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10 過剰と欠落

 薄暗い部屋の中、パソコンのディスプレイがぼうっと白く光っていた。
 カタカタというキーボードの音に合わせて、ディスプレイに文字が連ねられていく。
「滝護宏。一九XX年十二月二十八日生まれ、十六歳。金剛市立みのり小学校、同じく市立第三中学校を経て、現在私立黎明館高校二年A組。金剛市上恒(かみつね)町在住。家族構成は両親と妹一人。退魔師登録なし。妖魔遭遇記録、不明……」
 キーボードを打つ手は、そこでしばし止まる。
「不明、か」
 思案するようなつぶやき。
 ややあって、つぶやきの主は自分に言い聞かせるようにゆっくりと続けた。
「……少し、仕掛けてみんとな」

 

1 荘厳な世界のただ中で (上)

 部活動中の弓道場は、思ったよりも静かだった。やわらかな日の光が降り注ぐ芝生の向こうに、的が五つ並んでいるのが見える。手前の板の間には、黒い袴と白い道着に身を包んだ弓道部員が五人、左手に弓を、右手に矢を持って、同じ姿勢で座っていた。
 圭一郎と征二郎は、入口からそっと中を見渡した。
「いる? 護宏」
「うーん」
 圭一郎はもう一度中を見渡す。座っている部員の後ろには、順番を待っているのだろうか、弓矢を持たない部員たちが立っている。滝護宏はその中にはいないようだった。
 護宏の記憶に潜む過剰と欠落。圭一郎はその話を詳しく聞くために、護宏と沙耶と会って話す約束をした。その日が今日である。
 約束の時間にはまだ四十分ほどあったが、姿の見えない護宏を探して、二人は弓道場に来たところだった。
「あ、宝珠君?」
 後ろにいた部員の中に、覚えのある顔があった。部長の早瀬あゆみである。圭一郎たちを見つけ、こちらにやって来た。
「ここに来るなんて珍しいね。二人そろってどうしたの?」
「あ、ええと、滝は……?」
「滝くんなら、奥で弦の手入れしてたけど……あ、来た来た」
 早瀬が指してみせた方を見ると、護宏がこちらへ歩いて来るところだった。道着を着て、手には弓と矢を持っている。
「一手だけ待ってくれ」
 護宏は二人に気づき、そう言った。ついで早瀬に向かって声をかける。
「早瀬さん、悪いけれど用事があるんで、次で上がらせてもらう」
「あ、なるほど。宝珠くんたちは迎えに来たわけね」
 早瀬はうなずく。
「じゃあさ、せっかくだから滝くんの射、見ていってよ。結構すごいんだから」
「はあ」
 早瀬に促されるままに、二人は靴を脱いで板の間に上がり、後ろで待つ部員たちの横に座る。弓矢を持って的に向かっていた五人は、既に矢を放ち、順番に退場しつつある。早瀬は退場した五人に一人ずつ声をかけ、なにやらアドバイスを始めた。
「審査が近いんだ」
 不意に左から声がした。見ると、護宏が弓矢を持って立っており、すぐ後ろに四人の部員が同じように弓矢を持って並んでいた。
「審査って?」
「段や級を認定してもらう審査だ。一年生にとっては初めてだから、そのための練習をしている」
「えー、だっておまえ、一年生じゃないじゃん」
 征二郎の言葉に、護宏はわずかに苦笑する。
「滝先輩は、お手本を見せて下さるんです」
 護宏のすぐ後ろに並んでいた、一年生とおぼしき女子生徒が口をはさんだ。
「審査用のやり方って、ふだん試合とかでやってるのと違うから、先輩か部長に教えてもらわないと私たち、わかんなくて」
「飯島、出るぞ」
 護宏が静かにさえぎる。左手に弓を、右手に矢を二本持って、肘を横に張り、拳を腰のあたりにつけた姿勢を取っていた。さきほど的に矢を射ていた五人と同じ姿勢である。
「は、はい、よろしくお願いしますっ!」
 飯島と呼ばれた一年生は、あわてて護宏と同じ姿勢を取った。飯島の後ろには三人、同じ姿勢を取った一年生女子が続く。
「弓道って、弓引っ張って矢を的に当てるだけとか思ってるんじゃない?」
 いつの間にか、一年生の指導を終えた早瀬がすぐ横に来ていた。
「違うの?」
「うん。見ててごらん」
 的に向かって横一列に並んだ五人は、一度座ってから再び立ち上がり、一斉に数歩前へ進み出た。膝をつき、向きを変えて弓に矢をつがえ、そのまま立ち上がる。
「立ったり座ったり、大変なんだな」
 征二郎が小声で言う。たしかに弓を引き絞るまでの動作が、思っていたよりも多い。
「金森、まだ立っちゃだめ!」
 早瀬が三番目の女子生徒に指示を出す。立ち上がるタイミングにも規則があるようだが、圭一郎にはよくわからなかった。
 先頭の護宏は、矢をつがえた弓を両手で持ち、高々と上げてから左右に引き分けていく。
「……」
 弓道の正しい型がどんなものか、圭一郎は知らない。だが、左右に均整の取れた護宏の引き方は綺麗だと思う。
 それも、ただ形が整っているだけではない。
 いつしか弓道場の中は静まり返っていた。静けさの中、護宏は弓を引ききった状態でぴたりと静止した。狙いを定めているのだろう。
 ただ、弓を引っ張っているだけだ。外から見れば、動きなどほとんどない。
 それなのになにか、目に見えない気迫のようなものが感じられた。圭一郎だけではない。誰もが思わず目を引きつけられ、かたずを呑んで見守っている。
 なにかがじわじわと臨界点に達しつつあるような気がした。
(……来る!)
 圭一郎がそう思った瞬間、鋭い音が二つ、一秒と間をおかずに響いた。
 的を見ると、中心付近に矢が突き立っているのが見える。あの音は恐らく、矢を放った音と的に当たった音だったのだろう。
「すげ……え」
 征二郎のつぶやきが聞こえた。
「でしょう? 次は二番の子を見て」
 飯島という一年生が、護宏と同じように矢をつがえた手を上げ、左右に引き分けていく。バランスはそれなりに取れているが、護宏の射に比べるとひどく気の抜けたものに感じられた。
「ずいぶん違うんだ」
 征二郎も同じ印象を抱いたようだった。
「やってることは同じはずなんだけどね」
 早瀬が応じる。
「気合っていうのかな。あれはうちの誰もまねできないのよね」
「そうなんだ」
 早瀬と征二郎の会話を聞きながら、圭一郎はじっと護宏を見ていた。もう一本の矢を持ち、座って順番を待っている彼は、微動だにしない。まるでそこが世界の中心であるかのように、彼を取り巻く空気は静かだった。
(あの気配だ)
 時折護宏から感じられる、奇妙な気配。
 だが、この場においてはそれすらも、護宏を中心とする世界を取り巻くほんの一部、それも自然な一端に過ぎないように思われた。
 この間、なにも音がしていなかったはずはない。的前に立った一年生たちが順番に矢を放つ音がしていたはずである。だが、圭一郎にはそれらは聞こえていなかった。
 護宏の作り出す荘厳で静かな世界に、ただ圧倒されていた。
(ただの気迫とか気合とかじゃない。これは、もっとなにか……)
 だが、それがなにかはどうしてもわからなかった。

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