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24話 思いの集まるその先に

2 神域の会話

 巳法川の上流は、謎に包まれている。
 源流と思われる冥加岳は、標高千六百メートルあまり。山頂付近は急峻な 地形だが、周囲の山々と比べてとりたてて高いわけでもなく、見たところ周囲と変わらぬ森に覆われた、典型的な日本の山である。現在では廃村になっているも のの、かつては中腹に集落もあり、人の踏み込めぬ地形というわけでもない。
 集落跡よりさらに奥まで川を遡っていけば、源流に到達することはさほど困難ではないように思われる。
 それにもかかわらず、巳法川の源流はいまだ特定されてはいない。
  その理由のひとつは、源流に対する関心が奇妙なまでに低いということだった。源流――いや、冥加岳そのものを、人々は注意の対象とはしていない。平安時代 には山岳信仰の聖地と称せられたこともあったにもかかわらず、現在の冥加岳は、ただそこにある山という認識しかされていない。
 山はたしかにそこにある。だが、探索や踏破を試みる者はほとんどいない。しかも、それについて誰も疑問を抱くことすらない。
 仮に源流を求めて川を遡る者がいたとしても、その目的を持ち続けることはできない。川を上流へと進むうちに注意が他に向けられ、あるいは興味を失い、探索者は自ら引き返してしまう。
 それゆえ、集落跡よりも上に人が立ち入ることはほとんどない。
 ――あたかも何物かが、そこへ向けられる目をそらしているかのように。
 
 その、冥加岳山頂近く。
 小さな泉が澄んだ水をたたえ、空の月を映し出している。
 泉のほとりには、社がひとつ。月と星の光だけが、社殿をほのかに浮かび上がらせている。
 古い流れ造りの社殿には、人間の気配はない。それにもかかわらず、なにかが動き、さざめき、ささやき合う気配がしていた。
 ふと。
 社の前に、ぽつんと一つの光が生まれた。
 人のいないこの場におよそ不釣り合いな、人工的な照明――携帯電話の画面の光。
 社殿のきざはしに腰を下ろし、護宏が携帯電話の画面を眺めている。
「それは?」  
 傍らには金色の瞳の少年――ナギが座っていた。携帯電話の照明に目を細めつつ、画面の文字を読み取ろうとしている。
「宝珠兄弟に礼を言っておいた」
「めーる、とやらですか?」
 ナギは不思議そうに首をかしげる。
「そんな人間の道具をお使いにならずとも……」
「直接『話す』と、圭一郎が嫌がるんだ」
 護宏の声になんらかの感情の片鱗を感じ取ったのか、ナギが顔を上げて護宏の横顔を見つめる。
 そのナギに、護宏は画面から目を離すことなく語りかけた。
「大したものだと思わないか?」
「え?」
「人間が欲望ゆえになしとげてきたことが、な」
 ナギがわずかに首をかしげ、今一つ腑に落ちぬといった表情をしてみせる。
「遠くへ声を届け、二本の足では行くことかなわぬ場所へおもむき、今や欲のために自ら幻を作り出す。――俺が見せる幻におびえていた人間が」
 護宏は携帯電話を二つ折りにしてしまい込んだ。人工的な明かりが消えると、あたりにぽつりぽつりと青白い狐火がともっているのが見える。
 月明かりと狐火にほんのりと浮かび上がる泉は、この世ならぬ幻想的な色合いを帯びている。
 護宏はその水面に目をやりながら続けた。
「欲望にとらわれ、解脱の道を放棄し、もはや救いの望めぬ人間たちだからこそ、ここまでやって来た――どこまで行くのか、見届けたいものだな」
「妖魔は……いかがなさいます?」
「人間の欲は人間に任せる――あいつらが気づくといいんだが」
「気づくでしょうか」
「心配なのか?」
「それは……」
「だから、圭一郎に答えてやろうとした、か」
「!」
 ナギは金色の目に狼狽の表情を浮かべる。
「気づいていないと思ったか?」
「だって、あの宝珠を今まで受け継いできたんだし、それに……」
「ナギ」
 護宏の口の端に笑みが浮かぶ。
「俺は別に咎めてはいないぞ」
「えっ」
 ナギは恐る恐る護宏の顔を見上げた。
「彼らの先祖に宝珠を手渡したのはおまえだ。その行く末が気になるのも無理はない。俺に気を遣う必要はなかろう」
「でも……いいんですか?」
「話してやればいい」
 護宏は明快な答えを返した。
「それも含めて、彼らがどう判断するかが、この世界にとって重要なんだ」

 


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