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16 ことばのチカラ

2 白い境界

「!」
 妖魔の気配に、圭一郎は顔を上げた。
(校舎の中?)
「圭一郎、ここの答えこれでいい?」
 すぐ目の前のクラスメイトに尋ねられ、圭一郎はあわてて目を戻す。クラスメイトに数学の宿題の解き方を教えている最中だった。
「え、あ、そうじゃなくて、ここで(i)の式を代入しないと」
「あーそっか。じゃあちょっと待って……」
 考え込むクラスメイトを前にして、圭一郎は立ち上がるに立ち上がれない。
(気配は弱いし動いてもいないから、大丈夫かな)
 慎重に気配を探りつつ、クラスメイトの様子をうかがう。
「こうかな?」
「そう、ちゃんとできたじゃん」
「おお、解けた。ありがとう圭一郎!」
「うん、じゃ、ちょっと僕行くところあるから」
 一段落ついたと見て、圭一郎は立ち上がった。そのまま気配のするあたりに急ぐ。四階の技術室や理科実験室のあるあたりだ。
(騒ぎになってないといいけど)
 階段を上がったところで、圭一郎の足が止まった。
 まっすぐに伸びる廊下。北側には窓。教室は南側に並んでいる。
 教室側の壁面の色が、いつもと違っていた。
「なんだよこれ……」
 圭一郎は愕然として壁を眺めわたした。
 壁面が――濃い緑色のドアや金色のドアノブ、すりガラスの窓やアルミのサッシも含めて――白一色に塗りつぶされている。
 よく見ると、細い蜘蛛の糸のようなものが、びっしりと壁を覆っていた。
「あ、圭一郎! ちょうどよかった」
 正面から声がかけられる。見ると堀井が廊下の真ん中で手を振っていた。
「堀井、なんでここに?」
「征二郎から電話があってさ」
「電話ぁ?」
 休み時間とはいえ、校内でなにを電話しているというのだろうか。
「どこから?」
「そのへんだと思う」
 堀井は白く覆われた壁を指さした。真っ白な網がびっしりと張りめぐらされた壁面は、どこが壁でどこがドアだか判別がつかない。教室名が表示されたプレートも網に覆われて見えなかったが、おおよその位置から理科実験室か準備室あたりということはわかる。
「そのへんって、まさか中?」
「ああ。理科準備室にいる間に、こうなって出られなくなったらしい」
 それでクラスメイトの堀井に電話をかけたというわけか。
(まずいな)
 困った事態になったと、圭一郎は思った。
「おまえが来たってことは、これ、やっぱりアレか?」
「うん」
 代名詞ばかりだったが、堀井が言おうとしていることはわかる。
「明らかに妖魔だ。ほら」
 圭一郎は指で白い壁をなぞる。見た目に反して、細い糸は強く引っかいても切れる様子がない。
 そんなものが一瞬にしてひとつのフロアの壁面を覆うことなど、常識では考えられない。
 だがそんな常識では考えられない怪現象を引き起こすのが、妖魔なのだ。
「征二郎と電話は通じる?」
「ちょっと待ってろ」
 堀井が携帯電話のボタンを押した。
「征二郎、今準備室の前。圭一郎も来たから代わるぜ」
 そう言って圭一郎に携帯電話を差し出す。
「征二郎、聞こえるか?」
「圭一郎? 外、どーなってんだよ」
 征二郎の声はふだん通りに聞こえる。昼休みの状態からふっ切れたのか、それとも単にそれどころではないからなのかはわからないが、圭一郎は少しだけほっとした。
「妖魔が蜘蛛の糸みたいなので壁に網を張ってる。それでドアが開かないんだ」
「妖魔ぁ?」
 征二郎の反応からすると、妖魔が出現しているのは廊下側の壁面だけのようだ。
「じゃあすぐ退治しないと」
「今それは無理だ」
 圭一郎はきっぱりとそう言った。
 宝珠を剣に変える圭一郎と、剣で妖魔を斬る征二郎が、妖魔によって隔てられてしまっている。こちらで宝珠を剣に変えても、あちらに渡すすべがない。
 それは、二人が妖魔を退治するすべが事実上断たれたということに等しい。
 妖魔の気配自体は弱く、ドアを閉ざす以外に大して危害を加えるようなものではなさそうだ。だが出現した場所が場所だけに、これは最悪の事態に近いと言ってよい。
