夢魔

第1章 夢の訪問者

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 あの少年に逢うことなど、もうないだろうと透は思っていた。先生の調べでも、そんな少年は少なくとも国内の夢使いの仲間にはいないということだったし、第一、名前すらわからないのだ。
 だから、自分の通っている中学校の廊下でその少年を見かけたときの透の驚きといったら、ただごとではなかった。
「お、おいっ!」
 夢中で駆け寄って腕をつかみ、それからはっとする。
(しまった、名前も知らない奴に……)
 少年も怪訝そうに透の顔を見た。が、その澄んだ瞳には次第に、知らない相手からなれなれしく腕をつかまれた警戒感とは別種の驚きが浮び上がってきた。
「あ、あの、えーと」
 勢い込んでつかんだ腕を放し、どうしたものかと困っている透に、少年の方から話しかけてきた。
「君とは初対面だよね」
 話し方から、少年が透と同じ中三だということがわかる。校内で制服を着ている生徒は同級生か後輩であり、少なくとも先輩ではない。それゆえに未知の相手に対しても友人に対するような話し方ができるのだ。
 透が慌ててうなずくと、少年はにっこりと笑った。夢の中で透が見た、あの魅力的な笑みだ。
「不思議だな……僕、この前君が出てくる夢を見たんだ」
(やっぱりこいつ、自分が人の夢に入ってたことを知らないんだ)
 そう思いながら、透は答える。
「その夢のことで、聞きたいことがあるんだ。昼休みにちょっといい?」
 透は少年に怪しい奴だと思われないように、努めて親しげな笑顔で言った。それでなくても透は笑うときわめて人なつこい顔になる。真剣な表情になればなかなか理知的な眼差しも、ひとたび笑顔になると実に親しみやすい雰囲気を作り出す。その表情に、少年の警戒心もすっかり解かれたらしく、二人は昼休みに透の教室で続きを話すことにして別れた。
 少年の名は、粟飯原環(あいはら たまき)といった。

「じゃあ、あの夢は僕の夢じゃなかったわけ?」
 一通りの話を透から聞いて、環はそう尋ねた。透が表現したとおり、環は女子生徒に人気があるらしい。教室の片隅で話している彼らの方を指して、女子が何やら喋っている。透がB組、環がG組と、クラスが離れているために、二人は互いの顔を知らなかったが、女子の環に関する噂は、B組までも届いていたらしい。
 そんな女子の視線にはまったく気づいていないそぶりで環は続けた。
「ただの夢にしてはリアルだとは思ったけど……」
「それが『夢使いの夢』さ。君やっぱり夢使いなんだよ」
「夢使いか……」
 環がふと、物思いにふけるような表情をした。
「どうかした?」
「いや、どこかで聞いたことがあるような気がして」
 夢使いの仕事に興味を持ってもらおうとすることに心を奪われていた透は、環のその言葉を気にもとめなかった。
「なあ、面白いと思わない? 人の夢に入って夢魔を退治するなんてさ。誰にでもできることじゃないんだぜ」
「僕にもできる? その仕事」
 もともと夢使いの仲間に引き込むつもりで、透は環に夢の話をすることにしたのだ。だが、環は透の予想以上に夢使いについて興味を抱いたようだった。
 ほんの十分ほど話しただけで、環が実に人の好い性格であるらしいことがわかった。透の話をいちいち真剣に聞き、素直に信じる。これほど説得に容易な相手も少ないだろう。
「もちろんだよ。自分で気づいていないのに、夢魔を倒すなんて、才能ある証拠だよ」
「そうかなあ」
 嬉しそうに、環は言った。
 環の反応は、すこぶるよかった。透はあまりのあっけなさに拍子抜けしながらも、次の日曜に桜川先生に会って、夢使いについて詳しい話を聞く約束をとりつけた。

「粟飯原とおまえって、友達だったのか」
 環が自分の教室に戻ってから、クラスメイトの関野が話しかけてきた。
「友達だったってわけじゃ……」
 つい二時間ほど前までは、互いに名前も知らない間柄であったのだが。
「粟飯原って、あの粟飯原恵美(あいはら えみ)の弟だろ?」
「あ、そうか」
 透は初めて気づいた。
 粟飯原恵美。
 透達より二学年上の先輩で、今は近くの高校に通っている。透達ですら知っているほどに有名なのは、彼女が並外れて美人だからだ。中学時代からモデルや芸能界のスカウトなども数多かったという。
 粟飯原という苗字はそう多い苗字ではない。二学年離れているとはいえ、こんな苗字の人間が同じ学校にいれば、当然血縁関係を想像するだろう。透が環の名を聞いても粟飯原恵美と結び付かなかったのは、単に「あいはら」という音だけ聞いて、てっきり「相原」と書くのだろうと思い込んでしまったからに他ならない。
(そうか、道理で……)
 環の整った顔立ちも、恵美の弟ということであればうなずける。姉弟並べば、さぞかし華やかで人目を惹くだろう。女子が騒ぐのももっともであった。
「関野、おまえ粟飯原のこと知ってたの?」
「中一の時クラスが一緒だった」
「粟飯原ってどんな奴?」
「あれ、さっき話してたじゃないか」
 関野は不思議そうに聞き返す。
「さっき初めて話したんだよ」
「はあ?」
 関野はますますわからないといった表情をしたが、それでも透の問いに答えてくれた。
「顔は派手だけど、性格は地味な奴だよな。おとなしいというか、お人好しというか……」
「お人好し?」
「よく言えば、素直だな」
 透の環に対する印象とほぼ同じようなことを言ってから、関野は付け加えた。
「俺は思うけど、あいつの姉貴のせいじゃないかな」
「どういうこと?」
「俺達だって噂でしか知らないけど、粟飯原恵美ってすげえ派手というか、目立ちたがりなんだろ?」
「女帝だもんな」
 透はうなずく。奔放で傲慢で、だがそれすら許されるほどに美しい恵美につけられたあだ名が「女帝」だということは、透達も知っている。
「あんな姉貴がいたら、誰だって陰に隠れて地味な性格になっちまうよ」
「そんなもんかな」
 口では疑問を呈しながらも、どちらかというと賛成したい透である。きわめて奔放な姉を持つ弟は、同じようにきわめて奔放か、まったく対照的におとなしいかのどちらかだと思えたので。
 だが、環の性格が素直でおとなしいから、透は夢使いの仲間に環を引き入れる第一段階で成功をおさめたのかも知れない。気ままで目立ちたがりの人間が、他人の夢の中で、人知れず夢魔退治をするような地味な仕事に興味を持つはずがなかった。
「いい奴なんだけどな、頭はいいし」
 関野がフォローするように言った。だが一言多かった。
「でも世渡りは下手だろうな、あいつ」
 関野が何気なくいった言葉は、しかし、実に的を射た言葉だった。透はずっと後になって、それに気づくことになる。


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