放課後。
「え、征二郎さんが真言で?」
沙耶は驚いた表情で聞き返した。
「ああ。少しだが妖魔を吹き飛ばした」
護宏は沙耶に合わせてゆっくりと歩きながら答える。川べりの道、時刻が早いせいか、まだ日は高い。
「礼を言っておいてほしいと頼まれた。沙耶のおかげだと」
「よかった。役に立てて……」
言いながら、だが、沙耶の視線はどこか下向きにさまよっている。
「沙耶?」
「あ、ううん、なんでもない。ごめんね」
沙耶は護宏の問いたげな視線から逃れるように、ことさらに明るく尋ねた。
「それ、護宏も見たの?」
「ああ。征二郎と一緒に閉じ込められていたから」
「そうなんだ」
「……だが」
護宏は守り袋を取り出し、じっと眺めた。
「数珠がどうかしたの?」
「征二郎が真言を使う前に、数珠で妖魔を追い払おうとしたんだが、うまくいかなかった」
「えっ?」
「数珠が弱くなっているような気がする」
「!」
沙耶ははっと護宏の顔を見る。護宏は守り袋に目を落としたまま考え込んでいるようだった。
「もしかして……」
沙耶は喉につかえた言葉をかろうじて絞り出すように続けた。
「封印?」
「かもな」
「……」
沙耶の目にひどく複雑な表情がよぎる。
「どうした?」
「え?」
「最近、元気がないように見える。なにかあったのか?」
沙耶ははっと視線をさまよわせた。
「そ、そんなことは……」
「そうか?」
護宏がじっとこちらを見ているのがわかる。
どう答えてよいかわからない。
護宏の指摘は正しかった。
つとめて表に出さないようにしているし、だれにも気づかれていないと思っていた。いつも通りにふるまっていたし、実際、宝珠兄弟と先日古文書について話した時にも、気づかれてはいなかったはずだ。
だが、最近の沙耶の心には、つねに重く拭えぬわだかまりのようなものがある。
そんな自分に護宏だけは気づいてくれた。多くは語らないが、今日部活の自由練習を休んで迎えに来てくれたのも、ひょっとしたら心配してくれているからなのかも知れない。
それは嬉しいことのはずだったが、沙耶は素直に喜ぶことができなかった。
気分がふさぎこんでいる理由を、沙耶はどうしても口にすることができない。
先日護宏が口にした「封印」という言葉。それも、護宏自身を封印しているのだという。しかも封印の効力は数珠一つ分を残すのみだ。そう聞いて以来、沙耶はなにかひどく落ち着かないものを感じていた。
(封印が解けたら、護宏はどうなるの?)
そんな問いが、いくら抑えてもどこかから浮かび上がってきてしまう。
護宏とはほぼ生まれた頃からの付き合いだ。ずっと一緒に育ってきたし、寡黙で近寄り難いように見える彼の気持をだれよりもよく知っているつもりだった。
だが封印が解けたら、護宏は彼女の知らない、ずっと遠い存在になってしまうのではないだろうか――根拠はないが、そんな予感がつきまとって離れない。
封印が解け、記憶を取り戻した護宏と、自分が知っている幼なじみの護宏は、まったく異なる存在なのではないか。
そもそも記憶の謎を解く作業をしていれば、いつかは沙耶の知らない護宏の姿が明らかになることは十分に考えられた。だがそれは、ほんの少し前まで、さほど現実味のない謎解きに過ぎなかったのだ。記憶をたどったからといって、過去が現在によみがえるわけではないのだから。
だが「封印」という言葉は、それを目前に迫った現実として沙耶につきつけることになった。
その重さに、沙耶は立ちすくんでいる。
解けるかどうか、そもそも本当に数珠が護宏を封印しているものなのかもわからないのに、なにがこんなに不安なのだろう。
しかも、その不安を沙耶はどうしても口に出せなかった。
口に出してしまえば、自分の思いを護宏に知られてしまう。それは封印とは無関係に、幼なじみという安定した二人の関係を変えてしまうように思える。まがりなりにも今こうして一緒に下校し、休みに会ったり一緒に図書館に行ったりすることができている、この間柄が壊れてしまうのではないだろうか。
加えて、最近しきりに見る夢が、沙耶をさらに不安にさせていた。助けてくれた護宏を呼ぼうとして、まったく別の名を口にしてしまう自分――しかも、その名をどうしても思い出せない。
二人の間柄だけでなく、自分の気持ちさえ揺らぎ壊れてしまいそうな不安を、誰にも言えないまま、沙耶は抱え続けていた。
「あ……」
随分、沈黙が続いていることに、沙耶は気づいた。
護宏は沙耶に無理強いしてしゃべらせるようなことはしない。じっと黙って沙耶の様子を見守っている。
「あ、あの、ほんとになんでもないの。大丈夫だからね」
「しかし……」
護宏が納得していない様子を見て、沙耶は懸命にそらす話題を探した。
