「圭一郎さあ、あんまりへこむなよ」
吉住と別れてバスに乗り、自宅最寄りのバス停で降りる。住宅街を歩きながら、征二郎がそう言った。
「へこんでるんじゃないけど……」
圭一郎は浮かない顔で答える。
落ち込んでいるつもりではない。だが、考えることがあまりに多すぎて、話しかけてくる征二郎の言葉があまり耳に入って来ていない。
「そうか? そんな顔で黙り込んでるのに?」
なにを聞かれても生返事の圭一郎を見て、征二郎は落ち込んでいると思ったのだろう。
「考え込んでただけだよ」
「妖魔を減らす方法がないかとか?」
「うん。それもある」
「それもって、ほかになんかあるんだ?」
「……いろいろとね」
今日は朝から手に入れた情報があまりに多い。
ナギが話してくれた、彼らや護宏の正体と沙耶の前世。
沙耶が解読してくれた、異形に変じた者と宝珠家の先祖の記録。
それに、吉住が推測した、妖魔が増えている原因。
さすがの圭一郎も、これだけの情報を短時間に与えられては処理しきれない。
いったい何から考えていけばいいものやら、見当もつかなかった。
「ふーん、よくわかんないけど、考えてなんとかなるものから考えたらいいんじゃねえの?」
征二郎がなにげなく言う。
(考えてなんとかなるもの、か)
たしかにいくらここで考えようと、何百年も前のできごとが変わるわけでも、新事実が発見できるわけでもない。
だが、考えるなといって考えずに済むものなら、とうにそうしている。
それに、なんとかなるものとは、この場合なにを指すのだろう。
答えを見つけられぬまま、二人は十字路にさしかかった。道の片側にすっかり葉の落ちた木々が立ち並んでいるのが見える。黄昏時、順々にともりはじめた街
灯があたりを照らしているが、その一角だけが妙に薄暗く見えた。
桜公園の入口である。
「――?」
圭一郎はふと足を止めた。
妖魔の気配が、公園の中から感じられる。
「なに? 妖魔?」
「そうだけど、まだ実体化はしてなさそうだ。……でも、変だな」
圭一郎は首をかしげる。
妖魔の気配は大して強くはない。これまでの経験から言えば、放っておいてもしばらくは大丈夫な程度の強さである。
だが、動きが妙だ。
「なんだか、一か所に集まっていくような……」
経験のない気配の動きが気にかかり、我知らず、足が公園の中に向かう。手には宝珠を握り締め、気を抜かないように前進した。征二郎も疑問を発することも
なく、すぐ後に続く。
公園奥の広場――かつて沙耶が樹怪にとらえられ、護宏が負傷した場所。
広場のベンチに座り込んでいた人物が目に入り、圭一郎はとっさにどう反応したものか迷った。
「宝珠兄弟か。ちょうどいいところに来た……」
その人物は宝珠兄弟に気づき、立ち上がってふらふらと歩みよって来る。
どこか、様子がおかしい。
「ここでなにやってんだ?」
征二郎が警戒した声を上げた。
「おまえたちの、そう、その珠だ。そいつをよこせ」
その手はまっすぐに、圭一郎の持つ宝珠を指している。
「前田、おまえ、まだあきらめてなかったのかよ!」
「いいからよこせ、摩尼珠をあの悪魔に奪われた代わりだ!」
「護宏のこと? ひでー言い方だなー」
征二郎があきれたように首を振る。
「なあ、圭一郎もなんとか言えよ」
征二郎に促され、圭一郎は宝珠を握り直して前田と向かい合う。
「滝がなんであろうと、摩尼珠をあなたに持たせておくよりはましだと思うよ」
「なんだと?」
「この宝珠もね。渡すわけにはいかない」
言いながら、逃げる隙を探そうとした。
人間に通用する有効な手段を、彼らは持っていない。正確に言えば、圭一郎も征二郎も古武術の習練を積んではいるが、人にダメージを与えるためにそのわざ
を使うことなど、もう二度とやりたくはない。
それに、前田の様子はどう見ても普通ではなかった。
(この人、今までは周到に準備して行動してたはずだ。でも……)
摩尼珠も那神寺の記録も失い、もう妖魔を操ることはできないはずだ。今のこの状況で、宝珠兄弟から宝珠を奪うのは無理だろう。第一、ここで会ったのは
まったくの偶然だ。計画があったとは思えない。
にもかかわらずこちらへにじり寄ってくる前田の様子に、圭一郎はただならぬものを感じていた。
単に自暴自棄になっているだけなのだろうか?
