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16 ことばのチカラ

3 起こす奇跡

「あ、おい、圭一郎。俺たちどうしたら……」
 征二郎が問う間もなく、電話は切られてしまった。ドアのすぐ向こうにいるはずの圭一郎や堀井が、ひどく遠くにいるような気がして、征二郎は一瞬立ち尽くす。
 が、それは一瞬のことだった。
「なんだよ、しょうがないな」
 征二郎はすぐに次の手を考え始める。
 立ち止まってはいられない。
(なにかできることを探さないと)
 宝珠もない、護宏の数珠もあまり効き目がない。
 今できることは、もう残っていないように思える。
 が、征二郎はあきらめるつもりはなかった。
(俺だって退魔師なんだから、できることがあるはずだ)
 なぜか、そんな確信があった。
 とっくに退魔師なのだと護宏は言ってくれた。その一言が、力強く彼を支えている。
 退魔師としてこの状況を打破できるはずだ、と。
 自分が知っていることで、まだ試したことのないものはなかったか。
 征二郎は懸命に記憶を探る。
(まがごとをはらいけがれを清め……)
 ふと、そんな一節が頭に浮かんだ。
 宝珠家に伝わる「呪」の一節。
(そうだ、真言!)
 沙耶が言っていたことが、征二郎の頭に蘇る。
 ――この書き方だと、真言は宝珠を剣に変えるだけではなく、それ自体が災いを退けるようですね。
 「呪」の最後に唱える真言。宝珠を剣に変えるためのものだと思われてきたが、沙耶はそれ以外の可能性を示唆していた。  
  「まがごと」とは「よくないこと、わざわい」といった意味だという。「まがごとをはらい」とあるからには、わざわいを追い払うことができるのではないか、と。
 あの真言に妖魔を追い払う力があるのかも知れないということだと、征二郎は理解していた。
 征二郎は数珠によってできたドアの隙間に目をやる。白い糸のようなものがびっしりと張り巡らされているのが見えた。
(このへんだけでも追い払えれば)
 隙間に近寄り、征二郎は息をひとつ吸い込んだが、ふと振り返る。
「護宏、あのさ……」
 腕組みをして考え込んでいた護宏が、顔を上げる。
「今からちょっと試してみることがあるんだけど、その……なにも起こらなかったら、だれにも言わないでくれるかな。恥ずかしーから」
「……」
 護宏は征二郎をじっと見て、口を開いた。
「起こらなかったらと思いながらやっても、うまくいくとは思えないが」
「!」
 征二郎の顔色がさっと変わる。が、護宏は淡々と言葉をついだ。
「 なにをしようとしているのかは知らないが、起こらないなら起こす、ぐらい思ってもいいんじゃないか?」
 護宏は静かに続ける。
「そのほうが、おまえらしい」
 征二郎は思わず顔を上げた。
 護宏はいつも通りの口調だった。だが征二郎は、その言葉になぜか気力が湧いてきたように思えた。
 背中を押された気がする。
 迷わず進め、意志を貫け、と。
 いつも通り、自分らしく。
「だよな。なに迷ってたんだろ」
(俺、退魔師なんだ)
 宝珠を剣に変えることも、妖魔の気配を察知することもできない。
 だが妖魔の弱点は見えるし、宝珠の剣はだれよりもうまく扱える。
 自分は、たしかに退魔師、宝珠家の当主なのだ。
 だからこそ、これは成功させなければならない。
 不可能ならば、奇跡を起こしてでも。
「やるぜ、俺」
 征二郎はドアの前に立ち、隙間に見える白い妖魔を見据えた。
 その目には、強い光が宿っている。
「俺が、こいつをはらってやる」
 妖魔が吹き飛ばされ、白い糸がばらばらにほどけていく様子が心に浮かぶ。
 この光景を現前させるのだ。
 征二郎は妖魔に意識を集中する。もはや、失敗したら恥ずかしいというような思いはどこかへ吹き飛んでいた。
「……オン」
 はっきりと、征二郎はその音を発する。
 低く、だが力強く。
 意味など知らない。だがその音に「まがごとをはらいけがれを清め」る力があると信じて。
「アミリティ・ウン・ハッタ!」
 その瞬間、奇跡が起きた。