「そっか、おまえがそっちで俺がこっちだもんな。どうしたらいい?」
「いや……」
 征二郎に問われ、圭一郎は言葉を濁す。
 考えてはいる。だが、この事態に有効な策をどうしても思いつかない。
「あ、ちょっと待って」
 電話の向こうで、なにやら相談しているような声が聞こえる。
「そっち、だれかいるの?」
「護宏がいるよ」
「滝か」
 護宏のあの気配は、今は感じられない 。
 圭一郎がさらに頭をめぐらしていると、征二郎の声が聞こえた。
「数珠を使ってみるって。ドアが少しでも開いたらなんとかなるし」
 護宏の「封印の数珠」。妖魔を弱める力を持つが、それを持つ護宏が準備室に閉じ込められているということは、数珠の力が妖魔を防いではくれなかったということだ。あまり劇的な効果は期待できないだろう。
 それでも、剣を中に入れることができれば。
「あ、おい、圭一郎!」
 堀井が白い壁面の一角を指さして叫んだ。見ると、ドアノブらしき出っ張りががちゃがちゃと音を立て、壁の一部が盛り上がるように動く。
 数珠で妖魔を退け、ドアを開けようとしたのだろう。それはむだな試みではなかった。ドアはわずかに開き、妖魔の糸に隙間が生じている。
 が。
「これ以上は無理だってさ」
 電話の向こうで征二郎の声がする。
 圭一郎は糸と糸の隙間を調べた。最大で二センチほどだろうか。
(宝珠なら渡せるけど、剣は無理だ)
 圭一郎は頭を抱えたくなった。圭一郎が宝珠を剣に変えても、それを征二郎に渡すことができない。征二郎でなければ、宝珠の剣を使うことができないのだ。
「滝に宝珠を使ってもらったらどうかな?」
 可能な手段をすべて挙げてみようと、圭一郎は征二郎に尋ねた。護宏は以前、宝珠を弓矢に変えて妖魔を射て退治したことがある。
 ぼそぼそとなにかを相談するような声が聞こえたが、やがて、
「こっちは狭いから、弓は使えないだろうって。それにこっちからはほどんど妖魔は見えてないし」
「だろうね」
 なんとなく予想していた答えだ。妖魔の形状から考えても、こちら側か、せめて隙間から剣で斬るしか方法はないように思われる。
 護宏がこちら側にいたのなら、まだ打開策もあっただろう。試したことはないが、彼になら宝珠の剣を抜くこともできそうだからだ。
 だが、今はそれを試しようもない。
(僕たちにはなにもできないってことか)
 認めないわけにはいかない現実。
 宝珠家の双子は一人では無力だ。どれほど近くにいても、こうして分断されてしまえば、打つ手はない。
(征二郎、おまえが落ち込むことはなかったんだ。僕だって、一人じゃなにもできないんだから)
 白い壁に隔てられた弟、少し前まで妖魔に気づけなかったことで落ち込んでいた征二郎に、そう言ってやりたい気がする。
 が、今はそんな場合ではない。
「征二郎、一度切る。そのまま待ってて」
 そう言い置いて携帯電話を切る。
「堀井、もう一度携帯使わせてくれる?」
「どこにかけるんだ?」
「退魔師の先輩」
 圭一郎は美鈴凜の手を借りるつもりだった。しばらく征二郎たちが閉じ込められたままになってしまうが、それ以上の策は、もはや思いつかない。
(しょうがないんだ。僕たちにはできることとできないことがある)
 自分たちの非力を認めるのは悔しいが、そう思うよりほかにない。
 が、携帯電話を手にして、圭一郎はしまったと思う。
(携帯の番号、覚えてなかった)
 凜の家の番号ならば思い出せるのだが、携帯の番号は携帯のメモリから呼び出すので覚えていない。登録されている携帯は、征二郎が持っている。
(しかたない、征二郎から連絡してもらおう)
 圭一郎は征二郎に電話をかけ直そうとしつつ、ふと白い壁面に目をやり――そのまま釘付けになる。
「な、なんだ?」
 信じられないことが、目の前で起こりつつあった。  

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