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13 封印の数珠 前編

3 妖魔という幻

「やあ、どうしたんだい? 二人とも」
 黎明館大学のラウンジで圭一郎たちを待っていた吉住は、会うなりそう尋ねた。
「いえ、ちょっとやっかいなことになってまして」
 吉住とテーブルを挟んで向かいの椅子に腰をかけ、圭一郎が答える。その顔には明らかに疲れ切った表情が浮かんでいた。
「僕たちのうしろ……ドアのあたりに、なにか見えませんか?」
「ん?」
 吉住は圭一郎と征二郎の間からドアの方を見やって、軽くあっと声を上げる。
「あれ、妖魔?」
「そうなんです」
 形ははっきりしないが、黒い影のようなものがドアの陰からこちらをうかがっているのが見える。
 吉住は、振り向こうともしない二人に尋ねた。
「退治しないの? いつもみたいにさ」
「それが、だめなんですよ」
 圭一郎は深々とため息をつく。
「僕たちが近づくと、消えるんです」
「消える?」
「ええ。見ててください」
 圭一郎が立ち上がり、妖魔の方を向くと、影は地面に溶け込むように消えていく。
 が、圭一郎が腰をかけなおすと、同じ場所にまた影が現れた。
「こんな具合に、ずっとつけまわされてるんですが、退治できなくて。もう三日ぐらいたつんです」
「たしかに、それは大変だね」
「リンリンさんに来てもらった時も消えてたよな」
 征二郎もうんざりした顔だ。
「近くで気配がするから気になって他のことが手につきません。今日の小テストなんてあきれる間違い方したし」
「はは、いったいどうしたんだい?」
「百人一首の歌を書くテストだったんですけど『もみぢの錦』って書くところを『もみぢの綿』って書いてしまったんです。パーフェクト狙ってたのに」
 よほど悔しいミスだったのか、圭一郎の口調が愚痴っぽい。吉住はあいまいなあいづちを打った。
「それだけ気になってたんだね」
「妖魔ですから」
「タイプは調べた?」
「たぶん『ストーカータイプ』だと思います」
 迷惑型の妖魔で、特定の人物をどこまでもつけまわすものが「ストーカータイプ」だ。特に危害を加えるわけではなく、つけまわされた人が気づかない場合もある。だが妖魔の気配を感じ取ることができる圭一郎にとっては、すぐ見えるところから見張られているのと同じことだ。
「でもさ、見たところなにか人に危害を加えるわけでもなさそうだし、とりあえず放っておいていいんじゃないかな。気にしないようにしてさ」
「……そうですね、そうします」
 圭一郎は無理に笑顔を浮かべてみせる。それができるならとっくにそうしているのだが、吉住としては他に言いようもないだろうということはわかっていた。
「それで、見せたい資料ってなんですか?」
「うん、これ。木島さんにもらったやつも入ってる」
 吉住は何冊かのファイルをテーブルの上に置いた。
「木島さんに?」
「うん、彼女アメリカに行くから。それで妖魔関連の資料を譲ってくれたんだ」
「アメリカ?」
 圭一郎は聞き返す。先日、前田の話を聞いた時にはそんな様子はなかった。
「うん、急な話だけどね」
「そうですか……」
 なんとなく、わかる気がした。
 木島は前田とのつながりを切り、妖魔の問題からも手を引くつもりなのだ。自分たちに話してくれたのは、置き土産のつもりだったのだろうか。
「これが、初期の研究会の議事録。妖魔とはなにか、ということで諸説が出たころだよ」
 圭一郎は議事録に目を通す。
「妖魔の発生に関する諸説について。新種説、自然現象説……」
 妖魔とはなにか。
 さまざまな分野の研究者たちが、それぞれの立場から説を提唱しているらしい。
 圭一郎は議事録を読みふける。
 どうやら大きく分けて、妖魔を生物とみなすか、物理現象とみなすか、幻想とみなすかという点で説が分かれるらしい。
 目の前でとん、と軽い音がした。目を上げると、征二郎がペットボトルを目の前に置いた音だった。
「買ってきてくれたんだ」
「喉かわいたし。おまえこういうの好きだろ?」
