夢魔

第10章 黒衣の夢魔

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 ざわめきが心地よく彼の耳をくすぐる。
(どこだろう、ここは……)
 透はあたりを見回す。
「おう、どうした島村、いきなりきょろきょろして」
 すぐそばから声がかかる。見ると高校時代のクラスメイトだった。着ている制服も高校の時のものである。
「あ、いや、なんでもないよ」
「それよりさ、島村は進路調査票、なんて書いて出した?」
「進路調査票?」
 どうやらここは高校三年生の時の教室らしい。こんな会話をこのクラスメイトとした覚えがある。あの時はなんと答えたか……。
「一応進学志望ってことにしといた。おまえは?」
「就職。公務員試験も受けようかと思ってる」
「そうか、大変じゃないか?」
「ま、ね」
 クラスメイトは透の前の席の椅子に後ろ向きに座り、透の机に頬杖をつく。
「あーあ、島村はいいよなあ。もう仕事持ってるから、就職の心配しなくていいんだ」
「仕事? ああ、夢使いのことか」
「そ。なんだか知らないけど、ずっとやっていけるんだろ? 給料もらえてさあ」
「いや、まあ、それはそうなんだけど……」
 夢の中の高校生の透は、照れたように笑う。
 あの時から、どれほど長い年月が過ぎたのだろうか。
 夢使いとして一生暮らしていこうと、なんの疑いもなく信じていたあの明るい日々から。
 笑っているのは、過去の自分。
 今はもう、将来を夢見て笑うことなどできはしないのだ。
 そう考えると、辛くてたまらなかった。
 透は思わず立ち上がる。
「どうした? 島村」
 クラスメイトが声をかける。それに適当に返事をして、彼は教室の外に出た。

 人気のない廊下を、透は一人で歩く。
 なぜ自分はこんな夢を見ているのだろう。
(早く目が覚めてしまえばいい……!)
 そう呟いて、足元の床を蹴りつけた、その時。
(……!)
 廊下の向こうに、何者かの気配がした。
 いくら力を失ったとはいえ、長年戦ってきた夢魔の気配を忘れるはずもない。
 その気配は明らかに夢魔のものだった。
(俺の夢に夢魔が入り込んできているのか)
 透は身構える。
 既に、学生服を着た高校生の透ではない。少し前まで、プロの夢使いだった透がそこにいた。
 廊下の向こうに人影が見える。夢魔の気配を放ちながら、その人影はゆっくりと透の方に向かって歩いてきた。
 夢魔に憑かれた普通の人間が、夢魔を倒すことは不可能だ。千秋でさえ、環の助けを借りなければ自分に憑いた夢魔を倒せなかったのだから。
(俺にできるか……?)
 自信はない。だが近づきつつある夢魔の発する気配はかなり弱いものだった。透は夢魔の弱さに賭けてみることにしたのである。
 夢魔はもう視界にはっきりと入るまでに近づいている。
 黒ずくめの衣服を身にまとった、長身の夢魔。
 彼の赤紫の目はまっすぐに透を捉えていた。透も負けじと夢魔をにらみつける。隙を見つけて攻撃するつもりだった。
 夢魔は透のすぐ前で足を止める。
 次に夢魔が発した言葉は、透の意表をつくに充分だった。黒衣の夢魔は、視線をついと反らして透の肩ごしにざわめきの洩れる教室を見やって、こう言ったのだ。
「学校……ですか。いいものですね。ずっとうらやましいと思っていました」
「なっ……」
 さすがの透も、とっさにどう対応すべきか迷う。夢魔は透の目に視線を戻し、かすかに微笑んだ。
「そんなに敵意をむき出しにしないで下さい。あなたに危害を加えるつもりはありません……その証拠に、今は力を最小限に押さえているでしょう?」
「……?」
 夢魔の力が弱いと感じたのは、単に夢魔の方が力を押さえてくれていたからだというのだろうか。透は怪訝な表情で聞き返した。
「どういうことだ?」
「あなたに話したいことがあったので、夢に入らせてもらいました。私の名はラグナ。……粟飯原環の父親です」


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