「……！」
戦う、としか形容のしようがなかった。
護宏の目の前には、立ち枯れた木のような妖魔がいた。妖魔から生え出た長いつる状の触手とが、無数の鞭のようにしなって護宏に襲いかかる。護宏は体をかわしつつ左腕で避け切れない触手を払う。払い切れなかった触手が、護宏の腕や肩をかすめる。
触手の速度としなり具合から判断するに、決して無傷では済まない衝撃を受けているはずだ。
それでも護宏は、妖魔から離れようとはしない。小刻みに前後の移動を繰り返しながら逆に妖魔のもとへ踏み込んでいく。
妖魔に接近した護宏に、今度は鋭いとげのついた短い触手が襲いかかる。それでも護宏はひるむ様子を見せなかった。すっと沈み込み、空を切った触手を右手でつかむ。
右手首で守り袋が揺れているのが見えた。中の珠のせいか、つかまれた触手はだらりと垂れ下がって力を失う。それを逆手に持ち替え、護宏はさらに踏み込んで妖魔に突き立てようとする。致命的なダメージには至らなかったが、何本かの触手の動きを止めることはできたようだ。
護宏はなおも反撃の手を緩めない。たえず攻撃を受けつつも、一歩も引かずに触手の動きを封じていく。
（どうしたんだ？ 滝……）
冷静沈着な護宏が、常ならず攻撃的だ。
「沙耶を離せっ！」
護宏の叫びに圭一郎ははっとして、数メートル離れた鉄棒のそばに座り込んでいる沙耶に目をやった。足首に触手がからみついている。鉄棒の支柱をしっかりとつかんでいるのは、妖魔に引き寄せられないようにしているためだろう。その手首にも、触手がからんでいるのが見えた。
合点がいった。護宏は、触手に捕らえられた沙耶を救うために戦っているのだ。妖魔を倒す武器も持たずに、素手で。
当然だ。妖魔を倒す武器を持つのは、退魔師だけなのだから。
武器を持つのは。
「……」
圭一郎は手に持った宝珠に目を落とす。
この宝珠が、妖魔退治の武器となる。だが彼には、これを使って妖魔を倒すことはできない。この場にいながら、彼にはなりゆきを見守ることしかできないのだ。
（まだか、征二郎！）
圭一郎は公園の入口を見やった。この公園までは、自宅よりも本家のほうが近い。どんなに急いだとしても、連絡を受けた征二郎がやって来るまでには、あと数分はかかりそうだ。
圭一郎の手の中に輝きが生まれる。宝珠が光り、剣と化す。圭一郎は右手につかを、左手に鞘を握り、渾身の力をこめて引いた。
鞘はびくともしない。
「抜けろ！ 抜けろったら、このおっ！」
無駄だった。
とうにわかっている事実は、圭一郎をうちのめす。
「くっ……」
退魔師の一族、宝珠家の当主が、妖魔にとらわれ、あるいは戦う知人を前にしながら、なにもできない。
（どうして僕じゃだめなんだ！）
剣を叩きつけたい衝動にかられた時。
ふと、視野の片隅に影がさしたような気がして、圭一郎は顔を上げる。
黒い影が沙耶の近くに立っていた。妖魔の気配が感じられる。
（もう一体？）
よく見ると、影のように見えたのは、それが身にまとう服のせいだったらしい。黒い篠懸衣（すずかけごろも）と輪袈裟、片手に錫杖を持ち、頭に小さな頭巾（ときん）。修験者のような服装だが、明らかに人とは異なる特徴があった。
くちばしを持つ鳥のような顔と、黒い翼。
（烏天狗？）
天狗は想像上の怪物だが、圭一郎の知る限り、そのような形の妖魔は記録されていない。素性の知れぬ存在を前に、圭一郎は宝珠の剣を握り締めて様子をうかがった。
天狗は触手にからみつかれて座り込む沙耶を見下ろし、錫杖をたかだかと掲げた。しゃらん、と澄んだ音がする。
振り下ろそうとしているのだと、圭一郎は直感した。
その先には、沙耶がいる。
（出水さんを助けなきゃ！）
圭一郎は鞘のままの宝珠の剣を持ち、天狗に駆け寄ろうとした。斬ることはできなくても、殴りつけるぐらいはできるだろう。
が。
「待って圭一郎さん、わたしは大丈夫！」
飛び出した圭一郎に気づいた沙耶が叫ぶ。
「えっ？」
圭一郎が立ち止まった瞬間、天狗の錫杖が突き立てるように振り下ろされた。