「圭一郎、なんかヤバくない?」
詰め寄ってくる前田に、征二郎も同じものを感じたようだった。
うん、ヤバい……そう言いかけて、圭一郎はあることに気づく。
(気配が……前田に集まってる?)
いまだ形をなす前の妖魔の気配がゆるやかに動き、集まっていく。
その先に、前田がいる。
(いったい……)
逃げられなかったのは、いぶかしむ気持ちのせいか。
「つべこべ言わずによこすんだ!」
手を伸ばしてきた前田を、圭一郎は横に飛びのいてかわした。
(?)
前田の位置と飛んだタイミングから考えれば、余裕でかわせるはずだったのに、前田の手は圭一郎をすれすれでかすめた。
奇妙に思った圭一郎は前田に目をやり――。
慄然とした。
前田の手が、ありえない長さで伸びていた。
「その宝珠……ヨコセ……」
ぎらぎらと目を光らせ、さらに間合いを詰めてくる前田の腕は、いつの間にか二メートルほどになっている。
通常ではありえない長さだ。
それだけではない。
地味なジャンパーを羽織った背中が瘤のように膨れ上がり、そこから何本もの手が突き出る。それらの手が宝珠を求めるかのように、こちらに向かってうごめ
いていた。
圭一郎は言葉を失う。
異形の姿。
そんな言葉が思い浮かんだ。
「圭一郎!」
征二郎に袖を引っ張られるが、圭一郎は動くことができなかった。
あまりの事態に何をどうすべきか判断がつかない。
「オン・アミリティ・ウン・ハッタ!」
傍らで征二郎の真言が響く。同時に、こちらに伸びてきていた前田の数本の手が弾かれたように引っ込められた。
征二郎が真言を唱えれば、妖魔を吹き飛ばすことができる。
逆に言えば、征二郎の真言で吹き飛ばされるものは、妖魔だ。
(こいつ、やっぱり妖魔に……)
気配は前田に集まり、一つの大きな気配となりつつある。
妖魔の気配に。
――欲を抱いた人の体にも、行き場を失った思いが集まってくるんです。
今朝の沙耶の言葉。
平安末期に起こったというその現象が、今自分たちの目の前で起こりつつある。それは理解できた。
前田に欲望が集まり、妖魔となっていく……。
だが、この現象にどう対処すべきなのだろう。
「圭一郎っ!」
征二郎が叫ぶ。
「こいつもう妖魔じゃん、早く剣出せよ!」
「わかってるよ、でも!」
征二郎の言葉を遮るように、圭一郎も叫んだ。
「剣で退治したらどうなるか、わかってるのか?」
宝珠の剣は妖魔を斬る。本来人は斬れないのだが、今の前田は恐らく斬れる。
斬れてしまう。
問題は、その後だ。
剣で斬られた前田はどうなってしまうのか。それが圭一郎にはわからなかった。妖魔が消えるように消えてしまうとしたら、それはすなわち、前田という一人
の人間を殺すことになるのではないか。
前田にはこれまでに怪我もさせられたし、宝珠を奪われたこともある。そんな相手だが、それでも殺してよいわけがない。
他に妖魔と化した人間を止める方法がないのなら、そして、手を下すのが自分なら、まだしかたがない。だが、剣を振るうのは征二郎だ。弟にそんな恐ろしい
ことをさせられるわけがない。
圭一郎が悩み、動きが取れなくなっている間にも、異形の前田はじりじりと近づいてきている。征二郎が何度も真言で弾き返しているが、根本的な解決には
なっていない。それどころか、弾けば弾くほど、前田の全身から突き出される手が増えていく。
(冷静に考えろ、圭一郎)
圭一郎は自分自身に呼びかける。
宝珠家の先祖が異形と化した者を救い、救われた人物はのちに記録をしたためた。
ならば、方法があるはずだ。
この宝珠に、先祖が最初に願ったこと。
その範囲内で、宝珠は願いをかなえる。
(ご先祖なら……いや、そうじゃない)
圭一郎は頭をひとつ振り、手を数十本に増やして迫ってくる異形を見据えた。 そして、宝珠を握った手を高々と掲げる。
(大事なのは、僕が今何を願うかだ!)