「?」
 白い波が眼前で盛り上がる。
 圭一郎の目の前で、壁面が大きくめくれあがった。否、壁を覆っていた妖魔の白い網が、壁の向こうから強い力で弾き飛ばされたのだ。
 圭一郎は思わず腕で顔をかばう。
「おい圭一郎、あれ!」
 堀井の声。
 恐る恐る見てみると、一面真っ白だった壁面に異変が生じていた。
 理科準備室のドア周辺で、絡み合った糸が吹き飛ばされ、妖魔の網に直径五十センチほどの穴があいている。内側から押し開けられて、先刻よりもドアがだいぶ開いている。その隙間から手が一本、こちらに伸びていた。
「圭一郎、剣だ!」
「!」
 圭一郎はほとんど反射的に、手に持った宝珠を剣に変え、ドアの間から突き出された征二郎の手に渡す。これだけ隙間が開いてしまえば、剣はたやすく出し入れできる。
 征二郎は鞘をつかんで受け取り、もう片方の手でつかを握って一気に抜く。ドアが開ききっていないため、圭一郎の位置からは征二郎の両手しか見えない。抜いた剣を征二郎は振り上げ、ドアを塞ぐ残りの妖魔を断ち切った。
 斬られた部分から妖魔が霧散していく。その様子を圭一郎は信じられない思いで眺めていた。
(なにが……あったんだ)
 理科準備室の中で、なにかが起こった。それが妖魔を吹き飛ばし、事態を打開した。
 圭一郎にわかるのはそれだけだ。
 だが、なにが起きたというのだろう。
(滝がまたなにか?)
 圭一郎にはそれぐらいしか考えつかない。
 妖魔が消え、今度こそドアが開く。中から征二郎が宝珠を手に現れた。
「圭一郎! すごいぜこの真言!」
「……しんごん?」
 あまりにも唐突に出てきた言葉を、圭一郎は聞き返す。
「ほら、『呪』の真言あっただろ? あれで妖魔が吹き飛んだんだ」
「ちょっと……待て」
 真言で妖魔が吹き飛んだ?
 圭一郎は困惑を隠せない。
「まさか今の、おまえがやったのか?」
「あったりまえだろ? なあ護宏」
 征二郎は準備室から悠然と出てきた護宏の方を振り返る。護宏は無言でうなずいた。
「ほら見ろ。だからさ、出水さんの言ってたこと、本当だったんだ」
「そんなばかな……」
 「呪」の真言には、宝珠を剣に変える以外にもはたらきがあるかも知れない。そう沙耶が言っていたのは覚えている。だが前当主である伯父に尋ねてみても心当たりがないのことだったので、沙耶が深読みし過ぎたのだろうと、それきり圭一郎は忘れていた。
 だのに、なぜ?
 そもそもそんな突拍子もないことを征二郎が思いついて実践したことに、圭一郎は少なからず驚いていた。沙耶の言葉があったから、思いつくまではできたかも知れないが、自分だったら実際にやってみることはなかったと思う。
「おまえ、そんなことできると思ってやったわけ?」
「うん。最初はちょっと自信なかったけど、護宏が励ましてくれたから」
「……」
 二の句が告げない。
 あの寡黙な護宏がこともあろうに征二郎を励ますという状況が、どうしても思い浮かばなかった。
 なにをどう言ったらいいものか、圭一郎は迷う。その目に、護宏が立ち去りかけているのが映った。
「あ、待って!」
 ほとんど反射的に、圭一郎は護宏を呼び止める。
「なんだかさっぱりわかんないけど……ありがとう」
「征二郎がしたことだ。俺はなにもしていない」
 護宏はいつもと変わらぬ様子で答えた。
 たしかに、真言で妖魔を蹴散らしたのは征二郎らしい。だが征二郎の様子からは、護宏がその場に居合わせたことにもなんらかの意味があったように思える。とはいえ、状況をよく飲み込めていない圭一郎にはそれ以上のことはわからなかった。
「そうだ、ついでに見て欲しいものがあるんだけど」
 圭一郎はポケットから小さな珠を取り出す。昼休みに安原教諭から押しつけられたものだ。
「これに心当たり、ない?」
「『数珠』だな」
 即座に返事が返ってくる。
「君のと同じ?」
「むしろ前田のと同じだ」
 前田の摩尼珠は「願いの切れた封印の数珠」だ。護宏の数珠は、込められた願いが続いている最後のひとつだという。
「ってことは、これが前田の手に渡ったら……」
 圭一郎は珠に目を落とす。前田がこれを手に入れれば、摩尼珠はより完全に近くなる。それは、彼の戦慄すべき願いの成就に一歩近づいてしまうということだ。
「滝。これ持っといてくれない?」
 圭一郎は思わずそれを護宏の手に押しつけた。
「なぜ?」
「僕たちが持ってるより、あいつに気付かれにくいと思うんだ。僕たち、一度宝珠取られてるし、君の数珠はまだ気付かれてないみたいだし」
「……」
「前田の手に渡らなかったら、それでいいから」
「わかった」
 護宏は気乗りしない様子ではあったが、数珠の入った守り袋を取り出し、その中に珠を入れる。とりあえず預かってくれるようだと見て、圭一郎はほっとした。
 チャイムが鳴り、それぞれの教室へ戻る。圭一郎も自分の教室へと急ぎながら、今起きた事態を自分なりに整理しようと懸命になっていた。

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