夢魔

第7章 惨劇

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 その日の午後、S海岸ホテルに着いた透に今井は事件のあらましを説明してくれた。今井刑事は三十代前半といった顔立ちだが、捜査の疲れのせいか、はたまた生来の顔立ちのせいか、幾分くたびれた印象を受ける。捜査のために警察官が大勢出入りし、ごった返すロビーの片隅で、二人は立ったまま話を始めた。
 前日の夜遅く、S海岸ホテル一五二五号室の宿泊客から「隣の部屋で悲鳴らしきものが聞こえた」とフロントに電話があった。ホテルの従業員が悲鳴の聞こえたという一五二六号室に電話をかけたが応答はなかった。一五二六号室の宿泊客はごく普通の若い男女二人で、事件を起こしたり巻き込まれたりする風にはとても見えなかったという。一五二五号室の宿泊客も、悲鳴らしき声の他には特に変わった物音は聞いていない。勘違いということも考えられたが、念のために一五二六号室の部屋を開けると、中は血の海だった――。
「ち、血の海?」
 透の声は幾分震えている。今井はうなずいた。
「そう、ひどいもんですよ」
 今井によると、現場となった部屋は文字どおりの血の海で、壁や調度品、天井にいたるまで血飛沫の飛び散っていないところはなかったという。そこまで予告してから見せてくれた写真のあまりの生々しさに、透はしばらく口をきくことができなかった。今井は一般人のそんな反応に慣れているのか、透の調子が戻るまで待って話を続けてくれる。
 それだけのおびただしい血痕が見つかったにもかかわらず、部屋は無人だった。宿泊者の二人――粟飯原環と名伽川千秋――の荷物もそのままである。別段荷物が物色されたような形跡もない。
「しかしこれは、現実にはありえない事件ですよ」
 今井の一言を透が聞きとがめる。
「ありえないっていうのはどういう意味です?」
 実のところ、透はかなり動揺していた。現場の写真を見せられた時の衝撃はなんとかおさまってきていたし、どうにか意志の力で平静さを装っていたが、やはり環と千秋が気がかりでいてもたってもいられない気分だった。そのせいで語気が少し荒くなっている。
「普通ね、人を刺したり切ったりしても、あんな風にまんべんなく血が飛び散るなんてことはないはずなんですよ」
「……」
「まるで何かの爆発に巻き込まれたみたいなんですが、それにしては部屋の内装に損傷はない……だからありえない事件だと言ったんです」
「それじゃあ二人は……」
 透の声はかすれていた。こんなことが起こるなどと、いったい誰が想像し得たであろうか。
 今井の返答は、透がS海岸ホテルに着くまでにあれこれめぐらせてきた想像の中でも最悪の部類に入るものだった。
「お二人の知人であるあなたには酷な言い方ですが、あれだけの血の量からいって、あの部屋で一人、悪くすると二人ぐらいは死亡しているはずなんです」
「!」
「ただしそれがその部屋に泊まっていた二人かどうかはまだわかりません」
「二人は生きているかも知れない、と?」
「可能性としては、まったくないとは言いきれませんね」
 でもそんな可能性などほとんどないだろう、と言外に今井が言っているような気がする。透は近くにあった椅子に腰を下ろした。立ち疲れたというよりは、立っていられなくなったのである。胃のあたりが締め付けられるような不快感がさっきからずっと続いていた。
「もう一つ妙なことがあるんですよ」
「妙、というと?」
「あれだけ大量の血痕があるのに遺体の一部も見つからない。もし生存者がいたとしても、恐らく重傷を負っているか、少なくとも血だらけの姿でしょうから、宿泊客やフロントに気づかれずにホテルから出て行くことなんて不可能です。どうも謎が多すぎますよ。この事件は」
 しかしいかにありうべからざる事件であっても、環と千秋が姿を消し、二人の泊まっていた部屋が血の海になっていたのは現実である。事件の謎より何より、二人の安否を透は気遣っていた。
 その後、透は今井に環や千秋について色々と聞かれた。二人の人柄やつき合いの様子などを答えながら、しかし透はなぜこんな事件が二人の身の上に起こったのか、さっぱり見当がつかなかった。


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