これまで前田にどれだけ迷惑をかけられたかは、その時の圭一郎の頭からはすっかり消えうせていた。
「征二郎!」
握った手から輝きをほとばしらせながら、圭一郎は鋭く叫んだ。
「妖魔を斬れ! 前田を助けるんだ!」
宝珠の光に、異形がひるむ。その隙に圭一郎は、宝珠の剣を持ち替え、征二郎に突き出した。
「わかった!」
剣が手から離れる感覚。征二郎が鞘を払い、無駄のない動きで前田に斬りかかる。
次に何が起こるか、圭一郎にも分からない。ひとつ間違えば、二人は重い罪を背負ってしまうことになるかも知れない。
彼にできるのは、願うことだけだった。
(元に戻れ!)
息をつめて見守る前で、征二郎の剣が振り下ろされる。
次の瞬間、身の毛もよだつ悲鳴が、公園に響き渡った。
(!)
圭一郎は反射的に目を閉じた。
妖魔の気配がすっと消えていく。さらなる気配が集まってくる様子も、もはや感じられない。
何かが地面に倒れる音がして、それきり静かになる。
「圭一郎? なにやってんだよ?」
恐る恐る目を開けてみると、征二郎が呆れた顔で宝珠を突き出している。
「ごめん」
受け取りながら圭一郎は、目の前で前田が座り込んでいるのに気づいた。呆然とした様子で、なにかをつぶやいてはいるが、とりあえず無事らしい。
数十本に増えていた手も、背中でふくれあがっていた瘤も、すっかり姿を消している。
「元に戻ったんだ……」
「そうしろっておまえ、言ったじゃん。そういう剣を出したんじゃなかったのかよ?」
征二郎がむっとしたように言った。
「……そうだね、悪かった」
圭一郎は素直に謝り、宝珠をしまって歩き出す。征二郎も続き、二人は桜公園を後にした。
道すがら、圭一郎は宝珠に込められた願いに思いを馳せていた。
――この人が誰であろうと救いたい。
あの時本気で願ったことを、遠い昔に先祖も願ったのだろう。
その願いは宝珠に込められ、今まで受け継がれてきた。
恐らくは、これからも。
すっかり夕闇に覆われ、街灯に照らされた公園。
前田は一人、冷たい地面に座り込んだままだった。
「……どうして、あんなことを」
そんなつぶやきを、もうなんべんも繰り返している。
退魔師として、妖魔を退治する方法を探し求めていたはずだった。
観音像の宝玉が妖魔を抑える力を持っていることに気づき、その研究を始めてから、少しずつ、何かが狂っていった。
いつしか妖魔が世界を浄化するのだと信じるようになった。のみならず、それを実行するのがほかならぬ自分だとさえ思うようになっていた。摩尼珠を完全な
ものにするために、手段を選ぶこともなくなっていった。
自分こそが正しいのだと信じて。
なにかに引きずられるように、思い込みに思い込みを重ね、その挙句、危うく闇に呑まれかけた自分自身。
――本来の願いを思い出せ。
あの言葉は、まさしく忠告だったのか。
前田はよろよろと立ち上がる。
はじめからやり直そう――低くそうつぶやき、桜公園を後にする。
本来の願いに立ち返って。
今度は摩尼珠によらずに、一人の力で。