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19話 淵源・前編

2 白昼の拉致 B

 日曜日の金剛駅前広場は、いつものにぎやかさを見せていた。
 行きかう人々は足早に駅へと向かい、あるいは通りを上り下りしているが、十二月も半ば、年の瀬のあわただしさがどこかに感じ取れる。
 駅前広場のモニュメントの前で、出水沙耶は先週買った本を手にたたずんでいた。本をぱらぱらとめくるが、なぜか、読んでみる気が起こらない。
 ふと、本に挟んであった一枚のメモが目についた。
 「斎女の命断たれ、闇俗世を覆ひたり。これよりこの世はこと世となりぬ。欲塵淵源にて色をなし、諸々の禍事の種となるべし」
 メモには彼女の字でそう書いてある。那神寺の記録の写しだ。
 このメモを見せた時に護宏が流した涙を、沙耶ははっきりと覚えていた。
 実のところ、沙耶にはこの一節の意味がよくわからなかった。書かれていることば自体はさほど難解ではない。斎女すなわち巫女の死によって「闇」が世界を覆い、その結果世界は異世界へと化した。欲望が「淵源にて色をなし」て、以後あらゆる災いの源となるであろう――そんなところである。
 だが、この世界が「こと世」すなわち異世――異世界――になった、とはどういうことか。そして「淵源」はどういう役割を果たすのだろうか。
 わからない。だが、どこかが彼の「記憶」に触れた。それだけははっきりしている。
(なにかあるんだ。でも……)
 沙耶はメモを本に挟んでぱたんと閉じる。モニュメントを振り返るように見上げると、時計が見えた。護宏との待ち合わせ時刻まで、まだ二十分ほどある。
(さすがに、早すぎたかな)
 いつものように護宏と図書館に行くのだが、駅前で待ち合わせているのは、学校で沙耶の同好会の用事があったからである。用事が早めに済んだので待ち合わせ場所に来てしまったが、護宏が現れるのはもう少し待ち合わせ時刻が近づいてからだろう。
(封印を解くって、どういうことなんだろう)
 沙耶はふと考える。
 先日のナギの言葉。
「あの方はあの方です。だから封印を解いてください」
 ナギはそう言った。だが、沙耶に心あたりはない。
(わたしになにかできるの?)
 なんども自問するが、なにもわからない。
 自分は護宏の幼なじみでしかないし、特別な力を持っているわけでもない。護宏の記憶に「過剰」と「欠落」があることを、少しばかり知っているというだけだ。
 だが、護宏のためになにかできることがあるのならやるべきだ、とも思う。
(これ……なにか関係あるのかな)
 沙耶は別のメモを取り出して眺めた。やはり那神寺の古文書の写しで、先刻のメモの後の部分らしい。
「遍照の光闇を払ひ、淵源なるを其名を以て封ず。然れども世はこと様に留まりたり」
 メモにはそう書いてある。「遍照」とはあまねく照らすことを意味し、仏教では大日如来の異名でもある。その光がこの世を覆った闇をうち払い、「淵源なる」――淵源にあるもの、もしくは淵源であるもの――をその名前によって封印した。それでもこの世界は異世界のままである……そんな内容だ。
 こちらはさらに意味がわからない。
 だが沙耶の知るかぎり「封印」になにかしら関係しそうな古文書は、ほかには見当たらなかった。
 自分にできることは古文書を読むことぐらいだと、沙耶は思っている。自分に封印を解くことができるのだとすれば、それはきっかけとなる古文書を捜し当てることではないか――そう彼女は考えていた。
 自分が「封印を解いてください」とナギに頼まれる理由は、ほかにはどうしても見当たらなかった。
 が。
(いくらなんでも、これを護宏に見せたからって、どうなるわけでもない気もするなあ)
 正直、こんなメモがなんらかの手掛かりになるようには、沙耶には思えなかった。
 わずかに苦笑し、顔を上げてなにげなく駅の方角を見やる。
 その時だった。
 視野の片隅を黒い影がよぎったと思った瞬間、沙耶は自分の身体がぐいと持ち上げられるのを感じた。
「!?」
 はずみで沙耶の手から本が落ちる。
 妖魔が自分を抱え上げ、どこかへ連れて行こうとしているのだと気づくまでには、やや間があった。その間にも黒い影は跳躍を繰り返し、駅前広場はぐんぐんと遠ざかっていく。
 どうすることもできなかった。
 激しく上下する中で、沙耶の目は追いすがってくる姿をとらえていた。
 翼を広げ、まっすぐこちらに向けて飛翔する烏天狗。
「サガミ!」
 沙耶は叫び、かろうじて自由になる片手をサガミのほうにのばす。サガミはそれに応じるかのように、手にした錫杖を沙耶に向けて差し出した。
 沙耶の手があと少しで錫杖に触れそうになる。
 が、その手はむなしく空を切った。
 サガミの速度が落ちてきていた。力を振り絞っていることは、翼の羽ばたかせ方からわかる。どこか、思うように力が出ていない、そんな様子だった。
(護宏から離れてるから、力が出せないんだ)
 次第にサガミの姿が遠ざかる。
 姿が見えなくなる直前、サガミの嘴が動いているのがかろうじて見えた。声は聞こえなかったが、自分を呼んでいるのだと、沙耶は思った。

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