冷たい雨が、色づきはじめた木々の葉をしっとりと濡らす。下校時刻を過ぎて人かげまばらな校庭は、ひっそりと静まり返っている。
そんな黎明館高校の正門前。
一人の少女が傘をさしてたたずんでいた。紺のブレザーにチェックのスカートは、慈愛女子高校の制服だ。
黎明館の生徒を待つ慈愛の女子の姿は、珍しいものではない。少女も誰かを待っているのであろう、時折正門の中に目をやりつつ、じっと雨音に耳を傾けているようだ。
(ふーん、誰待ってるんだろうな)
校舎から出たところで、遠目に少女を見かけた征二郎は思う。 今日は一人で帰るところだった。図書室で調べ物をするといって、圭一郎はまだ校内に残っている。
(あれ?)
正門の少女が誰かと話しているのに、征二郎は気づいた。傘の陰に隠れてわかりにくいが、少女と同じ慈愛女子の制服を着ている。顔は見えないが、まっすぐな髪と立ち姿には見覚えがあった。
(リンリンさんだ)
黎明館は、慈愛女子から見て美鈴凜の家とは逆方向にある。学校帰りに立ち寄ることは考えにくい。
何かあったのだろうか。
少女に用があったのかとも思ったが、それならば学校で話しているはずだと考え直す。
(俺たちに用? でもだったら携帯使うよな)
征二郎は首をひねる。もうだいぶ正門に近づいているが、凜は征二郎には気づいていないようだった。
「やだなあ美鈴さん、護宏はそんな人じゃないです」
ふと、少女の声が耳に届いた。
(護宏?)
征二郎は耳をそばだてる。同じクラスの滝護宏のことだろうか。
「私はあなたが心配なの!」
凜がじれったそうに言っている。征二郎にはなんのことだかわからない。
少女が一言二言返したのに答えかけた凜は、ふと時計に目をやった。
「いけない、すぐ行かなきゃ。とにかく、気をつけるのよ」
何か用事があったのだろうか、そのまま凜は足早に歩み去って行く。
「せんぱ……」
中途半端に出かけた声を、征二郎は途中で引っ込める。何やら急いでいたようだし、呼び止める用事があったわけでもないからだ。
征二郎の声に気づいて振り向いたのは、少女のほうだった。いくぶんあどけなさの残る顔立ちで、いかにも慈愛女子の生徒らしい清楚な雰囲気を持っている。目が合ってしまったので、征二郎はきまり悪げに笑ってみせる。
「美鈴さんに用事だったんですか?」
「いや、珍しいところに来てるなと思っただけで」
「大学の入学手続きだそうですよ」
「あ、そうか」
凜の知人だと思ったからか、少女は親切に教えてくれた。納得してうなずく征二郎は、ふと、少女がそのままショートボブの頭をわずかに傾けて、こちらを見ているのに気づく。
「え、なに?」
「あの、一昨日ここで妖魔を退治していた方ですよね?」
そう尋ねられて、征二郎は驚く。
「そうだけど……」
「あの時わたし、ここにいたんです。ありがとうございました」
(あ……)
征二郎は目を見開いたまま立ちつくす。
(ありがとうって言われたー!)
これほどの感動があろうか。
見返りを求めて妖魔を退治しているわけではないが、それでも見ず知らずの人に礼を言われて嬉しくないはずはない。
有頂天になっている征二郎を見て、少女はくすくす笑い、言葉を続ける。
「宝珠さん、ですよね? 退魔師で、剣を持ってるほうの」
「え?」
名前だけでなく役割まで言い当てられて、征二郎はあわてる。この少女とは初対面だったはずだが。
「そ、そうだけど?」
「護宏……滝くんと同じクラスなんですよね?」
「あ、もしかして」
一昨日、捕食型の妖魔を退治した後で目にした光景を、征二郎は思い出した。帰って行く護宏の隣に寄り添っていた、慈愛女子の制服。
「護宏の彼女?」
尋ねながらも征二郎は、護宏と「彼女」という言葉の組み合わせを不思議に感じていた。
護宏に人気がないわけではない。圭一郎と学年トップの成績を競う――選択科目の違いから同列には比較できないが、圭一郎は文系の、護宏は理系の首位を独走していた――だけでなく、涼しげな顔立ちと何にも動じない冷静さに憧れる女子生徒は多かった。例年ほとんど部員がおらず、廃部寸前だった弓道部に、今年新入部員が殺到したのも、護宏目当ての一年生のためだと言われている。
だが護宏は、寡黙で他人を寄せつけない雰囲気を持っている。とても気安く話しかけられるものではないし、そもそも恋愛などに関心を持つようにも見えない。
そんな護宏に、他校の彼女がいるのだとしたら。
(堀井とか喜ぶだろうなあ、こんなネタ)
意外性に征二郎は胸をおどらせる。明日あたり、話題にすれば盛り上がりそうだ。
だが。
「違いますよ」
意外にも少女は否定する。
「家が近所だったんで……幼なじみなんです」
「あ、そ、そうなんだ」
少し拍子抜けした気分になった。
「でも、護宏を待ってるんじゃない?」
「ええ、見せたい本があったから」
「ふぅん」
そうは言っても校門で待つぐらいだ。かなり親しい仲なのだろう。護宏のふだんの様子を思えば、そんな幼なじみがいることだけでもかなり珍しい気がする 。
少女が淡く笑って続ける。
「護宏が言ってました。クラスに妖魔を退治できる人がいて助かってるって」
「え……」
征二郎は耳を疑った。
(た、助かってるって言われてるー!)