 圭一郎はペットボトルを見る。「醸し茶」と書かれた、初めて見るラベルだ。どうやら新製品の茶らしい。「ウーロン茶をさらに発酵させ、熟成させた新しい味わいのお茶です」などと書いてある。
 新しい茶をつい試してみずにはいられない自分の性格が見すかされていて、少し気恥ずかしく思った。
「そ、そうだね。ありがとう」
 圭一郎はキャップを開け、一口飲む。
(……紅茶じゃん)
 茶葉を発酵させると紅茶になるが、発酵を途中で止めたものがウーロン茶だ。ウーロン茶の発酵を進めたら、それは要するに紅茶ではなかろうか。
 そう思ったが、口には出さない。
「で、議事録読んだんだろ? なんて書いてあったんだ?」
「うん、妖魔はなにかっていうんで、生物か物理現象か幻想か、ってことで説が分かれてるみたいなんだ」
「で?」
「生物とみなす流れには『新種説』と『突然変異説』がある。物理現象とするのは『自然現象説』『偶発説』、幻想っていうのは『幻覚説』『共同幻想説』だね」
「テレビだと妖怪とか霊魂とか宇宙人とか異次元生命体とかもあったけど?」
「ええと、それは」
 そんなものは議事録にはない。言葉に詰まった圭一郎を、吉住がフォローする。
「そのあたりは、そもそも証明の方法がないからねえ。あんまり学術研究とは見なされてないな」
「なーんだ」
 征二郎はつまらなそうにつぶやく。
(そんなのが入った研究会の方が、なんか嫌だ)
 圭一郎はそう思いながら、議事録の続きを読む。
「あの、吉住さん」
 ふと疑問に思ったことを吉住に尋ねてみた。
「生物とか物理現象とかはわかるんですけど、幻想って……?」
「妖魔は僕たちが作り出す夢のようなものじゃないか、っていう立場なんだ。夢の中でなら、物理的に起こり得ない現象だって起こるだろう?」
「夢って……それはそうですけど」
「もちろん僕たちが寝てるとか、そういうものじゃない。なんらかのきっかけがあって、みんなが同じ幻覚を見ているんじゃないか、ってことだよ」
「妖魔は現実に存在するものじゃない……?」
 口にしてみると、意外に納得がいくような気がした。
 妖魔を間近で見続けていると、それが血の通った生物であるという感じがしないのがわかる。形は生物のようであっても、生物の息遣いや生々しさがどこか感じられないのだ。
「存在しない、とまでは言い切れないけれどね。なにかの現象を、妖魔がやっているように解釈してしまっているかも知れない」
「どういうことです?」
「君たち、落ちる夢を見て目を覚ましたらベッドから落ちてた、なんてことはないかい?」
「あ、俺よくある。あと雪山の夢から覚めたら布団かかってなかった、とか」
 征二郎がすかさず答える。
「そんな感じ。外的条件を脳が解釈しているんだ。たとえばかまいたちタイプの妖魔は、温度差と乾燥によって皮膚が切り裂かれるという自然現象を伝承で解釈した結果、イタチのような動物が走り回っているように見えてしまうんじゃないか、ってね」
「でも、それでみんなに同じように見えるものなんでしょうか。『イタチみたい』って伝承があったって、イタチを見たことない人だっているでしょうし」
「そこが、幻覚説と共同幻想説の違いなんだ」
「?」
「妖魔の存在を個人の解釈によるものだとしてしまうと、圭一郎君が言ったみたいに、みんな共通して了解できる姿に見えることの説明がつかないよね? 共同幻想説は、その社会にいる人たちがある程度共通したイメージを持っているようなものが、妖魔による現象だと理解されるっていうものなんだ」
「う〜ん」
 なんだか、むやみに難しい。
 圭一郎は懸命に理解の糸口を探す。
「オブジェの形が、クラスによって違ってたりとか?」
「そう、それだよ。まさにそれ。君たちの学校でのオブジェ騒動は、それぞれのクラスで強くイメージされていたものが形を取っていた――あるいはそう認識された」
「でも、じゃあ僕が感じる気配って……?」
「そこまではまだわからない。これも仮説のひとつにすぎないわけだし、研究会でも結論が出ていないことなんだ」
「実証できないから?」
「うん。退治すると消えてしまうから」
(それなのに、人が実際に怪我したり死んでしまったりする)
