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18.5話 ナギの願い

「え、でも……」
 電話口で、出水沙耶はためらう様子を見せた。
「いいから来なよ。滝くんの射ってあんまり見たことないんでしょ?」
 電話の相手は早瀬あゆみ。中学時代の同級生で、今は黎明館高校の弓道部部長だ。
「試験前で学校じゃ練習できないから、明日の午後、県立体育館の弓道場で練習するの。滝くんもね。観覧席には誰でも入れるから見においでよ」
 そんな誘いをかけてくれたのは、護宏に対する沙耶の気持を知っているからだろう。さっぱりした性格ながら、細かいところに行き届いた気遣いをしてくれるのは、中学時代と変わらない。
「邪魔にならない?」
「平気平気。なにがあっても動じないのが滝くんだもの。あっでも案外動揺したりして。それもおもしろいかな」
「あゆみちゃん、それは……!」
「あはは、ごめんごめん冗談。でもホント、あんまりこういう機会ないからさ。来た方がいいと思うよ」
「うん……考えてみる。ありがとう」
 通話の切れた受話器を手にしたまま、沙耶はうつむく。
「でもわたし、護宏にどんな顔していいかわからない」
 なにげなく見せた古文書に、護宏が見せた涙。
 あれはいったいなんだったのか。
 封印が解ければ、護宏は自分の知らない存在になってしまうのではないか。そんな思いが、沙耶の心を重苦しくしている。
「俺はなにがあっても俺だから」
 護宏はそう言ってくれた。だがそれを彼自身も確信していないことを、沙耶は知っている。
 あれは、沙耶を気遣っての言葉だ。
 あの後も、護宏はいつもと変わらぬ態度を取っている。自分も変わらぬかのようなそぶりを見せているつもりだ。一緒に古文書を解読し、護宏の記憶に触れる部分がないかを探し……。
 だが、沙耶は自分で気づいていた。
 護宏の記憶に触れそうな古文書をあえて避け、どうでもいいものを見せてしまう自分に。
 怖いのだ。記憶を探ることで核心に近づいてしまうことが。
 だから、いつもとは異なる――予期しない事態が起こりそうな場面で護宏に会うのはあまり気が進まない。 
 が。
(でも、いつもやってる弓の練習を見るだけだよね)
 沙耶は気を取り直す。
(それぐらいなら、大丈夫かな)
 そもそも、見てみたいのは山々なのだ。
(ちょっとだけ行って、すぐ帰ってくれば……)
 沙耶は受話器を置き、県立体育館への行き方を調べようと、地図に手をのばした。  

