夢魔

第3章 姉弟

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5 

 その翌日も環は学校を休み、透は不安にかられながら一日を過ごした。
 だから、その日の晩に環から電話があった時に、透が思わず声を荒げてしまったのも無理はない。
「おまえ、一体どうしたんだよ?」
「ごめん、心配かけて」
 環の声は暗く沈んでいる。怒りのやり場をはぐらかされたような、奇妙な気分で透が尋ねる。
「お姉さんがいなくなったって?」
「うん。探してるんだけど……」
「一体何があったんだ?」
 環はその問いには答えようとしなかった。
「関野、どうしてる?」
「え? 元気に学校に来てるぜ。だけど夢のことは何も覚えてないらしいけど」
「関野、覚えてないの?」
「ああ」
「そう、よかった」
 環はほっとしたように溜息をついた。透は問いを重ねる。
「夢魔は退治できたのか?」
「……」
 環は随分長いこと黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「逃げられちゃったんだ。でももう関野の夢には現れないと思う」
「逃げられた? おまえが?」
 透は驚いて聞き返す。環は今まで夢魔を取り逃がしたことがない。環から逃げおおせる夢魔となれば、かなり強い力の持主に違いなかった。
 透は黙りこんだ環を元気づけようとした。
「まあ、関野が助かったんならいいや。それで、何か用事?」
「うん、平井さんには明日話しに行くんだけど、君には早く言っておきたくて」
「何だ?」
「僕……」
 環の声はかすれ、単調だった。透は息を呑んで、環の次の言葉を待つ。知らず知らずのうちに、受話器を強く耳に押し付けていたらしく、耳が痛い。
 長い長い間をおいて、環はこう言った。
「夢魔退治をやめる」
 透がその言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。
「どうして……」
 当然ともいえる疑問を口にしながら、透は環のこの言葉が思い付きでも冗談でもなく、しばらく考えた上での決意なのだということを感じ取っていた。恐らく、環の決意を変えることはできないだろう。
「今は言えない」
「それで済むと思ってるのか?」
 受話器に向かって透は思わず叫んでいた。
「さんざん心配かけといて……。いきなりわけは言えない、夢魔退治はやめるって言われて納得するお人好しがいるもんか!」
「……ごめん、それはわかってる」
「だったらどうして……!」
 環にとっても辛い決断だったということが、声の調子から痛いぐらいに伝わってくる。それがわかっていながら、環を責める言葉を発してしまう自分に、透もまた深く傷ついている。
 環は苦しげに答えた。
「あの夢魔に、もう一度会うのが怖いんだ。それ以上は言えない。僕の気持の整理が、まだついてないから……」
「気持の整理?」
 いくぶん声の調子をやわらげて、透は聞き返した。
「うん。正直なところ、僕はまだ混乱してる。どうすればいいのかわからなくて、ただ逃げようとしているだけなのかもしれない」
 平坦な口調だった。あらゆる感情を無理に抑えつけたような不自然さが感じられる。
 透はどう答えたものか迷っていた。その沈黙を透が怒っているせいだと思ったのか、環はさらに言葉を重ねてきた。
「勝手を言ってるのはわかるけど、しばらく考える時間が欲しいんだ、頼む」
「俺が許可するしないの問題じゃないだろう?」
 何とか感情の昂りをを鎮めるのに成功した透は静かに答えた。
「粟飯原がわけあって夢使いをやめるのは、粟飯原の自由だ。だけど俺にはさっぱりわけがわからない。いずれ気持の整理とやらがついたら、俺に話してくれないか?」
「うん、それはそのつもりだけど」
 環の声には、どこかほっとしたような響きがあった。透はもともと、他人の言って欲しいことを言うことが得意なのだが、今の彼の言葉もまさに、環が言って欲しかった言葉だったようだ。
 透はさらに続ける。
「それまでおまえが夢使いだったってことは忘れておくよ。でもふんぎりがついたらいつでも復帰しろよ」
 そんな風に透が言ったのは、環を責めずにことをおさめるためであったのだが、同時に自分自身に言い聞かせるつもりもあった。
(粟飯原には夢使いでいて欲しい。でも粟飯原が辛いのに、俺がむやみに責めたてるべきじゃない。だからしばらくの間は、粟飯原がはじめから夢使いじゃなかったと思っていればいいんだ)
「……ありがとう」
 環はぽつりと言った。
 気にならないと言えば嘘になる。だが、環の親友として、透にはそれ以上のことはできなかった。

 あの夜に何があったのかは、こうして「しばらくの間」謎のままとなった。


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