夢魔

第4章 千秋

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「なんだって?」
 環は思わず大声で聞き返す。喫茶店の中、数人の客が驚いてちらっと彼らの方を見た。
 透は頭を下げた。
「頼む。おまえしかいないんだ」
「だけど……」
 環は当惑した表情を見せている。無理もない。いきなり透に呼び出され、夢魔を退治してくれと言われたのだから。しかも、環は三年前に夢魔退治をやめている。
「平井さんに問い合わせてみたけど、ここ二週間ばかりはみんな毎晩のように夢魔退治が入ってるんだ」
「毎晩?」
 環は目を丸くした。夢使いを引退した環は、最近の夢魔の動向を知らない。透が環を気遣って、あまり夢使いや夢魔の話題を持ち出さないようにしてきたせいもある。
「夢魔の力がどんどん強くなってるんだ。夢魔のせいで命を落とす人も増えてるし、夢使いは忙しくなる一方さ」
「……」
「頼む、これきりでいいんだ。俺もおまえが自分の問題を解決するまで待っているつもりだったけど、そんな悠長なことは言ってられない。千秋を助けてやってくれないか」
「千秋?」
「俺の従妹なんだ。今の夢魔の強さから考えると、もって一週間か……」
 環はしばらく考え、そしてうなずく。
「わかった。引き受けるよ」
「ほんとか? すまない」
「いつがいい?」
「なるべく早くだな」
「じゃあ、今夜にでも行くよ。久しぶりだけど、なんとかなるだろ」
「あっ」
 透は千秋の無茶な頼みを思い出した。
「それで、ちょっと厄介な頼みがあるんだが……」
「何?」
 環が聞き返した時。
「透兄ちゃん、ここだったのね」
 問題の千秋が、そこにいた。

