夢魔

序章

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 今となっては覚えている人も少ないことだろう。夢魔が人々をおびやかしていた時代があったことを。
 夢魔とは物質的な肉体を持たず、人間の夢の中に棲みついて生気――精神のエネルギー――を喰らって生きる魔物のことだ。夢魔に取り憑かれた人間は、夢の世界を通じて生気を奪われていく。奪う生気がなくなってしまうと夢魔はからっぽの夢から抜け出し、新たな獲物となる人間の夢に入り込む。一方、生気を奪い尽くされた人間は、自分の生体機能を維持することすらできなくなり、ほとんどの場合、死に到る。運よく命ながらえても、心を喰らい尽くされているために痴呆状態になったり、退行して赤ん坊のような振舞いをしたりする場合がほとんどだ。
 夢魔の存在を知らぬ者には、取り憑かれた人間の死は原因不明の突然死としてしか認められない。外傷も病変もなく、ある朝息をひきとっていたというパターンが大半であるからだ。夢魔を知る者でも、取り憑かれた本人が生前に打ち明けでもしない限り、その死が果たして夢魔によるものなのかどうかという判断はできない。
 夢魔は棲みついた夢の世界を自由自在にコントロールする力を持つ。取り憑かれた人間が夢の中で時折夢魔の姿を見かけることもあるのだが、夢の世界を操られてしまっている人間が夢魔を倒すことなど不可能に近い。なぜなら夢魔は、取り憑いた人間の心の奥底に潜む傷や愛情をうまく利用し、決してその人間には傷つけることのできないような姿を取るからだ。それは最愛の恋人だったり、不注意で自分が死なせてしまった我が子だったりと様々だが、そんな姿のために夢魔を拒むことができず、死んでいった人間は多い。
 しかし、夢魔に取り憑かれればすべてが終わりというわけでは決してない。夢魔を倒すことのできる人間がわずかながら存在していたからだ。
 彼らは、夢使いと呼ばれていた。
 夢使いとは、他人の夢の中に入る能力を持った人間である。彼らはさらに、夢の世界で思い通りの物を出現させる力も持つ。夢魔に取り憑かれた人間の夢の中に入っても、夢使いたちは夢魔の支配下には置かれない。夢魔のまやかしに惑わされることなく、夢の世界の真の姿を見ることができるために、彼らは夢魔を退治することができるのだ。というよりも、夢魔を倒せるのは夢使いだけなのだ。
 それゆえに、夢魔と夢使いは互いを敵として、長い間争ってきた。どちらも夢の世界に入る力を持つことでは共通しているが、片方は夢の世界を蝕む魔物として、片方はその世界を守る人間として、争いは続いた。とはいえ、どちらも数が非常に少ないために、その争いはおろか夢魔や夢使いの存在すら知らない人間の方が多い。人の知らない夢の世界で、彼らは戦い続けてきたのだ。
 だが、その戦いの歴史はとうに終わっている。すべては過去のことだ。さほど遠い過去ではないが、人々の記憶から忘れ去られるには充分な時間が、あれから過ぎた。


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