないと見るとすぐに当ててくる教師の攻撃を、圭一郎はさらりとかわし、再び考え込む。
(時間帯、場所、誰かの持ち物、それとも……)
 その時だった。
「!」
 圭一郎の目が見開かれる。かすかだがはっきりと、妖魔の気配が感じられた。
(間違いない、またA組だ)
 二年A組。征二郎のクラスである。
 圭一郎はポケットの宝珠を握りしめた。まだ授業中だが、そんなことに構ってはいられない。すぐに駆けつけて宝珠を剣に変え、征二郎に手渡さなければならない。
 が。
 立ち上がりかけて、圭一郎ははっとした。
(消えた……)
「どうした、宝珠」
「……いえ」
 困惑した表情を押し隠し、圭一郎は座り直す。
 「なんでもありません」
 もう気配はどこにも感じられない。だが、一瞬感じた気配は本物だった。
(確かにいるんだ。すぐ近くに……!)
 なぜすぐに気配が消えてしまうのか。
 不可解な気持ち悪さを抱える圭一郎の耳に、授業の終了を知らせるチャイムが聞こえてきた。

 一本調子な口調、小さな声、連発される聞き慣れない用語。
 退屈な授業の典型だが、安原教諭の授業ではいつものことだ。
 最後列の席から、滝護宏(たき もりひろ)は教室内を見渡した。
 このクラスの生徒は全部で三十六人。三分の一は机に突っ伏し、残りの四分の三は時折がくりと垂れ下がりそうになる頭を懸命に支えている。まともに起きているのはせいぜい数人といったところだ。
 護宏にしても、別に授業を熱心に聞いているわけではない。退屈な授業に眠気をもよおすという習慣を、たまたま持ち合わせていないだけだ。
 暇に飽かせて同級生たちの後ろ姿を眺めていた護宏は、ふと視線を天井に向けた。
 天井に、もやもやとした黒いものが広がっている。見ようによっては天井に張り付いた巨大な蜘蛛のようだが、実体を持っているわけではなく、ところどころ、天井の吸音板が透けて見えていた。
 明らかに常ならざる事態だが、教室内には彼のほかに気づいている者はいない。安原は小説の主人公の家の食器の色に表現されている心情を事細かに説明するのに夢中だったし、生徒の大半は天井どころか夢を見ている様子だ。
 護宏は斜め前の席を見る。机に突っ伏した宝珠征二郎の背中がかすかに規則正しく上下していた。どうやら、熟睡しきっているらしい。
 その様子をしばらく見てから、護宏はすっと手を挙げた。
「先生」
「……この茶碗の柔らかな色合いの描写が……ん、なんだ?」
 四十分以上も留まることなく続いていた安原の授業が、やっと中断される。
「質問です」
 斜め前で征二郎が目を覚まし、身体を起こしたのを視野の片隅にとらえながら、護宏は立ち上がる。ちらりと目をやった天井には、もう何もいなかった。

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