錫杖は沙耶の足元に突き立てられ、沙耶を捕らえていた触手をぶつりと断ち切る。
天狗は沙耶が妖魔から自由になったのを確認するかのように、わずかに顔を傾けた。そしてそのまま無言で姿を消す。
（出水さんを助けに来たのか）
恐らくは、ナギと同様の存在だったのだ――そう、圭一郎は理解する。
だが、なぜ沙耶を助けるだけで消えてしまったのだろうか。護宏は今も戦っているのに。
「なにボケっとしてるんだよ！」
突然、宝珠の剣がもぎ取られる。征二郎だ。
「こっちだろうが！」
征二郎の手に握られた剣は、既に鞘が払われ、にぶい輝きを見せている。圭一郎にはどうしても抜けなかった剣を、征二郎はいともたやすく抜き放ってしまえるのだ。
圭一郎は複雑な思いで状況を見守った。征二郎は護宏の横から回り込むように妖魔に向かう。護宏に攻撃を集中していた妖魔の触手が、ざわざわと向きを変えようとした。
護宏が短い触手を握ったまま一歩退いたところに、剣を短めに構えた征二郎が駆け寄り、一息に突きを繰り出す。木のような外見に相違して、剣はたやすく幹を刺し貫いた。
次の瞬間、妖魔が塵のように消えていく。
しばらくの間、だれも口をきかなかった。自宅からここまで走りどおしだったのか、征二郎が剣を持ったまま荒い息をついている。
沙耶が心配そうな表情で駆け寄っていったが、先に口を開いたのは護宏だった。
「怪我はないか？」
「うん、護宏こそ大丈夫なの？」
「大したことはない」
口調はふだんのままだが、彼が無傷ではないことはわかる。薄暗い街灯ではよく見えないものの、制服のあちこちに血のようなしみが見えるし、端正な顔には引っかかれたような傷がいくつもある。
それでも護宏は、傷が痛むそぶりすら見せなかった。
「征二郎、助かった。ありがとう」
「なーに、いつだって俺に任せろって」
ようやく息をととのえた征二郎が調子よく答える。それに軽く手を上げて応え、護宏はそのまま圭一郎の方に歩いてきた。
圭一郎は思わず目を伏せた。
状況を見守っていながら、自分はなにもできなかった――そんな思いにかられ、傷ついた護宏の姿を正面から見る気になれなかったのである。
「圭一郎」
護宏はいつもの冷静な態度を取り戻していた。なにごともなかったかのように、圭一郎に声をかける。
圭一郎は思わずわびの言葉を口にする。
「その……ごめん。僕、見ていたのになにもできなかった」
「気にするな。俺もそうだ」
「えっ」
圭一郎は思わず顔を上げる。
意味がよくわからない。あれだけ戦っていた彼が、なにもできなかったはずはなかろう――そう言いかけて、はっと気づく。
結局妖魔を倒したのは征二郎だったし、沙耶を触手から解放したのはあの烏天狗だった。妖魔の攻撃から沙耶を守ることはできたが、決定的なことを護宏はなしえなかった。
彼が言いたかったのは、そういうことなのだろうか。
だが護宏はもうそんなことを蒸し返すつもりはないようだった。圭一郎に尋ねたのはまったく別のことである。
「あの妖魔がどんなやつか、わかるか？」
「ええと」
圭一郎はデータベースの記録を思い起こす。
「樹怪って通称のやつだと思う。木の間にまぎれて、そばを通った人を襲う傷害型なんだ」
「……」
「なにか気になることでも？」
「沙耶がつかまったのは、通りを歩いている時だった。本体はここにいて、触手だけ伸ばしてきた。そんなに離れていても『そば』になるのか？」
「それは……」
圭一郎は返事につまる。通りからここまで数十メートルはある。樹怪がそんなに遠くにまで触手を伸ばすとは聞いたことがないが、ありえないと断言できることではなかった。
「珍しいケースだとは思うけど」
「そうか」
護宏は夜の闇に溶け込んだ公園の木々を眺めわたす。そして、梢の一点をにらむように見つめながらつぶやいた。
「この場所に誘い込まれたような気がするが……考え過ぎか」
「！」
思い浮かんだのは、妖魔を利用していた謎の男の存在だ。だが彼が、退魔師ではない護宏たちを狙う理由は思いつかなかった。