翌日、黎明館高校。
終業式を控えた朝の教室は、独特の雰囲気に包まれていた。明日から休みだという浮き立っ
た空気と、授業の始まる時間に授業がないことへの違和感、それに、間もなく受け取る通知表に並ぶ数字を予想する、かすかな緊張感。二年生にとって受験はま
だ先のことだが、推薦入試を考える生徒たちはそろそろ評定平均が気になってくる時期だ。
「で、征二郎は考えてるわけ? 推薦とかAOとか」
「うーん」
堀井の問いに、征二郎は少し考え込む。
「内部進学だったらまあ大丈夫っぽいけど、うちの大学、工学部ないからさ。それにほかにもいろいろ問題があるんだよなー」
「問題って?」
「ほら、あんまり圭一郎と離れると、妖魔退治できないじゃん」
「ああ、そっちの問題か」
「そ。結構切実なんだよな」
圭一郎は気を遣っているのか、征二郎に対してはあまりこの話はしていない。だが、両親と話しているのを聞いたことはある。あれは、当主になってからしばらく経った頃だったろうか。
妖魔退治を二人でやっている以上、離れ離れになることはできない。だが、圭一郎と征二郎の志望する進路はそもそもかなり異なっていた。高校生の間はよいが、その後はどうするべきか、そろそろ考えねばならない時期にさしかかっている。
しかも、妖魔の数が増え、毎日のように退治に駆り出されている昨今の状況を考えると、行きたいところを無邪気に目指せるわけもない。
「このままだと圭一郎がいろいろ気を回して、進路を俺に合わせようとするんじゃないかって気がするんだ」
「それじゃだめなのか?」
「だめだろ? っていうか、俺がいやだし」
「おまえが合わせるわけにはいかないもんな」
「だろー?」
圭一郎に及ぶべくもない成績だということはよくわかっている。目指したいという以前に、目指せる進路の選び方も、圭一郎とはまるでかみ合わない。
(あのなー)
A組の教室に入ってきてちょうどそんな会話を耳にした圭一郎は、軽くため息をつく。
「そう思うなら、ちょっとはふだんから頑張るとかしないわけ?」
「わっ、いつからいたんだよ? もうじき終業式始まるぞ」
驚く征二郎を軽くこづいて横を通り過ぎ、圭一郎は窓際の護宏の席に歩み寄る。
本を読んでいた護宏が顔を上げた。
「征二郎から聞いたかも知れないけど、聞きたいことがある。後で時間取ってくれないかな」
「あ、ごめん、言うの忘れてた」
征二郎の声に、やっぱり、とつぶやく。念のために自分で護宏に伝えに来てよかった。
「わかった。終業式の後、ここで待っている」
護宏は簡潔に答えをよこす。「聞きたいこと」が何なのかを尋ねようともしないのは、既にその内容を承知しているからなのかも知れないし、単に関心がないだけなのかも知れないが、圭一郎にとってはどちらでもよかった。
いずれにせよ、自分たちが聞きたいことに対するなんらかの答えを、護宏は持っているはずなのだから。
「じゃ、そういうことで。征二郎、進路の話は家でゆっくり聞いてやるよ。通知表もらってからな」
「うえー、なんだよそれー」
弟に軽くプレッシャーを与えておいて、圭一郎はA組の教室を後にした。
(確かに、このままだと進路を考え直す必要があるんだよな)
廊下を歩きながら、圭一郎は考える。
都内の国立大法学部を志望している圭一郎は、大学に進学したら家を離れるつもりだった。一方征二郎は、家から通える私立大工学部の中から合格しそうなとこ
ろを選ぶ気らしい。双子だからといって、いつまでも一緒に行動してはいられないのだが、そうなれば、妖魔退治は難しくなる。
それでも、ここまで妖魔が増えていなければ――週末にでも対応すれば済む程度であれば――なんとかなったのかも知れない。だが今や、妖魔の数は増え、いつもどこかで妖魔の気配がする状態が続いている。
だからこそ、護宏に確認しなければならない。
妖魔がいつまで、どこまで増え続けるのか、そして、それを止める方法はないのかを。
終業式の最中、二人は学年主任の教師に呼び出された。
「すまん。妖魔が出て、至急退治してほしいそうだ」
圭一郎は征二郎がカバンに入れていた携帯電話を取り出させて確認する。警察からの着信記録が数件入っていた。
(携帯が通じないから学校に連絡したわけか)
学校内での携帯電話の使用は、休み時間に限られている。警察もそれを知っているので、授業のある時間帯を避けて要請の電話をかけてくるか、留守電に折り返し連絡するようにメッセージを入れるかするのが常だった。
学校を通じて連絡するということは、事がそれだけ急を要するということだ。
「場所は?」
「詳しいことはこいつに書いてある。とにかく急いでほしいそうだ」
圭一郎は教師から手渡されたファックスに目を走らせた。
「確かに急がないといけないみたいだ」
「どこ?」
征二郎の問いに、圭一郎は短く答える。
「金剛駅近くの線路、巳法川の鉄橋の上。電車が止まってる」
「え、鉄橋?」
驚く征二郎への説明は後回しにして、圭一郎は教師の方に顔を向ける。
「すぐに行きます」
「頼む。ああ、終わったら戻って来てくれ。職員室で通知表を渡すから」
「わかりました」
言うが早いか、二人は校舎を後にする。
