夢魔

第8章 悪夢の現実

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 透はしばらくの間、自分自身の目を信じることができなかった。
 目の前、五メートルばかり離れた所に夢魔が立っている。赤紫の瞳も、尖った耳も、そして全身から発している禍々しい気配も、間違いなく夢魔のものだ。
 だがそれならばなぜ、その夢魔が粟飯原環の顔をしているのだろうか。
 夢使いの透が夢魔のまやかしにかかるはずはない。それゆえに透は夢魔の真の姿を目にしているはずである。
(こんな馬鹿なことがあるか!)
 透は目をそらし、その場から逃げ去ってしまいたい衝動にかられた。だが彼はそれでもなお踏みとどまっていた。
(粟飯原のはずはない)
 そう思って彼はありったけの気力をふりしぼり、銃を構えた。撃鉄を起こし、引金に指をかける。そのような姿勢を取ると、ちょうど夢魔を正面から見つめる形になった。
 夢魔は透の銃など気にもかけていなかった。美しい顔に魔性の笑みを浮かべ、透の方へ一歩一歩近付いてくる。それはさながら、透という獲物をどのように料理しようかと考えているような笑いだった。少なくとも、粟飯原環にできるような表情ではない。
(待てよ……そうだ、体格もなんだか違う)
 長身ではあるが、ほっそりとした体つきは性別をまるで感じさせない。女性の体格でもないが、少なくともそれはまがりなりにも男性だった環のものではなかった。
(あれは粟飯原じゃない……顔は同じでも、絶対に違う!)
 そこまで観察してはじめて、透は口を開くことができたのである。
「お……おまえは誰だ?」
 夢魔は透から一メートルほど離れたところで歩みを止め、赤紫の瞳で透を見据えた。瞬間、透の背に寒気が走る。手にした銃の引金を引こうとしたが、引けなかった。
(!)
 体が動かない。
 あまりに強い夢魔の気配が体を痺れさせたのか、それとも魔性の目に恐怖心をかきたてられたのか。
 指をほんのわずか動かせば、至近距離から夢魔を撃てる。簡単なことのはずなのに、それすらもできない。夢魔を見つけた時にすかさず引金を引いていれば――透は激しく後悔した。環の顔に気をとられ、せっかくの好機を逃すとは。
 透の目に走った狼狽の色を見て取ったか、夢魔はくっくっと笑う。そして初めて口を開いた。
「島村透……おまえを待っていたわ」
 その声は環のものではなかった。明らかに女の声とわかる。だが透は夢魔の声よりも言葉の内容に驚いていた。
「な……んだって? おまえは一体……」
 夢魔はさらに透に近付き、手に握り締められたままの銃に細い指を触れる。手の中で銃が砂のように崩れていく感触に、透は愕然とした。
 この死の世界を、夢魔が完全に支配している。夢使いの透でさえも、ここではまったく無力だった。透の右手は、銃を構えているような恰好に曲げられているが、その手にはもはや何も握られていない。反撃することも逃げることもできず、ただ立ち尽くすだけだ。
 だが彼は諦めてはいなかった。
(体が動かないから、武器は使えない。ならば……) 
 自分の力を武器に変えずに、直接夢魔にぶつける。以前千秋から聞いた、環の攻撃方法を透は思い浮かべていた。試したことがあるわけではない。環と違い、ごく平均的な能力しか持たない夢使いである透にできるかどうかもわからない。だがこの局面を打開するためには、この金縛りを解かねばならなかった。そのために夢魔の隙をつく必要がある。
(一か八か……!)
 透は夢魔に不可視の衝撃波をぶつける様子をイメージした。目に見えないものをイメージするのは容易ではなかったが、どうやらそれはうまくいった。
 目の前が白く光る。透は自分を中心として四方に衝撃波が走るのを感じた。
「う……っ?」
 夢魔が不意をつかれてよろめく。透は体が自由になったことに気づいた。
(今だ!)
 透は右手にナイフを思い浮かべる。銃のような複雑な構造の武器を具象化する暇はない。ナイフが形をとり終わるか終わらないかのうちに、透は右手を夢魔に向かって突き出した。
 が――。
「甘いな」
 そんな声とともに、突き出した右手の手首がつかまれた。夢魔の立ち直りは予想以上に早かったらしい。あるいは透の放った衝撃波はさほど強いものではなかったのかも知れない。透はふりほどこうとしたが、夢魔の力の方が強かった。
手首をつかまれる痛みに耐えかねて取り落としかけたナイフを、夢魔が手にとる。
「夢魔の王に刃向かうつもり?」
「夢魔の……王? おまえがか…」
 先刻の金縛りが再び透を襲っている。こわばりかけた口では、それだけ言うのがやっとだった。
 目の前に夢魔の王がいる。噂にはなっていたが誰もその姿を見たことのなかった存在。そして夢魔の力をここまで増大させた元凶。しかもその顔は彼の親友のものだ。
(だめだ……)
 再び動くことのできなくなった透の心に絶望感が湧き起こる。もはや彼になしうるどんな手立ても残されてはいなかった。
 夢魔は右手にナイフを持ち、左手で透の顎をくいと持ち上げた。至近距離から見る赤紫の瞳は、妖しいまでに美しく、冷たい光を放っていた。
「その左目をもらおうか」
 言葉とともにナイフが透の左目につきつけられる。透は目を閉じようとしたが、凍りついた体は瞼すら思い通りにならなかった。
(目を閉じることもできないなんて!)
 これほどの恐怖を感じたことは、今までにはなかった。ナイフの先端は見開かれたままの透の眼球に触れんばかりである。
「安心しろ、殺しはしない」
 夢魔は透の恐怖に満ちた表情を楽しむように言った。
「仲間が殺されていくさまをどうすることもできずに眺めているがいい!」
 夢魔の右手が動き、激しい痛みが透を襲った。


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