夢魔

第9章 絶望の淵

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 退院前日のこと。
「う……うう…」
 透はうなされていた。
 検査は一通り終わり、左目の視力以外に異常はないことが確認され、退院を明日に控えた彼だが、眠ると必ずうなされていた。
 あの晩の悪夢が際限なく彼を襲っているのだろうか。
 うなされながら透は、両手を左目にあてている。
 その様子を、入ってきた桜川淳弥が痛ましそうに見ていた。やがて桜川は、見かねたように立ち上がり、透の肩に手をかけて揺する。
「透君、透君」
「う……ん、……あ…」
 透は目を開け、おそるおそるあたりを見回す。
「先生……?」
「ああ、僕だよ。またうなされてたね」
「そうなんです」
 上体を起こしながら。透は答える。桜川はベッド脇に置いてあったタオルを取り、汗ばんだ透の額を拭いてやった。
「駄目ですね……眠るといつも、あの時のことを夢に見るんです」
「いつも、同じ夢?」
「いえ……少しずつ違いますが、あの夢魔の王に左目を刺されるのは同じです」
「……」
「よほどショックが強かったんでしょうね」
「ショックだけならいいんだけどね」
「……え?」
 心なしかぎくりとして、透は顔を上げた。
「どういうことですか?」
「透君、身体の調子は?」
「普通……ですけど? 目以外は」
「そうか。なら大丈夫なのかな。今日僕が来たのはね、君が夢使いの力を失ったって聞いて気になることがあったからなんだ」
 透は桜川の次の言葉を待った。
「君の力が一時的じゃなくなくなってしまったんだとしたら、君はもう普通の人と変わりなくなる。夢使いの夢に夢魔は入れなかったけれど、力を失った君の夢には、もしかしたら……」
「俺に夢魔が憑くこともありうる、ってことですか?」
 桜川はうなずいた。
 透は愕然とする。夢魔に憑かれる可能性など、彼は微塵も考えていなかった。だが夢使いの、いや夢使いだった彼はよく知っている。夢使いの力を持たない普通の人が夢魔に憑かれたときの無力さを。
「だから少しでもおかしいと思ったら、すぐ僕らに話してほしいんだ。いいね」
「は、はい」
「こんなことは、今までなかったからね……」
 桜川は呟くように言った。
「こんなことって……?」
「何もかもだよ。夢魔の王が夢使いを狙うことも、夢使いが力を失うってことも」
「そう……ですね」
 透はうつむき加減に相槌を打つ。
「俺は……むしろ夢使いのみんなの方が俺なんかよりも危険だと思うんです。沢村のこともあるし……」
「どっちにしろ危険な時代になったもんだね。困ったことだ」
 淡々とした桜川の口調は、思わず笑いを誘うものであったが、内容は決してほほえましいものではない。
「あいつらは……一体何を狙っているんでしょう」
「さあねえ。聞いても多分教えてはくれないんだろうね」
 桜川は幾分茶化し気味に答えたが、その表情が心なしか硬いように、透には思えた。
 どのみち、今夢使いであることと、夢使いでないことの間にはさほど違いはなかった。夢魔はどちらにもその魔手を伸ばしつつあるのだから。
 そして、その状況に対処する方法を、夢使い達はまだ見いだしていない。
「いやあ、ごめん。しめっぽい話になっちゃったな」
 桜川は急に口調を変えた。病床の透を気遣って明るく振舞おうとでもしているかのようだ。
「明日退院なんだろう?」
「ええ」
「退院したら、頼みがあるんだ」
「なんでしょう?」
「夢使いの教育担当になってくれないか?」
「えっ?」
 桜川の言葉はあまりに唐突で、透はしばらくぽかんと口を開けて桜川を見てしまった。
「……待って下さい、俺はもう……」
「夢使いの力をなくしたって?」
「そうですよ。だから……」
「平気だよ」
 桜川はいつもの笑みを浮かべた。周囲の者がついつられて微笑んでしまうような、柔らかく温かな笑顔。
「夢使いの力がなくても、指導はできるのさ」
「でも……どうやって…」
「普通は教育担当者が新人の夢に入って指導をするだろう?でも逆に、新人が担当者の夢に入ったって構わないじゃないか」
「はあ……」
「夢への入り方を教えるのは、誰でもできる。君にやってもらいたいのはその後――夢魔の倒し方なんだ」
「でも俺は……別に才能があったわけじゃないですし」
「……厳しいようだけどね」
 桜川は窓の外を見やった。
「確かに君は夢使いとしては平均的だ。環君のようなすぐれた才能があるわけじゃない。でも、だからこそ普通の夢使いたちに多くを教えることができると思うんだよ」
「……」
「どうだい? 透君」
「……俺…」
 何から言おうかと、透は迷った。迷いながらもぽつぽつと語り出す。
「力を失って……もう夢使いじゃなくなったんだって思った時、ショックでした。夢使いを一生の仕事にしていくつもりだったから……」
 以前、国村響子が透に「夢使いの仕事に生涯をかけている」と語ったことがあった。口には出さずとも同じような思いを抱いていた透は、響子に親近感をおぼえたものだった。
 透は続ける。
「だから……力をなくしても夢使いに関わっていけるのなら、俺は満足です。やらせて下さい……教育担当の仕事を」
「そうか、よかった」
 桜川はほっとしたような笑顔になった。
「君がそう言ってくれると、僕も心強いよ。詳しいことは退院してから話そうか」
 桜川はその後しばらく、他愛のない世間話をして帰っていった。透はその夜、久しぶりに悪夢を見ずに眠ることができた。

 翌日は透の退院の日だった。
 しばらくぶりにアパートに戻ってきた透は、アパートの自分の部屋のドアの前に佇む三枝加代を見つけた。三枝は国村響子と仲がよく、響子の住むこの町にもよく遊びに来ているというから、透の家を知っていてもおかしくはない。だがなぜ三枝がここにいるのか、透にはわからなかった。
「三枝さん……?」
 透の呼びかけに、三枝は顔を上げた。真っ赤に泣きはらした目が、ただごとではないことを物語っている。
「島村君……今日退院だって聞いて、待ってたの……」
「……なにかあったんですか?」
「……」
 三枝の目から涙がこぼれ落ちた。
「さ……三枝さん?」
 いやな予感がした。
「桜川さんが……夢魔の王に…」
 三枝は言葉を詰まらせる。だが、それで充分だった。
 何が起こったのか、透にもそれだけで理解できてしまった。


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