[index][prev][next]

16 ことばのチカラ

1 退魔師の資格

「よし、じゃあ今日の実験はここまで。レポートの期限は来週だ」
 理科実験室で白衣を着た化学の教師が授業をしめくくると、二年A組の生徒たちはぞろぞろと教室に戻り始めた。
「あ、日直は器具を準備室に片付けておいてくれ」
「はーい」
 教師に準備室の鍵を渡され、征二郎はいかにも気乗りしなさそうに返事をした。
「征二郎くん、ごめん」
 肩をつんつんとつつかれた。征二郎と同じく今日の日直の女子生徒だ。
「次の数学、ノート忘れちゃって。B組の子に借りに行くから、片付け任せちゃっていいかな?」
「あー、いいよ別に」
「ほんとごめん。じゃ」
 彼女が小走りに実験室を出て行くのを見送ってから、征二郎は机の上を見渡した。準備室に持って行く器具が木箱に入れられて並んでいる。引き受けてしまったとはいえ、一人で持って行くのはいかにも面倒そうだ。
 クラスメイトたちははやばやと移動を始めている。手伝ってくれそうな相手を探して周囲を見回すと、ふと滝護宏が目に入った。
 たぶん彼ならば、次の時間の予習がまだだとかノートを忘れたとかいうようなことはあるまい。
「護宏ー」
 征二郎は声をかけてみる。
「器具戻すの手伝ってくれない? 古川さんノート借りに行っちゃってさあ」
 護宏は振り向いて、無言のまま征二郎を見た。
 考えてみれば、護宏に妖魔関連以外の頼みごとをするのは初めてだった。他人を寄せ付けない雰囲気を持つ彼には、たいがいのクラスメイトは臆してしまい、安易な頼みごとなどできない。
 少し前までは征二郎もそうだった。
 が、護宏が見た目よりはるかに他人を気遣っているのを、征二郎はもう知っている。今もたぶん、変化のない表情の奥で、しかたないな、などと思っているのだろう。
「……」
 護宏は無言でノートを机の上に置き、器具の箱を抱え上げる。
「わっ、やってくれるんだ。ありがとな!」
 征二郎は片手に鍵を、もう片方の手に木箱を持ち、護宏の前にまわりこんで準備室に急いだ。

 理科準備室は実験室の隣にある。狭い部屋の中には戸棚が並び、さまざまな実験器具がしまい込まれていた。征二郎は戸棚の鍵を開け、護宏に渡された器具を所定の位置に戻していく。
「……なあ」
 しばらく無言で作業を続けていた二人だが、先に沈黙を破ったのは征二郎だった。
 護宏はわずかに征二郎の方に顔を向ける。
「俺ってさ、退魔師の資格あると思う?」
 それは昼休みが終わってから授業の間、彼なりに考え込んでいたことだった。
 元来征二郎は悩むことなどめったにない。圭一郎が悩んでいるのはよく見かけるが、征二郎はなぜ兄がそんなに簡単に落ち込むのかわからなかった。だから、昼休みの一件以来なんだかいつもの調子が出ず苛々している自分にむしろ戸惑っている。
 たぶん自分はへこんでいる。
 そう思った時、頭をもたげてきた問い。
(俺には退魔師をやる資格なんかないんじゃないかな)
 嫌な考えだった。
 だが振り払おうとすればするほど、それは征二郎の心に重くのしかかってくる。
 こういう時どうしていいのかなどわからなかった。ただなんとなく、目の前の護宏に話したら少し楽になれそうだと思っただけだった。
 が、昼休みの一件を知らない護宏にはあまりに唐突な話だったらしい。怪訝そうな視線に気づき、征二郎はあわてて付け加えた。
「あ、そうだよな。急でわけわかんないよな、これじゃ」
  征二郎は引出しを開けてピペットをしまい込みながら言った。
「あのさ、昼休みに妖魔退治したんだけど、俺、目の前に妖魔がいたのにわかんなかったんだ。前にも見たことのあるタイプだったのに、全然気がつかなくて……本の神様だとか言われて真に受けちゃってさ。退魔師なら気づけって圭一郎に言われたけど、言い返せなかった」
「……」
 護宏は無言でガラス棒が入った箱を征二郎に渡す。それをピペットの手前にしまいつつ、征二郎は続けた。
「俺、剣抜いて斬ることしかできなくて、でもそれができるからいいんだってずっと思ってきたけど……それで退魔師だって言ってていいのかな。しなきゃならないことができないのにさ」
 引出しを閉め、鍵をかけて、護宏の方に顔を向けた。
「なんかさ、おまえがうらやましくて。宝珠もちゃんと使えるし」
「征二郎」
 護宏が初めて口を開いた。
「俺には、なにもできない」
「なに言ってんだよ、あれだけ……」
「違う」
 いくぶん強い調子で、護宏は征二郎の言葉をさえぎった。
「俺も……すべきだったことができなかった」
「へ?」
「なにか俺にしかできないことがあったはずなのに、俺はそれができなかった。そして取り返しのつかないことになってしまった」
「なにかって?」
「わからない。実際にあったことなのかも。ただずっと昔から、その無力感と後悔だけが俺の中にある」
 護宏が「記憶」の話をしているのだということを、征二郎は察した。
 なにをしたのか、本当に自分がそれをしたのかすらわからないのに、ただ無力感と後悔にさいなまれる――護宏はずっとそんな思いをしてきたのか。
「だから俺は、すべきことがわかっているおまえがむしろうらやましい」
「そう、かな」
 それが護宏の本心なのか、征二郎を励ますための方便なのかはわからなかったが、護宏はいつになく饒舌に語る。
「宝珠を扱えたところで、俺は退魔師じゃない。妖魔の現れるところに駆けつけて退治してまわるなんて、おそらく俺にはできない。おまえはそれをずっとやってきたんだろう?」  護宏は静かに、だがどこか諭すように続ける。 「資格があるかは、俺にはわからない。だがおまえはもうとっくに退魔師なんだと思う」
「……」
 すぐには言葉が出なかった。
 なにかがすとんと落ち、おさまるべきところにおさまった感覚。
「そっか」
 口元が我知らず緩んでいるのがわかった。
「俺、とっくに退魔師……か」
 そう口に出してみると、少しだけ胸のつかえが軽くなったような気がする。
「なんか、ちょっと楽になったかも。ありがとな」
「そうか」
 護宏はそのまま準備室のドアに手をかける。余計なことを一切口にしないところが彼らしいと、征二郎は思った。
 が。
「征二郎、なにか変だ」
 護宏がドアノブに手をかけたまま、こちらを向く。
「どうした?」
「開かない」
「え?」
 征二郎はドアに歩み寄る。護宏の言う通り、ドアノブは回るが、外からなにかに押さえつけられているかのようにドアが開かなかった。
「なんだ?」
「……外になにかあるようだ」
 ドアの上部にあるすりガラスのはめ込み窓に目をやって、護宏がつぶやいた。ガラスの外は見えないが、昼間にしては明らかに暗い。
「なんだよこれ、いたずらか?」
 征二郎は携帯電話を取り出し、ボタンを押す。
「堀井? 今理科準備室にいるんだけどさ。なんかドア開かなくて、外になにかあるみたいなんだ。悪いけど様子見てくれない?」

[index][prev][next]