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21話 止まらない日常

1 世界を覆う闇

 ふと目を上げると、制服姿の背中が見える。
 滝護宏。崖の上に立ち、眼下の風景を眺めているようだ。
「滝?」
 近づこうと一歩踏み出した圭一郎は、突然感じられた気配に思わず立ち止まった。
 とてつもなく圧倒的な気配。自分の存在をおびやかすものの気配だと、直感でわかる。
 邪悪、という言葉がとっさに浮かんだ。
 それが今、目の前の護宏から発せられている。
(そうだ、昨日……)
 この気配を一瞬放ち、妖魔を消し去って目の前から消えうせたのは、ほかならぬ護宏ではなかったか。
 なにが起きたのかはわからない。だが確かなことがひとつだけある。
 今目の前にいるのは、昨日の昼間までの彼ではない。
(ならば、こいつはなんだ?)
「――飽きたな」
 不意に護宏が言葉を発した。
「え?」
 反射的に聞き返すと、護宏はゆっくりとこちらに顔を向ける。
「この世界にも飽きた」
 静かな口調からは、どんな感情も感じ取れない。
 圭一郎を見る目にも、いっさいの情が見られない。あたかも虫かなにかを視野の片隅に置いているだけ、とでもいうかのようだ。
 圭一郎は射すくめられたように、ただその表情を見つめる。
(なんのことだ?)
 そう尋ねたかったが、声にならなかった。
 護宏はふと、圭一郎にまっすぐ目を向けた。
「残っているのは、おまえだけだな」
 護宏は――護宏の姿をしたものは――すっと手を上げ、圭一郎の後ろの空間を指さす。
 圭一郎は振り返る。
 すべてを呑み込んだ闇が、すぐそこまで迫ってきていた。

「!」
 はね起きるとそこは、自分のベッドの上だった。カーテン越しの窓の外は薄暗かったが、窓辺のデジタル時計の時刻は午前六時を示している。起床時刻だ。
「夢か……」
 圭一郎はふう、と息をついた。
 これほど夢でよかったと思ったことはない。
 圭一郎はカーテンを少し持ち上げて、外の風景を見やった。薄暗い中、静まり返った庭の向こうで、バイクのエンジン音が通り過ぎて行くのが聞こえる。
 いつもと変わることのない冬の朝。
 いや。
 ほんとうに、なにも変わっていないのだろうか。
 昨夜。
 傷つき、摩尼珠によって動きを封じられていたはずの護宏が、突然放った気配。妖魔を一瞥するだけで消滅させ、沙耶を連れてその場から姿を消した彼に、なにかが起こったことは間違いない。
(あいつは……淵源なんだろうか)
 前田は最初、護宏を「淵源を目覚めさせる者」だと考えていた。彼が語ったところでは、淵源とは妖魔を生み出す鍵となるもので、遠い昔から封印されていた。かつてそれが一度だけ目覚めた時に、世界は闇に覆われたのだという。
 護宏の変化を目の当たりにした前田は――退魔のわざを持つ彼も当然、あの気配を感じ取っていたはずなのだが――護宏が淵源そのものだと判断し、その場を去った。
 その判断はどこまで妥当なのだろうか。
(少なくとも今のあいつは、世界を闇に覆うことぐらいできるだろうな)
 夢を思い出し、圭一郎は身を震わせる。
 夢はあくまで夢にすぎず、現実を反映しているわけではないが、彼が感じた気配と夢の中の護宏はあまりにも一致していた。
 だから、ただの夢だと笑えないのだ。

 圭一郎は立ち上がり、着替えに手をのばす。
(?)
 机の上の携帯電話が点滅し、メールが着信していることを告げていた。
(まさか?)
 急いで手に取り、新着メールの文面を呼び出す。
 差出人は吉住だった。
「こんばんは。この間の汚損型妖魔をビデオで見ていたんですが、征二郎君が退治した瞬間、妖魔の体の中から小さくて白い粒状のものが落ちているようです。今まで見たことがなかったので気になりました。気づいていることがあればご連絡ください」
 一瞬、どの妖魔の話なのかわからなかった。
 しばらく考え、襲った相手をだめにする妖魔のことだと気づく。妖魔を撮影する特殊フィルターを利用したテレビの映像によって、見えない妖魔を発見できた事件だった。
 つい数日前のことなのに、ひどく昔のように思えるのはなぜなのだろう。
(白いもの……なんだろう)
 妖魔を退治する場面には幾度となく立ち会ってきたが、そのようなものに心当たりはない。
 意識して見ていなかったから気づいていないだけなのか、フィルターごしにしか見えないものなのか。
 くだんの妖魔だけに特有の現象かも知れないが、現時点ではなんとも判断のしようがない。
(それにしても……)
 圭一郎はメールの送信履歴を呼び出し、もっとも最近に送信されたメールに目を通す。
「宛先:滝護宏
 件名:なんだよー
 本文:いきなり消えるなよー。びっくりしたじゃん。圭一郎なんか気配がどうとかで引いてたし。ちゃんと説明しろよな」
「……つくづく、緊張感のない文面だ」
 圭一郎は苦笑を浮かべたが、それがメールを送った征二郎に対する苦笑なのか、護宏からの返信を一瞬期待してしまった自分に対する苦笑なのかは判然としなかった。

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