(こんな時に……!)
手が鞄の中の鈴へと伸びる。退魔師として身についたしぐさだ。
だが。
(今退治してたら遅刻する……)
気配は感じ取れるものの、姿もタイプもわからない。捜し出して退治するにはある程度の時間が必要だ。
だが、今そのような時間があるだろうか。
(でも、退治しないと)
退治すれば、入学試験をふいにすることになる。推薦をあきらめて一般入試に切り替えれば、それだけ受験勉強に割かねばならない時間が増えてしまう。
それでも、すぐ近くの妖魔を放置しておくことは、凜にはできない。
「……」
凜は鞄を開け、ポーチに入った鈴を取り出そうとした。
その時。
「先輩!」
「ここは僕たちに任せてください!」
覚えのある声二つ。
圭一郎と征二郎の姿が、道路を挟んだ正面に見える。ちょうど正門の前あたりだ。二人のいる位置からして、どうも大学の中から出てきたように見える。
「あんたたち……どうしてここに」
道路ごしに凜は呼びかける。信号はまだ赤のままだ。
「この辺に妖魔が出るから、調べてたんだ」
「先輩試験でしょう? 早く渡っちゃってください」
圭一郎の手に光るものが見えた。おそらくは宝珠の剣だろう。だがその言葉に、凜は戸惑う。
「待ってよ、だって信号赤だし」
「それ、妖魔の幻覚です。今青になってますから!」
幻覚? 凜は愕然とした。
(私が妖魔にだまされてるって?)
ほかならぬ、この自分が。
注意深く周囲の様子を探る。眼前の道路にはひっきりなしに車が行き交っている。とても幻覚には見えない。
(そうだ、それに……)
たしかにずっと赤のままの信号は不自然である。妖魔の気配が色濃く立ち込めているのに姿が見えないのもおかしい。だが、通りの向こうの宝珠兄弟の方が幻覚でないと、どうして言えるだろう。
「ほら、今車は止まってますってば」
圭一郎が横断歩道の中ほどに進み出た。
凛の目には、車が圭一郎を避けて、それでも止まらずに行き交っているように見える。
信号は、赤でなければ青だ。自分の目が正しいのか、圭一郎の言うことの方が正しいのか。
凛にはどうしても判断がつかなかった。
(どちらが真実か……)
ひとつだけ、方法がある。
凜は退魔の鈴を取り出した。時間はもうほとんど残っていない。
「鈴よ、幻を打ち破れ!」
高らかに鈴を打ち鳴らすと、不意に目の前の風景がぐらりと揺らめき、通り過ぎる車の姿が一瞬ぼやけて見えた。
圭一郎の姿だけが、通りのただ中ではっきりと見えている。
「わかった!」
幻覚は赤信号の方だ。完全に打ち破ることはできなかったが、判断ができれば十分である。
凜は迷わず道路に足を踏み出した。影のように車が行き過ぎる間を抜け、難なく道を渡る。
「先輩、もうすぐ一時です。あとは僕たちが」
「わかった。お願い」
躊躇している暇はない。凜はそのまま試験会場のある校舎へ向けて走り出した。
「征二郎、あそこだ。あの煙吐いてるタヌキみたいな奴!」
「おう!」
宝珠兄弟の声が背後から聞こえる。間もなく、背中をぴりぴりと刺激していた妖魔の気配が、すっと消えていくのがわかった。
「……やるじゃない」
口の端に笑みを浮かべ、そのまま試験会場に駆け込む。
時計は、ちょうど一時を指していた。