 圭一郎は思う。自分自身、妖魔の下敷きになったり殴られて眼鏡を強奪されたりしたし、なにより彼の脳裏には、廃校舎で見た血だまりが焼きついて離れない。
 研究者たちは証拠が手に入らないながらも地道に妖魔を理解しようとしている。出現の記録を取り、タイプ別に分類し、行動パターンを分析し、分野を越えた連携を取って。
 それでも、妖魔にはまだたどり着いていない。
 恐らく、未知の要因があるのだ。
「摩尼珠ってさ、そういう願いもかなえるのかな?」
 不意に征二郎が尋ねる。
 圭一郎ははっとした。
「ありうるかも。でも、今はまだできてないだろ? せいぜい妖魔を操って合成するぐらいでさ」
「妖魔を操って合成? なんの話だい?」
 吉住が口を挟む。
(しまった)
 前田の件は、吉住にはまだ話していない。以前吉住と入江に相談した時は、そんなことが可能かどうかもわかっていなかったからだ。
「この間の、妖魔が人為的に操作されているっていう話……なにかわかったのかい?」
「あ、いや、まあ」
 たたみかけるように尋ねる吉住にどこまで話したものか、圭一郎は迷う。
「ええと、この間僕がデータベースに登録した妖魔、覚えてますか?」
「あの、タイプが二つ書かれてたやつ? この近くで出現したっていう」
「はい」
 圭一郎はうなずく。
「あれは二種類の妖魔を合成したものだったようなんです」
「合成って、そんなことをだれかやってるんだ?」
「ええ。僕はまだ会ったことはないんですが、前田という退魔師だった男、だそうです。彼が――ええと、怪しく聞こえるかも知れないんですが――願いのかなう道具というのを持っていて、それで妖魔を操ろうとしているようなんです」
 吉住の髭面に困惑した表情がよぎるのを、圭一郎は見逃さなかった。たしかに、にわかには信じがたい話だろう。圭一郎自身も、話していて時折当惑を感じている。
 どうしてそんなことが起こり得るのか、ということが、現実に起こっている。護宏の気配やナギたちの存在にしても同じことだ。そもそも自分が妖魔の気配を感じ取ったり、白い珠を望むだけで剣に変えたりできるということも、説明のできない現象だ。
 いったいどこまでが現実なのか。吉住が教えてくれた仮説のように、自分たちはひょっとしたら、それとは気づかずに幻を見ているのではないだろうか。
「……ええと、願いがかなう道具ねえ、見てみたい気もするかな」
 吉住はあいまいな反応を返す。ほかに返しようもなかったのだろう。
「でもそんなことをして、その前田って人はなにをしようとしてるんだ?」
「それはわかりません。でも……僕たちちょっと邪魔に思われてるらしくて、この間も妖魔に狙われたし」
「狙われた?」
 穏やかでない表現に、吉住はひどく驚いたようだった。
「まさか、この間君が入院したのって?」
「はい」
「ちょっとそれはまずいんじゃないか?」
「ええ、でも……そいつが何者かもよくわからないし、この間の入江さんの話にもあったけど、妖魔に人を襲わせても、法律じゃなにもできないんでしょう?」
「それはそうだけど、せめて入江さんには話しておいた方がいいんじゃないかな。あ、でもそれだけじゃ……ええと、こういう場合はどうしたらいいんだ?」
 吉住はもどかしげな表情のまま、ぶつぶつとつぶやいている。なんとかできることを見つけようと懸命な様子だ。
「あっ、そうだ」
 ようやくなにか思いついたことがあるらしい。
「元退魔師なら、データベースの登録で記録が残っているかも知れないな。この間利用記録を調べた時には引っ掛からなかったけど、登録だけして利用してない場合もあるかも知れない。また見てみるよ」
「そうですね、お願いします」
 退魔師といっても、その力を持つ者がすべて地方自治体に届け出ているわけでも、情報を提供しているわけでもない。届け出ることによって税金の控除が受けられるというメリットはあっても、義務ではないのだ。
 だから前田がデータベースに登録したことのある人物かどうかは怪しいところだが、それでも確認しておくことは必要だろう。

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