[index][prev][next]

20話 淵源・後編

3 今この時にできること

「おい、圭一郎!」
 征二郎が背後から小声でささやいた。
 振り向くと征二郎が鉄格子の扉の前に立って手招きしている。前田に気づかれないようにそろそろと近づくと、征二郎は早口に耳打ちした。
「今のうちに出水さんを助けるぞ」
「助けるって、鍵は?」
「護宏が壊してくれたじゃん」
 征二郎は床を指さす。
 壊れた錠前が落ちていた。強い力が加わったようにひしゃげている。そばに古びたドライバーや金づちも落ちていた。
(まさか、滝は……)
 圭一郎はやっと悟る。
 護宏がねらったのは、征二郎ではなく錠前だった。はじめから彼は、鉄格子ぎわに相手を追い詰め、攻撃するふりをして錠前を壊すつもりだったのだ。
 そして征二郎もそれを理解していた。護宏が壊しきれなかった錠前を、手近な工具を使って今まで黙々とはずしていたのだろう。
(それを僕は……)
 護宏のもくろみを妨害し、あろうことか前田の思惑にはまって護宏を負傷させたのは自分だ。
 圭一郎は唇をかむ。
「なに考えてるのか大体わかるけど、今おまえがやるのはこっち」
 征二郎が細長いものを手渡す。受け取って見てみると、それはヤスリだった。錠前をはずすのに使った工具と同様、廃材の山にまぎれていたものだろう。
「これでなにを……」
「一緒に真言で妖魔を弾く。そしたら出水さんのロープをそれで切って逃げろ。妖魔は俺がなんとかする。出水さんをこれ以上怖がらせておけないよ」
 圭一郎ははっとして沙耶の方を見る。
 いつの間に目が覚めていたのか、沙耶は上体を起こし、こちらをじっと見つめていた。鬼の妖魔に威嚇されているのか、動いたり声を出したりする様子はない。
(!)
 圭一郎はある事実を思い出し、思わず声を上げそうになった。
(あの妖魔は……前田に操られてない!)
 前田が摩尼珠の力をすべて護宏を操るために使っているのであれば、あの妖魔はもはや前田の命令を聞きはしないだろう。結界が解け、圭一郎にも気配が感じられるようになったのがなによりの証拠だ。
 だがそれは逆に言えば、いつ鬼が沙耶を襲ってもおかしくないということだ。
 真言があの巨大な妖魔に通じるようには思えない。妖魔をくい止める役を買って出た征二郎は、さらに危険な目に遭うかも知れない。
 が。
「わかった。いつでもいいから合図して」
 圭一郎はそれだけ言って、ヤスリを手に扉の方に向き直る。
 今はあれこれ考えている時ではない。全力で沙耶を助け出す。それだけに集中しよう――そう思った。
(絶対、成功させる。そして滝を助けて、ちゃんと謝るんだ)
 この手で護宏に深手を負わせてしまったこと。それが前田につけいる隙を与えてしまったこと。
 自分がしてしまった失敗を、だが、今悔やんでいる暇はない。
 今この時にできることは、沙耶を救出すること。
 それだけなのだ。

「行くぞ!」
 征二郎が扉を開け放つ。
 二人は扉をくぐり、妖魔に向かって走り出した。
「ん? なにをしている、無駄なことを」
 前田のあざけるような声が聞こえた。
(無駄かどうか見てろよ!)
 圭一郎はひとつ息を吸った。征二郎とまったく同じタイミングで息を吸ったのがわかる。真言を唱えようとしているのだ。
 合図もなしに、圭一郎はそのまま真言を叫ぶ。征二郎も一緒に叫ぶだろう。それがなぜか圭一郎にはわかっていた。
 二人の声がぴったりと重なった。
「オン・アミリティ・ウン・ハッタ!」
 が。
 二人分の真言は、鬼の顔をわずかに傾けさせたに過ぎなかった。
 鬼の目がかっと開かれる。その目はまっすぐに二人をとらえていた。
「だめ!」
 沙耶の声が響き渡った。
「その妖魔は近くの声に反応するんです。二人ともわたしのそばから離れて!」
 沙耶は妖魔の習性を知っていた。だから声を出さずに耐えていたのだ。
 それなのに彼女は、自ら声を発した。自分たちを救うために。
 そんな沙耶を見捨てられるわけがない。
「出水さんに近づくな! おまえの相手は俺だ」
 征二郎の声が聞こえる。彼もまた、自ら声を出すことで、時間を稼ごうとしているのだろう。
 圭一郎は手はず通り、ヤスリを手に沙耶に近づき、手首を何重にも縛っているロープを切り出した。
(出水さんは絶対に助ける!)
 征二郎の方を見る余裕はないが、決して楽観的な状態ではないということだけはわかる。
(はやく切れてくれ!)
 圭一郎はヤスリを持つ手に力をこめた。
 が、ロープは思いのほか頑丈で、なかなか切れない。
「うわぁっ!」
 征二郎の声。
 振り向くと、今まさに征二郎を呑み込まんとする妖魔の姿が目に入った。
(征二郎!)
 とっさに真言を唱えようとした時。
「いやぁっ!」
 沙耶が叫び声を上げた。
「助けて、――!」

 次の瞬間を、圭一郎は生涯忘れはしなかった。

[index][prev][next]