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20話 淵源・後編

4 世界変わりし夜(上)

 眼前に鬼の牙が迫る。
 後ろには沙耶と圭一郎がいる。退くわけにはいかない。
 絶体絶命の危機。だが、征二郎はまだあきらめていなかった。ふたたび真言を唱えようと、妖魔を正面から見据えてすっと息を吸う。
 その時。
「――!」
 沙耶の声が聞こえた。
 なんと言っているのか、征二郎にはわからなかった。誰かの名前らしいということは理解できていたが、その音はどうしても思い出すことができなかった。
 次の瞬間。
 目の前にのしかかっていた妖魔が、ふとその動きを止めた。征二郎を見据えてかっと開かれていた目だけが、ぎょろりと横に動く。
 征二郎はその視線の先を追う。
 妖魔のすぐ横に、滝護宏が立っていた。
 負傷して摩尼珠に動きを封じられていたはずだ。それも鉄格子の向こう側で。いつの間に立ち上がり、ここまでやって来ていたのか、征二郎はまったく気づいていなかった。
 一見、護宏にはなにも変わったところはなかった。いつもの無表情で、静かにたたずみ、妖魔に目をやる。たいして面白くもなさそうに、なにげなく一瞥した――そんなふうに、征二郎には見えた。
 不意に、妖魔が消えた。
 逃げたようには見えなかった。むしろいつも目にしている、退治された時の消え方によく似ている。
(護宏だ)
 護宏は普通に立っていただけだ。だが、妖魔を退治したのは護宏以外にはありえない。そんな直感のようなものを、征二郎は抱いていた。
 妖魔の消滅を見届けてから、護宏は沙耶の前に立ち、手を差しのべている。
「沙耶、大丈夫か?」
 沙耶は護宏を見上げた。その目には驚きと戸惑いの色が浮かんでいる。
「……」
 しばらくためらってから、沙耶が声を発した。
「護宏……だよね?」
 護宏の表情が動いた。
 めったに見せることのない穏やかな微笑みが、彼の端正な顔に浮かぶ。
「そう言っただろう?」
 沙耶の顔に、初めて笑みが表れた。
「うん、そうだよね!」
 沙耶が手をのばし、護宏の手を取って立ち上がる。沙耶を縛っていたはずのロープは、いつの間にか切れていた。
(あれ? そんなにすぐ切れるものだったのかな)
 圭一郎がヤスリでロープを切っていたはずだが、手足のロープをすべて切るほどの時間はなかったように思える。
「お、おまえ、一体なにをした? なぜ命令に従わない?」
 突如、狼狽した声が響く。
 見ると、鉄格子の向こうから駆けつけてきた前田が血相を変えていた。
 護宏は前田の方に振り返り、はっきりとした声で告げる。
「俺を従えることはできない。俺が守る者たちにも、一切の手を出させない」
「なんだと? 貴様、摩尼珠に捕らえられたことを忘れたのか? おい……」
 前田が続けてなにごとか叫んでいるが、護宏はそれをすっかり無視して、征二郎の前に立つ。
「すまなかった」
 そう言って手渡されたものを見て、征二郎はあっと声を上げた。
 退魔の宝珠。
「取り返してくれたんだ。ありがとな!」
 前田が持っていたはずの宝珠を、護宏がどうやって取り戻したのか。深くは考えずに、征二郎は屈託ない礼を言う。護宏は軽くうなずき、再び沙耶の手を取った。
「沙耶、帰ろう」
「あ、うん」
 次の瞬間。
 目の前に護宏と沙耶の姿はなかった。
「……ん?」
 征二郎は無人の空間を見つめたまま、しばらく突っ立っていた。
 なにが起きたのか把握できなかった。
「ええと、あれ?」
 人が二人、目の前で消えた。
 それがどれだけ常識はずれの事態なのか、征二郎が理解するまでには少しの時間を要した。
「ちょっと待てよ」
 理解の範疇を越えたことが起きたことに、征二郎はやっと少しずつ気づきはじめる。
 よく考えればかなり奇妙なできごとが立て続けに起こっていたのだが、考える前にどんどん事態が進んでいってしまい、征二郎はそれを目で追うことしかできていなかった。
 だが、さすがの征二郎にも一連のできごとの異常さがわかってくる。
「なにがどうなったんだ、なあ、圭一郎……」
 征二郎は壁際にたたずむ兄の方に目をやる。
 その時初めて征二郎は、圭一郎のただならぬ様子に気づいた。

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