「そうだ、これ見て」
とっさに思いついて取り出したのは、ファイルに挟んだメモである。古文書の一節を写し取ったものだ。
「宝珠さんたちに見せようと思ってるんだけど、ほら……くらやみ祭りの話で出てきた『エンゲンサマ』ってなにかって言ってたじゃない? それらしいものがあったの。ね、どう思う?」
「……」
護宏はわずかになにか言いたげな様子を見せたが、結局なにも言うことなく沙耶の差し出したメモに顔を寄せた。
苦しまぎれに話をそらしたのだということは、恐らく護宏も悟っているだろう。だがそこを追及せずにいてくれる護宏を、沙耶はつくづくありがたく思った。
メモには、こう書いてある。
「斎女の命断たれ、闇俗世を覆ひたり。これよりこの世はこと世となりぬ。欲塵淵源にて色をなし、諸々の禍事の種となるべし」
メモ自体は短いものだ。那神寺で見せてもらった記録から、気になる部分を片端から書き留めてきたのだが、その一つである。冥加岳の集落での記録とおぼしき部分だったが、欠損が激しく、前後は不明だ。
「くらやみ祭り」に関する記録は、護宏の「記憶」には特に引っ掛かってきていなかったため、本来護宏に見せるつもりのなかったものである。
「この『淵源』が『エンゲンサマ』じゃないかと思うの。『にて』を『によって』と読むか『であって』と読むかで、手段なのか場所なのかが変わってくるんだけど……」
「イツキ……メ……」
「え、なにか言った?」
メモを見つめたまま低く聞き取れないつぶやきを発した護宏の顔を、沙耶はなにげなくのぞき込む。
そして思わず声を上げた。
「護宏?」
メモを食い入るように見つめていた護宏は、はっとしたようにメモから顔を上げて沙耶の方を向く。
その目から涙が一粒だけ落ちた。
「ど、どうしたの?」
初めて見る護宏の涙に、沙耶はうろたえた。「記憶」に引っ掛かりそうにない記録だっただけに、こんなことは予想外だ。
「……わからない」
「でも」
「わからないんだ……本当に」
護宏は苦しげに続ける。
「なにか取り返しのつかないことがあったような気がして……でもそれ以上は思い出せない」
護宏自身も困惑している様子が、はっきりとわかる。
「いや……」
沙耶は小さくつぶやき、護宏のブレザーの袖をつかんだ。
「沙耶?」
声を詰まらせ、沙耶は思わず人知れず思っていた言葉を発していた。
「遠くに行っちゃいや。護宏は……護宏のままでいて」
古い記録に涙を見せた護宏が、自分の知らないだれかのような気がして、いてもたってもいられなくなった。護宏自身の当惑に思いを馳せる余裕もないほどに。
言うはずのなかった言葉、ずっと心の内に抑え込んでいた言葉。
そんな自制がきかなくなるほどに、ただ夢中だった。
それ以上は言葉にならない。言ってしまったことに後悔しつつ、沙耶はどうしてよいかわからず、護宏の袖をつかんだままうつむいていた。
「……俺は」
長い沈黙の後、護宏は静かに口を開く。
「なにがあっても俺だから」
言葉にできない沙耶の思いを護宏がどれだけ感じ取ったのか、沙耶にはわからなかったが、彼の言葉からは沙耶への気遣いと、彼自身のなにか言葉にできない感情が感じられた。
それがかえって沙耶の胸を締めつける。
「うん……」
それしか言えなかった。
護宏も、それ以上の言葉を見つけられずにいる。
二人はそれきり黙り込んだ。
当惑と混乱と少しの後悔と、それぞれの胸に抱えた重苦しいわだかまり。
そういったものの中で、二人は互いになにかをためらいながら、そのままそこに長い間たたずんでいた。
◆
「はっ、青春ごっこか」
パソコンの画面奥に小さく見える、寄り添う二人の姿をしばらく眺め、前田は映像の再生を止めた。
それは妖魔にカメラを取り付けて盗み撮りしたものだった。宝珠兄弟や護宏の周囲に現れる存在を警戒して遠くから撮影したため、音声は入っていない。だが前田にとって、これは重要な手掛かりとなる映像だった。
「あの少女に執着するのは、理由があるはずだよなあ?」
前田はパソコンの横に置いてあった、古びた和紙の束を手に取る。毛筆で書かれた文字に目を走らせ、ひとつうなずいて元の位置に戻す。
それから前田はパソコンのソフトを立ち上げて、表示されたリストに目を走らせた。
「うかつに近寄ればまた邪魔が入る。ここはひとつ、違う方向でいくとしよう」
そうつぶやいてリストの何件かを抽出し、詳細データにさらに目を通す。データを見ながら具体的な計画を練っていく。
その口元には我知らず笑みが浮かぶ。勝算を確信した笑みだ。
「今度こそあれが手に入る。あれが……そして私の世界が……」
画面を見つめたまま、前田は一人熱にうかされたようなつぶやきを繰り返していた。
(第十六話 終)