夢魔

第1章 夢の訪問者

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 赤く乾いた世界が、見渡す限り広がっている。
 ごつごつした岩肌、風にあおられて舞い上がる赤い砂。空までもが砂ぼこりで覆われ、赤く染まっている。
 見るからに荒涼たる風景だった。
 かけだしの夢使い・島村透にとって、こんなに荒れ果てた夢の世界は初めてである。全身に緊張感がみなぎってくるのが、透にはわかった。
(今日の夢魔は強いかもしれない)
 人の夢に巣くった夢魔は、その夢の世界を荒廃させていく。夢魔が生気を奪えば奪うほど、夢の世界は荒れ果て、ついには草木一本、建物ひとつとてない荒野となってしまう。
 その荒野が、今、透の眼前に広がっていた。
 あたり一面に、夢魔の気配が立ちこめ、息苦しい。この気配の発生源をつきとめ、そこにいるであろう夢魔を倒さねばならない。それが、夢使いの仕事であった。
 透は気配の流れてくる方向を見定めるべく、感覚を研ぎすませた。これはなかなかに労を要する作業である。立ちこめる夢魔の気配の中で、その流れの方向を探ることは、花園で一輪の花の香りを嗅ぎ分けるに似て、簡単にわかるものではない。だが、一刻も早く夢魔を捜し当てて倒さないことには、夢魔に憑かれた依頼者の命が危ない。荒野と化した夢の世界は、もう一、二日もすれば、依頼者の生気がすっかり奪いつくされてしまうことを意味している。
(急がなきゃ……でも、俺に倒せるんだろうか)
 正直なところ、透は不安だった。今までの夢魔退治は、憑かれて二、三日程度しかたっていないケースばかりで、透もなんということもなくこなしてきた。しかし、今日の夢魔は勝手が違う。指導担当の桜川先生が紹介してきたのだから、そうそう厄介な仕事ではないはずだ……とは思っても、やはり不安はつのる。
 透は荒野を歩き出す。夢魔の気配を辿りながらなので、歩みはゆっくりだ。だが、歩むほどに気配は確実に濃くなっていった。目標に近付きつつあるという満足感と、何か恐ろしいものが出現するのではないかという不安感が、同時に彼の心をとらえている。足元の震えが、恐怖から来ているのか、それとも武者震いなのか、彼にはわからなかった。
 やがて。
 目の前の大きな影を、透は見上げた。
「こんなところに木が……?」
 透が首を傾げるのも無理はない。荒野にはふさわしくない巨木がそびえ立っている。しかも、その枝葉は青々と生い茂っていた。
 が、その木の幹を一瞥した時、謎が解けた。
「これが夢魔だ!」
 幹に半ば埋め込まれるように、少女の姿があった。依頼者の写真だといって見せられた顔である。少女は木の形をした夢魔に捕らえられ、時々、弱々しく身動きをした。
(こいつを倒さないと……)
 敵の巨大さに、透はごくっと息を呑む。少女を傷つけずに巨木を倒すには、どうしたらよいものだろう。
 が、次の瞬間。
(……?)
 透は目を見張った。
 人がいる。きょろきょろとあたりを見回しながら、夢魔の木に近付きつつあった。
 透は岩陰から様子を窺った。夢魔でもなく、取り憑かれた人物でもない夢の訪問者に、透は少なからず戸惑っていた。同業者、すなわち夢使いという可能性もあるが、普通は、夢使い同士が夢の中で鉢合せすることなどありえない。夢使いは数の少なさをカバーして夢魔に対抗するために、緊密なネットワークを作り上げている。いつ誰が夢魔退治をするかという情報や、同じ国内の夢使いの動向はすぐにわかるようになっている。したがって、夢使いのネットワークから外れて、まったく一人で行動している夢使いでもない限り、夢魔退治中の夢使いの前に現れることなどないはずだ。
 そんなわけで、透は目の前の正体不明の人物の動きをそっと観察することにした。
 彼は――どうやら透と同じ年頃の少年であるらしかった――自分がどこにいるのかわかっていないようだった。不思議そうにあたりを見回しながら、次第に夢魔の木に近付いていく。ほどなく彼は、幹に捕らえられた少女を発見した。驚いたように少女に話しかけている様子が見える。少女がそれに反応したかどうかはわからなかった。その前に、透ははっと気づく。
(危ない!)
 夢魔の木が少年を敵と認めたらしい。緑の葉の生い茂った枝の一本が、ぐいとしなったかと思うと、うなりを挙げて少年に襲いかかった。少年も気づいて顔をあげたが、よける暇はない。とっさに頭を守るように、手を顔の前にかざすのが精一杯だった。
(!)
 透は身構えた。いざとなれば、少年をかばって夢魔を倒すつもりである。少年が何者なのかはわからないが、夢魔の味方でないことだけは確かだ。
 しかし――。
 次の瞬間、透は我が目を疑った。
 地面に叩きつけられてなお、苦しみ悶えるかのようにのたうちまわっているのは、少年に襲いかかった枝の方だった。
(なに?)
 驚いたのは透だけではない。少年自身も驚き戸惑った表情で、顔をかばった右手を見つめている。――正確に言えば、見つめているのは右手に握られた鋭い刃をもつナイフであった。
 なぜ自分の手にこのようなものが出現したのか、少年にはわからないようだった。ナイフと切り落とされた枝、そして襲いかかってきた木を交互に見つめて突っ立っている。何が起こったのかを理解したのは、物陰にいる透ただ一人だった。
(具象化能力!)
 夢の世界の中で思い描いたものを出現させることのできる能力である。夢使いや夢魔の持つ能力の中でも代表的なものと言ってよい。
(やっぱり、あいつ……夢使いなのか?)
 しかし当の少年の方は、突っ立って途方に暮れている暇はなかった。夢魔の木が再び攻撃を始めようと、ざわざわと枝を揺らせている。少年はナイフを持ち直し、明らかな攻撃の構えを見せて、夢魔の木に向かった。木と少年は、はっきりと敵同士として相対する恰好になった。
 しばしの間合いの後、勝負は一瞬でついた。
 同時に襲いかかる数本の枝をかわし、少年が跳び退く。目標を失って地面に突き立った細い枝をまとめて切り払い、続く動作で木の幹を力一杯に薙ぐ。
 木は幹に埋め込まれた少女の頭上十センチほどのところにぱっくりと大きな切り口を見せていた。そこからどす黒い血が吹き出す様子に、少年はぎょっとしたようだった。確かに、木が血を流す光景は気色のよいものではない。恐らく切った感触も、普通の木を切る感触ではなかったに違いない。気色の悪さを振り払うかのように、少年は切り口めがけてもう一度ナイフをふるった。 
 木は完全に二つに折れ、少女の埋め込まれた部分を残して、ゆっくりと地面に倒れ込んでいく。
(倒しやがった……)
 透は半ば呆然と、一連の様子を見守っていた。自分が倒すはずだった夢魔を、突然現れた正体不明の少年に倒されてしまったという驚きもさることながら、少年が夢魔退治のためにやってきたのではなく、夢に偶然迷い込んできたという様子なのが気になった。
(何者なんだ? あいつは)
 透は思い切って物陰から進み出た。
「おい……」
 少年は透の声に振り返る。
 はっとするほど美しい顔立ちだった。すっと通った鼻筋、どこか夢見がちな優しい瞳、さらさらの淡い色の髪。
 透は息を呑む。透の姿を認めた少年はきょとんとしたように透を見つめ、そして消えた。
 夢の世界から立ち去ってしまったのだとわかっていても、透はしばらく、その場から動くことができなかった。


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