 鋭い音がした。
 ガラス越しに見える的の真ん中近くに矢が突き立っている。
「うわぁ……」
 沙耶は思わずそうつぶやく。
 体育館の最上階に、弓道場はあった。
 観覧席とは要するに、弓道場の横の通路だった。通路に三列ほどの椅子が並べられ、ガラス窓を通して道場を側面から見渡せるようになっている。
 弓道場は矢を射る人が立つ「射場」と呼ばれる板の間と、的が置かれた土手のような「安土」から成り立つ。その間の三十メートル近い空間には、さんさんと降り注ぐ日の光の下、短い草が生い茂っていた。
 護宏は板の間に五人並んでいるうちの前から二番目にいた。一番前は早瀬、護宏の後ろには道場の常連とおぼしき年配の男性が三人。みな白い道着に黒い袴姿で、弓を左手に、矢を右手に携えて位置についている。はじめに四本の矢を持って入り、立ったり座ったりしながら順番に一本ずつ射ていくらしい。
 沙耶のいる位置から護宏の顔は見えるが、射に専念している護宏が沙耶に気づいているかはわからなかった。
 護宏が放った最初の矢はまっすぐに的に突き立ったが、沙耶のため息はむしろ、弓を構え、引く護宏の姿の美しさに対するものだった。
 弓道などあまり見たことはないが、きれいだ、と思った。まっすぐに立ち、的の方を向いてつがえた矢を引いていく、その動作の一つ一つがことごとく自然だった。
 反動で矢があんなに飛んでいくのだから、力がかかっていないわけではない。なのに動きには無駄がなく、力をこめている様子は見当たらない。
 それでもなお、引いていくにつれて高まっていく気のようなものが、目を引き付ける。
 少しもぶれることのない、それでいて機械的ではなく指先にまで気が行き届いているのがわかる。なにをどう表現すればよいのかわからなかったが、見ていて思わず引き込まれる、そんな射だ。
「ニテキの男の子、高校生?」
 近くでそんな声が聞こえる。道着姿の女性が二人、会話しながら沙耶のそばを通り過ぎていくところだった。
(護宏のことだ)
 沙耶は思わず聞き耳を立てる。
「早瀬先生の教え子ですって。高校に指導に行ってるって言ってたじゃない。ほら、オオマエにいるのが先生の娘さん」
 どうやら「ニテキ」は二番目、「オオマエ」は一番前を指すらしい。
「ああ、だから高校生にしてはいい射なのね」
「そうねえ。年のわりに品があるわよね」
 女性たちはそのまま通り過ぎ、観覧席には沙耶一人が残される。
(やっぱりきれいな射なんだ)
 自分の印象が単なるひいき目ではなかったと思い、沙耶は少しうれしくなる。
 その時、首筋になにかが触れた。
 なにげなく振り向いた沙耶の表情が凍りつく。
 人ほどの大きさの蛸のような黒い影。妖魔だ。
 声を上げるより早く、蛸の妖魔の足が沙耶の喉元にからみつく。
(護宏!)
 今、護宏が助けに来られるはずがない。
 わかっていても、とっさに助けを求めてしまう。
(そうじゃない、自分でなんとかしないと)
 沙耶は首にからみついてじわじわと締め上げてくる足に手をかけ、引きはがそうとした。
 その時。
 黒い影が目の前をよぎった。
 次の瞬間、妖魔の足は断ち切られ、力を失って床に落ちた。切られたところから妖魔が消えていく。
 なにが起こったのかよくわからなかったが、助かったらしい。せき込みながら、沙耶は黒い影の方を向いた。
 修験者姿の人物が、こちらに背を向けている。
 背には黒い翼。その姿に見覚えがあった。
(サガミ!)
 護宏から聞いた名。以前にも自分を助けてくれた烏天狗だ。
 サガミは振り向きもせず、そのまますっと姿を消した。
「あ、待って……」
(また、お礼を言えなかった)
 何度も助けられているのに、礼を言う前にいつも消えてしまう。
「……彼は『外』で戦うことができますが、それ以外のことはできないんです」
 うなだれた沙耶のすぐ近くで、子どもの声がした。
 はっとして見ると、かたわらに水干姿の子どもがいた。金色の目がすまなそうにこちらを見上げている。
「ナギ……くん?」
「出ていられる時間もわずかなので、不調法しております。かわりにお詫びを」
「そんな……」
 沙耶は少なからず驚いていた。姿を見たことはあっても、ナギが自分に言葉をかけたことなど、これまでになかったからである。
「いつも助けてもらっているのにお礼が言えなくて。よかったら伝えてもらえる?」
「もちろんです。サガミも喜ぶでしょう」
「よかった」
 沙耶は少しだけほっとする。
「それで」
 ナギには本題があったらしい。わずかに堅い語調で続ける。
「最近、あなたを狙う妖魔がいるようです。だからできるだけあの方の近くにいてください。そうすれば、我々も出ることができます」
 沙耶は一瞬返答につまる。
 ナギのいう「あの方」とは護宏だろう。そしてナギやサガミは「封印」ゆえか、護宏の周囲に短時間しか出られない。
 だがそれでも、自分を助けてくれようとしているのだ。
「どうして助けてくれるの?」
 思わずそんな問いが口をついて出た。
「あなたになにかあれば、あの方が苦しみます。それに……あなたは我々にとっても大切なひとだから」
「どういうこと?」
「あなたがこうやって、我々に目を向けてくれるから。昔から……そうでしたね」
 ナギは金色の目を細め、ふっと遠い目をする。
 沙耶は急に、目の前のナギがとても長い時間を背負ってこの場に存在しているような、ふしぎな気分にかられた。そのせいか、ふとこんなことを尋ねてしまう。 
「……封印が解けたら、護宏はどうなるの?」
 言ってから、あまりに言葉足らずだったことに気づく。
 封印とは何のことか、そもそも本当に護宏が数珠によって封印されているのか、そして、その答えをナギが知っているのか。そういった前提を飛ばして、いきなり出てしまった問い。
 が。
 ナギはやわらかな笑みを浮かべた。
「大丈夫。あの方は、あの方ですよ」
「え?」
 なにもかもわかっているかのような返答。
 そして。
「だから……」
 不意に。
 ガラス越しに拍手が鳴り響いた。
 はっとして射場を見ると、護宏が最後の矢を放ったところだった。四本の矢がすべて的に命中したので、周囲の人々が拍手したということらしい。
「ナギくん、今……」 
 拍手で聞き取りづらかったところを確認しようと、沙耶はナギの方を向く。
 そこにはもう、誰もいなかった。
(どういうことなんだろう)
 ――だから、封印を解いてください。
 ナギがそう言ったように聞こえた。
 だが。
(わたしが封印を解くって?)
 なんのことかわからなかった。
 沙耶は考え込みながら、射場に視線を戻す。
 射を終えた護宏が退場していくところだった。
 出口の前で向きを変え、軽く一礼する。
 その時、一瞬視線が合った。
(!)
 どういう表情をしてよいのかわからず、沙耶はうろたえる。
 が、沙耶と視線を合わせた瞬間、護宏の目がわずかに微笑んだ。
(いつもの護宏だ)
 ほっとした自分を感じた。
 封印が解けても、彼は今のように微笑んでくれるような気がする。
 根拠はない。だがなぜか沙耶にはそう確信できた。
 なにがあっても、彼は彼なのだ、と。
 そして。
 それが明らかになるのは、さほど遠いことではない――どこかで沙耶は、そう予感していた。

 (第18.5話 終)

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