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17 くらげなす妖魔漂う町

3 ハイポセティカル・トラップ

 西金剛駅は金剛駅の隣にある、慈愛女子高等学校の最寄り駅だ。夕方ということもあり、ホームには帰宅途中の慈愛の女子生徒が大勢立っていた。数人ずつかたまりになり、それぞれの話題に興じている。
 その中に、ひときわ熱っぽく語る女子生徒がいた。
 美鈴凜である。
「あなたを心配してるの! このままだときっとなにかが起こるんだから」
 困ったような表情の出水沙耶に向かい、凜は苛立ったように声を上げた。
「でも……」
「何度も言うけど、あいつの気配は妖魔と同じなの。すぐにでも離れないと、あなたが危ないのよ」
「……ごめんなさい、美鈴さん」
 沙耶はすまなそうに頭を下げた。
「わたしのことを心配してくださるのは嬉しいんですけれど、護宏は妖魔じゃないと思います」
「どうやってそれがわかるっていうの?」
「護宏とはずっと一緒でしたから」
「あなたがだまされているのかも知れないじゃない」
 瞬間、言い過ぎたと思う。そう疑っているのは事実だが、沙耶に言うべきではなかったのかも知れない。別に幼なじみの二人の仲を好き好んで裂きたいわけではない。ただ沙耶の危険を案じ、護宏の気配に不審を抱いているだけなのだ。
 沙耶は困ったようなあいまいな表情を浮かべる。
 だが、発せられた言葉は表情に反してはっきりとしていた。
「それでもわたし、護宏を信じます」
「沙耶……」
「ごめんなさい、失礼します」
 ホームに金剛駅方面の電車が入ってきた。沙耶は軽く一礼し、開いたドアから電車に乗り込む。
 電車が発車し、見えなくなるまで、凜はじっと見送っていた。
 沙耶は次の金剛駅で降り、バスに乗って黎明館高校に向かうのだろう。
 護宏と――あの、妖魔の気配を放つ者と一緒に帰るために。
(どうしてわかってくれないの?)
 凜は唇をかんだ。
(危ないのは、あなたなのに)
 再三の説得も、沙耶には届いていない。
 それでも自分の感覚を、凜は疑いたくはなかった。いくら沙耶が信じると言っても、圭一郎に違うと言われても、凜には護宏が妖魔だとしか思えない。
「ちょっと、いいですかな?」
 不意に声がかけられる。見ると壮年の男がすぐそばに立っていた。短い髪の、初めて見る顔。カーキのジャケットをはおったラフな格好で、目が合うと、非礼をわびるかのように軽く頭を下げる。
「なにか?」
「すみません、私は退魔師として各地をめぐっている者です。あなたも退魔の力をお持ちのようですが」
「ええ、まあ」
 いくぶん警戒しつつ、凛は答える。
「先ほどのお話が聞こえてしまいまして、少々気になりましたものでな」
 男は柔和な調子だったが、凛はどきりとした。
「なにが?」
「妖魔の気配がするとは、黎明館高校の滝護宏という生徒のことではありませんか?」
「!」
 凛の様子に、男は微笑してうなずく。
「そのご様子では、間違いないようだ」
「なにか知っているの?」
「彼が妖魔を使役し、守ろうとするのを見たことがあります。それに彼自身からも、時折ですが妖魔の気配がしますな」
「やっぱり……」
 凛はつぶやく。護宏はただ単に、妖魔の気配を放っているだけではない。もっと深く妖魔とかかわっている。たとえば、下位の妖魔に命令を下し、手足として使うような。
 自分の推測の裏付けが、また一つ取れたような気がした。
 男は続ける。
「私も彼の気配が気になり、いろいろと調べていました。厚かましいようですが、少しお時間をいただければ、調べたことについて多少はお教えできるのですが、いかがですかな?」
「ええ、お願いします」
 凜は一も二もなくうなずいた。

