[index][prev][next]

17 くらげなす妖魔漂う町

1 それぞれの世界

「やっぱり、危険だと思う」
 真剣な表情で、美鈴凜は言った。
「圭一郎は違うって言うけど、あいつの気配、私には妖魔にしか感じられないもの」
「うーん、わからないでもないんですが」
 圭一郎はどう答えたものか迷う。
 凜が気にしているのは、滝護宏のことだ。圭一郎には妖魔とは異なったものとして感じられる気配が、凜には妖魔と同じものに思えるという。圭一郎の感覚からすれば、赤信号を見て「どう見ても青だ」と言われているような気分だ。明らかに違うのに、その違いがどうしても伝わらない。
 征二郎はと見ると、この話題そのものに関心がないようで、英単語集を食い入るように見ている。学校以外で勉強する征二郎の姿は、今のような試験直前の時期にしか見られない、貴重なものだ。
 まあ無理もないか、と、圭一郎は思う。気配を感じ取ることができない征二郎には、護宏の気配が妖魔と同じか異なるか、という話題には参加しようがないからだ。それに、彼が妖魔かどうかにかかわらず、征二郎は彼に一定の信頼を置いている。目前に迫った期末試験の方が、征二郎にとっては重要なのだろう。
「じゃあ妖魔の気配だったとして、先輩は彼がなんだと思ってるんですか?」
 凜と自分の認識の違いは埋めようがない。そう思った圭一郎は、とりあえず凜の意見を聞いてみることにした。
「そりゃあ、妖魔でしょ」
「でも、そんな妖魔は今まで記録に残ってないと思うんですが」
「私たちの知らない、特別なやつかも知れない。人にまぎれて潜伏していられるようなものだとすると、相当強いんでしょうね」
「あいつがなにか隠してると?」
 圭一郎には、凜がなぜそこまで護宏を警戒するのか理解できない。護宏の気配は確かに圭一郎にとっても気になるものではあるが、実際に護宏と話している限りにおいては、彼が嘘を言っているようには思えないのだ。
 だが凜には自分の見えていないものが見えているのかも知れない。そう思うと、どう答えていいかわからなくなる。
「本人がどう言おうと、あんな気配を放つ奴がふつうの人間であるはずがないでしょう?」
「それは……」
 圭一郎は迷う。たしかに凜の言うことは正しいのかも知れない。ふつうの人の気配など、彼ら退魔師には感じ取れないのだから。
 とはいえ、護宏が嘘をついているとは思えなかった。
 ――おまえ自身もおのれの正体を知らんのだ。
 前田はそう言っていた。
 だが、それも確証があるわけではない。前田が護宏を操ろうとする試みがことごとく失敗に終わっていることから考えて、彼がつかんでいるのが真相かどうかは疑わしい。
 この件に関して、だれが真実にもっとも近づいているのか。圭一郎には判断がつかなかった。
「なんだっていいじゃん」
 不意に、征二郎が単語集から目を上げて言った。
「あいつが怪現象起こしたわけじゃないんだろ? なんで起きてもないこと気にするわけ?」
「征二郎、あんたあいつの肩持つの?」
「うん」
 征二郎の答えはあっさりとしている。
「気配とかわかんないし、結構いい奴だし、出水さんのことだってマジで大事にしてるし」
 なんでそこに出水さんが出てくるんだ、と突っ込みを入れようとして、圭一郎ははたと気づいた。
(もしかして征二郎、出水さんのこと……?)
 思い当たるふしがないわけではない。
 であれば、征二郎が護宏の肩を持つ理由は、単に何度か助けてもらっているからというような単純なものではないのかも知れない。
 圭一郎は突っ込みを断念し、凜の反応をうかがう。
「そりゃあ……気配がわからなかったら気がつかないかも知れないけど」
 言いよどむ凜の言葉は、逆に言えば気配以外に不自然な点はない、ということだ。
(それを言ったらナギの方が妖魔の気配に思えるしな)
 ナギの存在や彼の記憶の謎について知っている圭一郎は、凜にそれを告げたものか少し迷う。
(だめだな、ナギの話なんかしたらますます話がややこしくなる)
 圭一郎が護宏について判断を下せずにいる理由の一つは彼らだ。神出鬼没で妖魔と同じ気配を持っているにもかかわらず、意思の疎通がはかれる存在。妖魔を倒すことさえある彼らと護宏の関係はまだ圭一郎にはわかっていない。凜であればすぐにでも退治すべきだと主張するだろうが、圭一郎はそう思ってはいない。少なくとも今のところ、彼らは人間の社会に迷惑を及ぼすことはしていないのだ。
「でも、だからよけいに心配なんじゃない。なにかあった時に沙耶が近くにいるかも知れないんだから」
 いくぶん勢いを削がれた様子で、凜はつぶやいた。

「リンリンさんは心配しすぎなんだよな」
 駅前のバスターミナルでバスを待ちながら、征二郎が言う。
「なんであんなに護宏を警戒してるのか、よくわかんないや」
「 うーん、ほんとうは心配する必要なんてないのかも知れないけれど、リンリンさんの懸念もわかる気はするよ」
「気配がわかると、そんなに心配になるものなのか?」
 圭一郎はどう答えたものか迷う。気配が感じられるこの感覚を言葉に表現しても、たぶん伝わらない。
 凜がどう感じているかにしても、圭一郎自身正確に理解しているわけではないのだ。
 護宏という一人の人物に対して、三人が三人ともまったく異なる見方をしている。そう思った時、圭一郎はふっと不思議な気分にかられた。
 同じ場所にいて、同じものを見聞きしているはずなのに、自分と征二郎と凜とでは、理解するものがまったく違っている。
 たぶん、ほかのどんなことについても、誰と比較しても、同じことが言えるのだろう。
 あたかも、それぞれが異なる世界に住んでいるかのように。
 ――俺にとっての世界は、今俺に見えているようなものではない。
 不意にそんな言葉を思い出す。前田に奪われた宝珠を取り返した後で、護宏が語った一言だ。
(よりにもよって、あいつの言葉を思い出すなんて)
 圭一郎は苦笑する。彼に見えている世界がどんなものかはわからないが、それはやはり、圭一郎の見ている世界とは異なっているのだろう。
「たしかに、気配がわからなければ滝のことを気にしたりはしなかっただろうな。僕もリンリンさんも」
「ふーん。めんどくさいもんだな」
「まあね」
 圭一郎はあいまいに答える。妖魔の気配を感じ取るのは、圭一郎にとってごく当たり前のことだから、面倒かどうかはわからない。
「まあたぶん、リンリンさんは出水さんが心配なんだろうね」
「護宏が出水さんに危害とか加えるって?」
「うん」
「まさか。あるわけないじゃん」
 征二郎は一笑に付す。
(そういうと思った)  
先刻の凜に対する答え方から容易に予想できる反応だ。 
 圭一郎はくすりと笑った。単純さを笑われたと思ったのか、征二郎がむっとした表情で言葉を継ぐ。
「気配がわかんないからってだけじゃないぜ?」
「どういうこと?」
「俺には妖魔の弱点が見える。でも護宏を見ても弱点はわからない。だから護宏は妖魔じゃない」
「……」
 圭一郎はいくぶん驚いた目で弟を見た。おそらく征二郎自身は気づいていないが、見事な三段論法だ。
「それはまあ、反論のしようがないな」
「だろ?」
 だが、と、圭一郎は思う。
 それは、彼が妖魔ではない別のなにかであることまでも否定することはできないのだ。

[index][prev][next]