さほど親しいわけでもないクラスメイトに、そのように評価されていたとは。
(あいつ、いい奴かも)
圭一郎とは違い、征二郎は少女の言葉にさまざまな裏の意図を勘ぐってしまうことはなかった。言葉通りに受取り、素直に嬉しく思う。
少女はさらに言葉をついだ。
「わたしもいつお世話になるかわからないので、よろしくお願いします」
「? どういうこと?」
少女の言葉の意味がわからない。聞き返すと、少女は少し迷うようなそぶりを見せてから口を開いた。
「わたし、実は……」
その時。
「征二郎ーっ!」
校舎の方から、圭一郎の声が聞こえた。
「うわー、ちょっと待ってくれよー」
続いて男の叫び声。振り向いた征二郎は、思わず目を疑う。
「なんだありゃ」
視線の先には、見たことのない生物がいた。
形自体は珍しいものではない。茶色い毛皮に長い耳も、後ろ足を跳ね上げる走り方も、直接見たことはほとんどないものの、テレビなどでおなじみの野兎そのものだ。
問題はその大きさだった。距離を考えても乗用車ぐらい、兎にしては大きすぎる。
巨大な野兎が霧雨に煙る校舎を背景に、正門に向かってまっすぐに走ってくる。
現実とは思えぬ光景を目にして、征二郎は呆然と立ちつくす。
「征二郎! 妖魔だ」
野兎を追ってきていた圭一郎が叫ぶ。
少女がかたわらではっと息をのんだのがわかった。
妖魔ならば、自分がすることは一つしかない。圭一郎から剣を受け取り、妖魔を斬るだけだ。
身体が自然に動く。正門の中央に飛び出し、野兎の進路に立ちはだかった。速度を落とした野兎の鼻面めがけて、手に持った傘を投げつける。
「征二郎、受け取れ!」
ひるんだ野兎ごしに、圭一郎の投げた剣が弧を描いて飛ぶ。
「よっしゃあ」
受け取りざま、征二郎は鞘から剣を引き抜く。無駄のない動作で剣を構えて大きく踏み込み、切っ先を野兎につきつけた。
間近で野兎と目が合う。
「……」
うるんだ黒い目、ひくひくと動くひげ、後ろにぴったりと伏せられた長い耳、雨に濡れた毛皮の先端に光る水滴。よく見れば、ふるふると震えている。
(ちょっと、倒しにくいかも)
だが、相手は妖魔だ。タイプはわからないが、人に危害を及ぼす前に退治しなければならない。
いくぶんやりにくさを感じつつ、剣をじりじりと上げていく。
妖魔はさまざまな形で現れる。それは恐ろしげなものや忌まわしげなものとは限らないのだ。
(見かけにごまかされてどうする!)
征二郎は自分に言い聞かせ、剣を構え直した。いつものように斬れば、いつものように消えていく。ただそれだけのことなのだから。
そのまま、剣を振り下ろす。
「?」
いつもとは違う、鈍い衝撃があった。同時に、握っていたはずの剣の感触がふっと消える。
征二郎はとっさに手を見た。手には何も握られていない。
「なに?」
前方に目を向けると、意外なものが目に入った。
征二郎と野兎の間に立ちはだかる、見知った顔。
「またかよ!」
征二郎は思わず叫んだ。