「千秋? どうしてここに……」
「絵梨ちゃんに聞いたの」
「あいつ、電話盗み聞きしてたな」
 絵梨香は透の妹である。透は小さく舌打ちしてから、千秋を隣に座らせた。 千秋がカフェオレを注文してから、透は環を紹介する。
「粟飯原環、一緒の高校で、今はA大理工の二年だ。粟飯原、こいつが問題の従妹の名伽川千秋」
「A大理工? 頭いいんだ。透兄ちゃんとは違うね」
 透の通う大学はA大よりも一ランク落ちると言われている。
「うるさいな」
 透はやや不愉快そうに答えたが、千秋の様子は見逃さなかった。いつものような軽口を叩いてはいるものの、千秋の顔色は悪く、眼差しはいつになく真剣だ。無理をしているのが、一目でわかる。
 それだけ重い問題が彼女の心にのしかかっているからだろう、と透は思う。
(そういえば、千秋の奴、粟飯原の前にいるのに、顔が目に入ってないみたいだよな)
 大抵の女の子は、環の美貌を少なからず意識する。あるいは、意識しつつも見とれてなどいないというような不自然なそぶりを見せる。環自身は自分をよく見せようなどとはまったくしていないにもかかわらず、その容貌は人の目を惹きつける。とはいえ、行方不明になったままの姉の恵美と違って、派手な顔立ちというわけではない。環はむしろおとなしく夢想的で、どこか現実から遊離しているかのような雰囲気の持主だった。だがそれゆえに、彼の美貌は時折、人間の生臭い感情や性別すら超越した、精霊のような印象を与える。もっとも、当の環はそんなことにはまったく気づいていない。
 現在つき合っている相手がいようといまいと、女の子たちは環の容貌に見とれる。環の親友である透は、そんな女の子を山ほど見てきた。だが千秋は、環の整った顔立ちなどまったく眼中にないようである。
(それだけ深刻なんだろうな)
 深刻な千秋に透が今できることは、こんな風に言うことぐらいだった。
「千秋、今粟飯原におまえのことを話してたんだ。おまえの夢魔を退治してくれるってさ」
「あ……夢使いの人だったの」
 千秋は初めて環を見たという表情をした。それまで沈黙を守っていた環が口を開く。
「今晩、夢魔退治に行きます」
「お願いします」
 千秋は軽く頭を下げた。そして、
「透兄ちゃん、あの話言ってくれた?」
「あの話?」
 透は一瞬何のことかと思ったが、すぐに夢魔を千秋自身の手で倒したいという要望のことだと気づいた。
「これから言おうとしてたんだ」
「そう、よかった。じゃあ私から言うね」
「ああ」
 透は怪訝な顔をした。千秋は何のためにここまで透を追ってきたのだろう。
「粟飯原さん……でしたよね」
 千秋は環に向かう。
「ええ」
「お願いがあるんです」
 環は無言のまま、促すように千秋を見つめる。千秋は一瞬躊躇し、視線をそらす。だが、思い切ったように顔を上げ、再び環を見つめ返す。
 透は環の瞳の中に、一瞬動揺の色がひらめいたように思った。おや、と思った時、千秋が口を開く。
「私に夢魔を倒させて下さい」
「え?」
 環は目を丸くした。当然と言えば当然の反応である。
 透は環に対して助け舟を出そうとしたが、思い止まる。
(千秋がここまで来たのは、俺に口外されたくないことがあったからじゃないだろうか)
 夢魔を自分で倒したい理由。それは死んだ恋人の仇を討つことにほかならなかったが、きわめて私的な事情であるために、迂濶に他人に話せるものではない。透は口をつぐみ、二人のやり取りを観察することにした。
 千秋は重ねて言う。
「お願いです……どうしても夢魔を倒したいの。私の手で」
「何かわけがあるようですね」
 静かな環の声に、千秋は顔をこわばらせた。無言でうなずく彼女の目に、一瞬涙が光ったような気がした。透はどきりとしたが、それは環も同様であるらしかった。次の環の言葉がすこし慌てていたように聞こえたのは、きっとそのためだったのだろう。
「いいでしょう。できるかどうかはわかりませんが、努力はしてみます」
「本当ですか?」
 千秋の表情が動いた。気が緩んだせいか、今まで懸命に抑えていた涙が一粒だけ頬を伝って落ちた。
「……保障はできません。僕にとっても初めてのことだし、あなたの命がかかっていることだから、いざとなれば僕が夢魔を倒します。でも……」
 環はほとんど呟くように言う。
「あなたにならできるかもしれませんね」
「私なら……ってどういうことですか?」
「それは……」
 環は言うつもりのなかったことを言ってしまったらしい。困った表情でためらってから、思い切ったように続ける。
「あなたはどうしても夢魔を倒したいという強い意志を持っているようですから」
「強い意志?」
 千秋は聞き返す。それから、ちょっと皮肉な笑みを浮かべた。
「それでも一人じゃ、自分の夢の中のことも処理できないのよね」
「千秋……」
 透は言葉を失う。これまで自分で夢魔を倒そうと試み、失敗に終わって透を頼ってきた千秋のやるせなさが、彼の心を突き刺した。
 だが、環の声が透の感傷を打ち消した。
「そんな風に言わなくてもいいでしょう」
 たしなめるような口調だった。
「夢魔の支配力は、意志の力がどうのこうのという問題じゃないんです。いくら夢魔を倒したいと思っていても、夢の中で思い通りにならないのは、べつにあなたのせいじゃありませんよ」
「じゃああなたには何ができるんですか?」
「僕にできるのは、あなたがその意志でなんとかできるように環境を整える程度のことですよ」
「……」
 千秋は環をにらむように見つめた。なんでこんなお説教みたいなことを言われなきゃならないのよ――そう言いたげな目だった。環はその目をまっすぐに見返す。
 二人はそのまま見つめあった。ほとんどにらみ合いとさえ言える視線のぶつかり合いに、透は口をはさむことができなかった。
「夢魔を倒したいんでしょう?」
 低く鋭い調子で環は言った。環らしくない口調だった。千秋は気圧されて狼狽したようにテーブルの上へ視線をさまよわせる。が、彼女の立ち直りは早かった。次の瞬間、千秋は顔を上げ、環を見つめ返す。
 会ってから間もないというのに、この二人は何度見つめ合ったことだろう。
「もちろんです」
 きっぱりとした彼女の返事に、環は少し表情をやわらげて答える。
「ならば今夜、夢の中で会いましょう」


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