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15 神坐ます場所

2 国語教師の夢

 分厚い封筒を、安原はしょんぼりと見下ろした。
 中身は見ずともわかっている。出版社に送った論文だ。たぶん、検討したが出版はできないという内容の慇懃かつ事務的な文書も添えられていることだろう。
 もう何度目になるだろうか。
 彼はいわゆる研究の領域で訓練を積んだことはない。高校教師一筋、授業準備のかたわら、趣味でこつこつと独自の解釈理論をつくりあげてきたが、それをどう発表してよいかよくわからなかった。
 図書館で学会誌は読むが、論文を投稿できるのはたいがい会員に限られていたし、会員に推薦してくれそうな人も身近にはいない。
 そんな彼が半年ほど前に思いついたのが、出版社に論文を送って出版を検討してもらうという手段である。
 だが、論文を送った出版社からはことごとく断られていた。
 もちろん、論文の内容はそのつど手直ししている。新たに書き加えた部分も多い。最近は生徒に書いた論文を渡すようにしたためか、順調に筆が進み、論文は初めの三倍ほどになっていた。量から言えば、大著といってもよいかも知れない。
 それを世に著すあてだけがなかった。
 今回論文を送るにあたって、安原はひとつの決意を固めていた。
 駄目だったら、あきらめる。
 文学理論を扱っている出版社には大概送っていた。もう扱ってくれそうなところは思いあたらない。
 それに、送り返された論文を見ていたたまれない気分になることにも、もう疲れていた。このあたりが引き際なのではないかと思う。
 それだけに、今回の手の入れようは並々ではなかった。膨大な全体を検討して構成を変え、新たな考証を加えた。もうこれ以上一字たりとも修正しようがないと思えるに至ってやっと、彼は最後の封をすることができた。
 それが送り返されてきたのは、昨日のことだった。
「はあ……」
 昼休みの職員室、ため息ばかりが出る。昨晩ポストの封筒に気づいた時、とっさにカバンにほうり込み、そのまま学校に持って来てしまった。
 あまり現実を直視したくなかったのだが、こうして見ていると認めざるを得ない。
 決めたのだ。自分で。駄目だったらあきらめる、と。
 そして駄目だったのだ。
 ならば、取るべき道はひとつしかない。
 安原は力なく立ち上がり、封筒を手に職員室をあとにした。

 安原が向かったのは、校舎裏手の焼却炉だった。煙突から煙は出ていなかったが、近寄るとほんのりと熱を感じる。少し前まで使われていたようだが、今は何かが燃やされているわけではないようだった。
(今のうちだ)
 原稿を燃やし、過去への決別のあかしとするつもりだった。
 もちろんワープロソフトで書かれたものだから、家のパソコンにはまだデータが残っている。それも帰宅してから消去する。
 安原は焼却炉を開け、封筒からびっしりと文字が印刷された紙の束を取り出す。紙をまとめて燃やしてしまうと、重なり合った部分が燃え残ってしまいやすい。少しずつばらして順番に燃やしていく方が確実に灰にできるだろう。
 適当な枚数を手に取り、扇の形に広げる。ちらちらと見える文字に未練がましく目を落としていたが、やがて思い切ったように頭を振り、一気に焼却炉に突っ込み、点火した。
 煙突から煙が立ちのぼっていく。何年にもわたって書きためてきた汗の結晶が、その存在を永遠に失おうとしているのだ。
(本の神様でもいて、これを本にしてくれたら)
 唐突に頭に浮かんだ考え。
 ファンタジーにしても、虫がよすぎる。そんなものがいるはずはないし、いたとしても一介の高校教師にその恩寵を与える筋合いはない。
 ばかばかしい、と苦笑しようとした時、安原の目に妙なものが止まった。
「?」
 灰色の小さな動物が、焼却炉の横に座っている。人里に迷い込んだタヌキかなにかかとも思ったが、明らかにそれらの動物とは異なる様子だった。
 それが口を開け、息を吸い込むような動作をする。煙突から吐き出される煙がその口に吸い込まれていった。ついでその動物が白い煙を吐き出すと、それは安原の目の前でもやもやと固まっていく。
 安原の論文を燃やした煙を吸い、白い煙を吐き出す。繰り返すごとに、白い煙の塊は少しずつはっきりと、ひとつの形を取っていった。
 安原は目を見張った。
 それは、積み重ねられた本に見えた。
(まさか……)
 安原は煙の塊と動物を交互に見比べた。
 動物は変わらず煙を吸い、吐き出し続けている。
 そんなことがあるはずはない。
 思わず頬をつねると、確かな痛みが感じられた。これは夢ではない。
「先生、なにやってんの」
 不意に声がかけられ、安原はひどく驚く。目の前で起こっている信じ難いできごとに気を取られ、周囲に人がいるかどうかなど気づいていなかった。
 振り向くと、男子生徒が一人、怪訝そうにこちらを見ている。二年A組の、確か宝珠という生徒だ。退魔師の双子のかたわれで、以前自分の授業中に妖魔が出現した時に退治してくれたことがある。
「あ、いや、なにか用かな?」
「ゴミ捨てに来ただけだけ。なに顔引きつらせて固まってるのかと思って」
「ええと、その……」
 安原がどう答えたものかと迷っているうちに、征二郎のほうが先に動物に気づいたようだった。
「それ、なに? なんか煙吐いてるけど」
「やっぱり夢じゃないんだ!」
 征二郎の言葉は、目の前のできごとがまぎれもなく現実であることを保証してくれるように、安原には感じられた。
「これはな、本の神様なんだよ!」
「はあ?」
 征二郎は明らかに面食らった声だったが、安原はかまわず興奮気味に続ける。
「ほら見たまえ、煙が本になっていくだろう?」
「えー? なんだよそれ」
 征二郎は当惑した表情のまま、動物と煙を注視している。
「あ、ほんとだ。本になってる」
「だろう? 奇跡が今ここで起こっているんだよ!」
 こんな場面に立ち会うことができるなんて自分たちは運がいい、というようなことを、安原は早口でまくし立てる。誰でもいいからこの奇跡的な体験を共有したかった。
「へえ、なんかすごいな」
 征二郎もこのできごとの重大さを理解したのか、捨てに来たゴミを地面に置いて、興味深げになりゆきを見守っている。
「で、これなんの本なわけ?」
「僕の論文さ。ずっと出版したかったのを神様が聞き届けてくれたんだ」
「ふーん。ああ、いつも護宏に渡してたあれか」
 なぜそんなことを征二郎が知っているのかはわからなかったが、安原はそんなことを気にはしていない。彼の頭にあるのは、この本が全国の書店に並んでいる図だった。自分が書き続けてきたものがようやく認められつつある。これは、その始まりなのだ。

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