夢魔

第5章 悪夢

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 ドクン……ドクン…。
 それは、熱い脈動とともに次第に大きさを増し、内側から彼の体を蝕んでいた。それが脈打つたびに、息苦しさが増していく。
「ぐ……うっ」
 環は低くうめいた。目を見開き、端正な顔を苦痛に歪ませながら胸を押さえている。その場でくず折れそうになるのを必死でこらえ、どうにか環は立っていた。
 羽化直前の蛹とは、こんな気分なんだろうか――突然、環の脳裏にそんな考えが浮かんだ。自分であって自分でないもうひとつの生命が、熱い拍動を繰返しながら、自分自身を内部から侵している。やがてそれは成長を終え、自分ではない存在として今までの殻を破って姿を現す。今までの自分はただの抜け殻となり、内側から現れ出た存在が新しい自分となる……。
 今までの自分と新しい自分、どちらが本当の自分なのだろうか。
(僕は死ぬんだろうか)
 ぼんやりと環は思った。意識がすうっと遠のいていく。息苦しさも極限に達してしまうと、もはや何も感じなくなってしまったようだ。いつの間にかがくりと膝をついていたが、それにも気づかない。
 彼の目の前にあるのは虚無の世界だった。その世界に意識をゆだねてしまえば、安らかな眠りが約束されている。
 体の中でうごめいている熱い塊は、明らかにそれ自身の意志を持ち、環の体という殻から抜け出ようとしていた。
 それももう、どうでもいい。
 環は目を閉じた。
 その時。
 背中に強い痛みが走った。背中が裂け、熱くうごめく何かがずるりとその姿を現すような、そんな予感がした。
 環ははっと我に返る。自分の中で成長を続けていたものの正体が見えたような気がした。
(だめだ、こいつを外に出してはいけない!)
 環はきっと顔を上げる。信じられないほどの意志の力で、彼は背中から現れかけたものを再び自分の体内に封じ込めようとした。体内に留まっているうちは、それは環を内側から苛むものに過ぎない。だが、彼の体から抜け出たが最後、恐ろしい災禍をもたらすものとなるだろう。環にはそれがわかった。この禍々しくおぞましいものを封じ込められるのは彼だけなのだ。
 無言のまま、二つの意志がぶつかり合う。粟飯原環の意志は封じ込めようとしている方なのか、それとも新たに現れ出ようとした意志の方なのか。そのどちらもが彼の意志なのか、どちらも彼の意志ではないのか――。もはやそれは環自身にすら判然としなかった。
 いずれにせよ、長い争いの末に環は荒い息をつきながら立ち上がった。彼の体を内側から蝕み、喰い破ろうとしていた存在を再び体の中に封じ込めることに成功したのだ。
「……どうしたの? 環」
 背後から声がかかった。慣れ親しんだ声だったが、ずいぶん久しく聞いていなかったような気がする。
「なんでもないよ、大丈夫」
「苦しそうじゃない」
「うん。でももう平気だよ」
「そう……」
 背後の声の主は、しばらく何事かを考えていたが、やがて、
「じゃあ教えてあげるわ」
「?」
 首をかしげる環に向かい、声の主は調子をがらりと変えて言い放った。
「それがあなたの正体よ!」
 その時ふと違和感を覚え、環は左の掌に目をやった。
「!」
 掌の中央に目があった。
 赤紫色のその目は、環を彼自身の手の中から睨むように見上げていた。

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