「さっそくだが、お嬢さん……ええと」
 駅前の喫茶店に場所を移し、男が切り出す。
「美鈴です」
「美鈴さんは彼のことをなんだと思っておられるのですかな?」
「私は……」
 凜は慎重に口を開く。目の前の男がなぜ自分に声をかけてきたのか、よくわからない。だが護宏を妖魔と思う凜と、さほど遠い立場ではないように思える。
「まだ知られていない、高位の妖魔ではないかと」
「ふむ、なるほど。そうとも言えますな」
 男の反応は一見肯定的に聞こえたが、実のところ、凜の見解をどのように受け取ったのかは伝わって来ない。
「淵源の言い伝えをご存じかな」
 かわりに、男はそう問いかけてきた。
「エンゲン?」
 たしか、どこかの祭りにかかわる言い伝えにそんな言葉があったような気がする。だがはっきりとは思い出せなかった。
「淵源に呑まれた者は妖魔となるというものです。今のところ、人と妖魔を結びつける記録や資料はこれしかありませんでな」
「人が妖魔になる?」
 少なからず動揺して聞き返す。凜にとっては初めて聞く話だった。
「さよう、人の世で生きていけるあれが、ただの妖魔であるわけがない。ゆえに私は淵源に関する記録を詳しく調べてきたのですよ」
「あいつは、その……淵源とかに呑まれて妖魔になった人だと?」
 凜は男の言葉を注意深く反芻し、考えられる可能性を口にしてみた。
 が、男は意外な反応を見せた。
「私もそう思ったことがあったのですがね」
「どういうことですか?」
「調べた結果、そんな程度のものではないことがわかりました」
「どうやって……」
「そこで私はさらなる調査を続けた」
 男は凜の問いかけを遮るようにして言葉をついだ。
「淵源の言い伝えは、冥加岳山腹の神社に伝わっていました。これがその記録です」
 テーブルの上に広げられたクリアブックには、古い和紙が挟まれていた。古文書らしく、筆書の文字がびっしりと書き連ねられている。
 凜は書かれた文字を眺めた。漢文体で仮名がほとんど見当たらず、判読できる漢字から意味を推測するしかない。しばらく眺めてみたが、「稚美豆薙津別神」という神を祭神とする「巳法社」という神社が「淵源坐神域」である、という程度しか読み取れなかった。それぞれ、読みもわからない。かろうじて「巳法」が巳法川と同じく「みのり」と読むのではないかと思える程度だ。
 男は「淵源坐神域」の部分を指して説明する。
「これは『淵源のいます神域』と読むようです。つまり、冥加岳にあった巳法社の神域に『淵源』なるものが存在し、畏怖されていたことになる」
「淵源ってなんですか?」
「それはわからんですな。ですが古来より、超自然的なものを封印した場所が神域として祀られることはままあった。淵源もそういうものでしょう」
「この祭神のこと?」
「その可能性はないわけじゃないんですがね、他にあまり記録もないのでわからんのですよ。ま、社の名前からして巳法川を神格化したもののようだし、淵源の存在と無関係ではないんでしょうがね」
 男は凜が判読しきれなかった部分を指して、あとを続ける。
「重要なのはここです。このあたりに書かれているのは、過去にその封印が解けた時の記録と思われますんでな」
「なんて書いてあるんですか?」
「巳法社の祭神に捧げられた娘の命が断たれた時、世界は闇に包まれた。以来世界は一変し、淵源の闇より妖魔が生まれるようになった。ゆえに、心に闇を抱いた者は淵源に呑まれ、妖魔と化す……大体、こんなところでしょうかね」
「淵源の封印が解けて、妖魔が生まれた、ってことですか?」
「そう。封印された淵源が目覚めた時、妖魔が誕生した。つまり淵源とは妖魔を生み出す鍵のようなもの――いわば妖魔の王と言えるでしょう」
「……」
 凜は息を飲んだ。
 男の言葉を信じるならば、妖魔を生み出す存在がすぐ近くの山に封印されていたということになる。そんなものがまた動き出したら、妖魔はさらに増え、自分たちの手にはおえなくなってしまうのではなかろうか。
「淵源については、これ以降ほとんど記録されていません。ということは、封印は完全に解けたのではなかったと見ていいでしょうな」
 凜は男の満足げな表情をじっと見ていた。
 男の情報が、自分にとって役に立つかどうか。
 そして問う。
「これが、あいつとどう関係するっていうの?」
 凜がこの男の話を聞いてみる気になったのは、滝護宏についての情報を得るためだ。
 妖魔を生み出す淵源。その記録は確かに恐ろしげなものであったが、それが護宏となんの関係があるのかわからない。つまりは、男が凜に声をかけ、こんな情報を語る理由も。
「そうあわてなさんな」
 男は意味ありげな笑みを浮かべ、続けた。
「私はね、あれは淵源を再び呼び覚ますべく人の世に送り込まれた妖魔だ、と考えているんですよ」
「淵源を呼び覚ます妖魔?」
「さよう。人に紛れ、時が来れば封印を完全に解くのがあれの存在意義。だから人の形を取って人のように行動する……退魔師の目はごまかし切れなかったわけですがね」
「封印を解くって、どうやって?」
「記録ではいたましいことに、一人の娘が生贄となってますな」
「!」
 凜ははっと気づき、思わず立ち上がりかける。
「まさか、沙耶?」
「駅で話していたお嬢さんかな?」
「え、ええ。あいつの幼なじみで、いくら離れるように言っても聞かなくて……」
「あれは沙耶さんとやらを守っているんですな?」
「はい」
「ならば、時を待っているのかも知れませんな。それまでは守り、時が来れば彼女を……」
「やめてくださいっ!」
 凜は悲鳴に似た声を上げた。周囲の視線が集まるのに気づいてあわてて座り直し、うつむいて小さく「やめてください」と言い直す。
「失礼、最悪の予測でしたかね。ですが大丈夫、防げないことではない」
 凜は顔を上げた。
「沙耶を……助けられるんですか?」
「私はあれを抑える術を研究しています。間もなく術は完成するでしょう。ただ……時も迫ってきているようです」
「じゃあ……」
「安心なさい。そのためにあなたにご協力いただきたいのですよ」
「なにをすればいいんですか?」
「簡単なことです。沙耶さんの行動予定を私に教えてください。彼女に危害が及ぶ前に、私が術を完成させてあれを止めます」
「それぐらいなら……」
 凜には異論はなかった。沙耶に危機が迫りつつある。だが忠告したとしても、沙耶は恐らく耳を貸さない。ならば男の術とやらを頼みにするほかはなかろう。
「ありがとうございます、助かります」
 男はメモ用紙を取り出し、携帯電話の番号を走り書きする。
「こちらにかけてください。一緒に沙耶さんを守って、淵源の復活を阻止しましょう」
「ええ、わかりました」
 凜はうなずく。
 自分には沙耶を説得することができない。だが、この男に協力すれば、沙耶を守ることができる。凜にとってこれは願ってもない話だった。  

「他愛ないねえ」
 喫茶店を出て行く凜の後ろ姿を見送りながら、男――前田浄蓮はつぶやいた。
「ま、嘘は言ってないんだがね」
 人を動かすのに虚言など必要ない。相手がほしがる情報を一部だけ切り取って体裁を整えれば、相手は簡単に飛びついてくる。
「これで、沙耶とかいう娘の動向はつかめる。あとは場所と手段の確保か」
 低くつぶやき、前田は立ち上がった。

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