「ここからだと中若菜行きのバスが近そうだ。警察に電話して、バスで行くから二十分ぐらいで着くって言っておいて。あと、滝にもメール頼む」
「なんて?」
「いつ終わるかわからないから、待ってなくていいって。夜にでもまた連絡するから」
「わかった」
バス停で時刻を確認し、征二郎に指示を出してから、圭一郎はあらためてファックスの内容をじっくりと読む。
「ノブスマタイプが線路の上に出現して電車がストップ、か」
ノブスマタイプは巨大な壁のような形で通行を妨げる出没・徘徊型の妖魔だ。ノブスマとはムササビの別名だが、ある地方では塗壁のような妖怪の名として伝え
られている。邪魔なだけで危害を加えるわけでもないため、道路などに出現した時にはクレーンで空地などに移動させ、手の空いた退魔師が退治するのが最近の
パターンだった。
だが今回は出現場所が鉄橋の上だったため移動させられず、自分たちが呼び出されたのだろう――そう、圭一郎は推論した。
(今回は前田がからんでるわけじゃないし、倒れてくることもないよな)
圭一郎は以前、ノブスマタイプの下敷きになって入院したことがある。前田が摩尼珠の力で妖魔を操っていたためだったが、摩尼珠が既に前田の手にはない今、そのような事態が起こる心配はないだろう。
電車が通れない以上、急ぐ必要はあるが、危険はさほどなさそうだ。
圭一郎はそう思って少しだけ安心した。
が。
「い、意外と高いんだな……」
待ち構えていた警官に渡された黄色いヘルメットをかぶりながら、圭一郎はそうつぶやく。
鉄橋へと真っすぐに伸びる線路。鉄橋のちょうど中央に灰色の壁が立ちはだかっているのが見える。確かにこれでは電車の運行は無理だろう。
少し視線を移動させると、はるか下に巳法川の川面が見えた。
鉄橋の上に妖魔がいるということは、線路上を歩き、鉄橋を渡って退治しに行かねばならないということだ。
川を渡る冬の風が冷たく吹き付ける。複線の軌道にはそれなりの幅があり、ちょっとやそっとで落ちることはなさそうだが、その下に地面がないと思うと妙に不安定な感じがしてならない。
「圭一郎はここにいたら? 斬るのは俺なんだし」
「そういうわけにもいかない。一緒に行くよ」
征二郎の言葉に反射的にそう答えた
実際、圭一郎が妖魔の近くにまで行かねばならない客観的理由はない。以前とは異なり、宝珠の剣は時間が経過してもその姿を保っていられる。圭一郎は安全な場所から、征二郎が斬るところを眺めていてもよいのだ。
だが、征二郎一人に何もかも押し付けてしまう気にはなれなかった。
単なる感情論だとはわかっていても、圭一郎はそう口にせずにはいられなかった。
「じゃ、行こうか」
征二郎がそれ以上追求する様子はない。兄の心中を慮っているようには見えなかったが、それはそれでいかにも彼らしかった。
「危ないから、君たちは後からついてきて」
そう言って鉄道会社の社員が先頭に立ち、線路の上を歩き出す。ヘルメットをかぶった征二郎が後に続き、その後を圭一郎と警官二人が追う。
けっこうな行列になった。
鉄橋は思った以上に揺れる。圭一郎はそのたびに肝を冷やしたが、表情には出さずに歩き続けた。立ちはだかるノブスマに視線を集中し、なるべく下を見ないようにする。
電車では一分とかからず通過してしまう鉄橋とはいえ、徒歩では予想以上に時間がかかる。それでもほどなく、一行はノブスマのもとへと到着した。
「圭一郎!」
「はい」
征二郎が振り向くとほぼ同時に、圭一郎は宝珠の剣を手渡した。
すらりと抜き放った剣を、征二郎は目の前の灰色の壁に向かって振り下ろし、退治はあっさりと済んだ。
「若菜鉄橋上の障害物の処理、完了しました」
鉄道会社の社員が無線で連絡を取っている。妖魔が障害物扱いになっていることに圭一郎は気づいた。恐らく交通情報では「線路上の障害物により三十分の遅延」などと報じられているのだろう。
(つまり僕たちは、線路に落ちたカバンとか、風で飛ばされて架線に引っ掛かったレジ袋なんかを拾うのと同じことをしてるってわけだ)
それだけのために、終業式を中断して駆けつけねばならない。
作業自体はさほど負担ではないし、だれかがやらねば列車は動かない、重要な仕事だ。
が、圭一郎の頭には、ひとつの不安が浮かんでいた。
(この先、もっと大事な時……たとえば入試の最中とかにも、僕たちは呼び出されるんだろうか。それも二人そろって、ずっと)
考えると気が重くなる。
だが、妖魔がここまで増えてきた現在、それは十分に現実味のある事態だった。
この間の期末試験の時は、警察も気を遣ってくれていたのか、呼び出しを極力控えていてくれた。圭一郎がそこかしこに漂う気配を我慢しさえすれば、試験に影響が及ぶことはなかったのだ。
だが、次の試験の時はどうだろう。
そして来年度、彼らが受験生になった時は?
美鈴凜は妖魔退治に専念するために、当初の志望を断念し、推薦入学を選んだ。あの頃はまだ今ほど妖魔が増えてはいなかったが、今思えば、彼女の選択は時宜を得たものだったのかも知れない。
だが、凜の一年後輩である宝珠兄弟が受験を迎える頃、事態はいったいどれだけ深刻になっているのだろうか。
圭一郎には想像もつかなかった。