夢魔

第5章 悪夢

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「うわああああっ!」
 環は跳ね起きる。そこは自分の部屋のベッドの上だった。上半身を起こしたままの体勢で、彼はしばらく荒い息をついていた。動悸がなかなか鳴り止まない。
 少し落ち着いてから、彼は恐る恐る左手をうかがい見る。どこにも異常はない。
(夢か……)
 これほどまでに夢であってよかったと思ったことはなかった。他人の夢に入ったわけでもないのに、体の中でおぞましいものが蠢いている感じや、背中の裂けそうな痛みが今もはっきりと残っている。
(なんだったんだろう、今のは……)
 いくら考えても、悪夢の意味はわからない。だがひどく嫌な感じがした。
 夢使いが自分の夢すらコントロールできないとは。
 一日だけならただの夢として忘れていったに違いない。だが同じ悪夢を毎晩続けて見るとなると、さすがの環も忘れて済ませるわけにはいかなかった。夢から来る嫌な気分は日毎につのっていき、彼の心は重く沈んでいった。
 五回目の悪夢から覚めた後で、彼はしばらく考え、電話に手を伸ばした。二、三度ためらうような仕草をしてから、彼はもうすっかり慣れた動きである番号をダイヤルした。
 なにぶん深夜のことであるから、四回コールして応答がなかったら切ろうと思っていたのだが、それでも二回目のコールで受話器の外れる音がした時にはほっとした。
「はい、名伽川です」
 幾分眠そうな千秋の声がした。彼女の声は悪夢の世界からまだ抜け切っていない環にとって、救いの光明にも似ていた。
「千秋? ……ごめん、こんな夜中に」
「どうしたの?」
「うん……」
 環は悪夢のことを言いかけてやめる。
「どうしても声が聞きたくてさ」
「やだなあ。明日になったら逢えるじゃない」
 くすくすと笑う声が耳に心地良い。受話器を耳に当てたまま、環はそっと目を閉じた。どうして千秋の声を聞くだけで、こんなにも満ち足りた気分になれるのだろう。彼女の声は、環の心に澱んでいた悪夢の黒い塊を少しずつ溶かしていく。あの嫌な気分がすうっと引いていくのを彼は感じた。
「ね、何かあったんじゃないの?」
 笑うのをやめた千秋が尋ねる。環はしばらく答えることができなかった。
「環……」
 じれったそうに千秋が繰り返す。環はやっと白状した。
「……嫌な夢を見るんだ。ここ何日か」
「夢?」
 千秋の声が緊張の響きを帯びた。
「まさか夢魔に……?」
「それはないよ」
 環は即答した。
「夢使いの夢には、夢魔は入り込めないんだ。何でかは知らないけど」
「そう。じゃあどんな夢?」
「……」
「言えないくらい嫌な夢なの?」
「……うん」
 電話の向こうで千秋は少し考えていたが、やがてぽつりと言った。
「透兄ちゃんがよく言ってるけど、環、何かすごく厄介なことを抱えてるんじゃないの?」
「島村が?」
「何も言わないけど、わけありに見えるって」
 環としては、別に厄介ごとを抱えているつもりはない。だが、人に簡単に話せない類のことが多いのは確かである。思い出すことすら怖く、まして言葉にして他人に告げることなどできるわけもなく逃げてばかりいる癖に、受けた心の傷が表情に表れてしまう。そのために「わけありに見えて」しまうのだろうか。
 環はそれでも一応弁明を試みる。
「別にそんなつもりはないんだけど……」
「じゃあなんで話してくれないの? 私にも……透兄ちゃんにも」
「僕は……怖いんだ」
 誰かにそんな言葉を語ったのは、これが初めてだった。一度切り出してしまえば意外にすらすらと口から出るものだということに、彼はやっと気づく。
「今日の夢だけじゃなくて、時々すごく不安になるできごとがある。だけど怖くて思い出したり誰かに話したりすることもできないで、ずっと忘れようとしてきたんだ」
「忘れられたの?」
「多分……ね」
 千秋はふうっと溜息をつく。
「忘れたら解決するものなのかしら」
「……」
「自分が思い出しさえしなければそれでいいの?」
「……」
「私にはそう思えないけど。だって、いくら忘れようとしてても、何か抱えてることが見えちゃってるじゃない」
「……確かに」
 千秋の言葉に、環は納得せざるを得ない。
「別に無理して話してみろとは言わない。でも、私にはあなたがただ逃げているようにしか思えないの」
 環にはわかっている。
 千秋は、不安をかき立てる夢に立ち向かえと言っているのだ。忘れても忘れても、どこかで目の前に現れてくるものならば、いっそその手で捉えてしまえと言うのだ。自らも夢魔に立ち向かった彼女ならではの、重みのある言葉である。
「そうだね。いい加減逃げるのをやめないとね」
「そう思うよ」
「千秋になら、いつか話せるかも知れない」
「いつか……ね」
 電話の向こうの千秋の苦笑が感じ取れる。いつかの透と同じく、千秋は環が「いつか」本当に話してくれるとはあまり信じていないようだった。
 環の心にも迷いがある。思い返してみることもできなかったことを、果たして千秋に語ることなどできるのだろうか。だが、これは悪夢に立ち向かう一つの機会であった。この機会を逃してはならないと、環は思っていた。そこで彼は言い直す。
「必ず話すよ。……そう、今月中には」
 環の言葉が、いかにも努力の成果という風に聞こえたためか、千秋は吹き出した。しばらく笑ってから、彼女は一つの提案をした。
「どこか旅行でも行かない?」
「旅行?」
「うん……環境が変わった方が話しやすいんじゃない?」
「そうだね」
 環もうなずく。旅行の日時を相談しながら、彼はこんな風に思っていた。
(僕が逃げずに立ち向かう時、千秋はきっと強い味方になってくれる)
 結局自分自身の問題に立ち向かうのは自分自身であるにせよ、見守り、支援してくれる存在がいることは、彼にとって心強いことだった。
(もう逃げるのはやめよう)
 今まで目を背けてきたものを、一度きちんと見つめ直してみよう――そう決意 を固め、ふと思う。
 彼はなぜ逃げていたのだろう。思い出したくないほどに彼を不安にさせたものは、一体何だったのだろう。
 あるいは彼自身、心のどこかで恐怖の源に気づいているのかも知れない。そしてそれが何らかの重大な問題に関わっているがゆえに、異常なまでの恐怖感を抱いているのではなかろうか。
 夢の中で彼の体の中から生まれ出ようとする禍々しい存在。
 それもまた、彼自身ではないのか。


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