夢魔

第11章 ふたりの環

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「環は夢使いでもあるので、私が入ることはできません。あなたが通れるように道を開くので、それから先はあなたにお任せすることになります」
 そう前置きして、ラグナはすっと片手を前にさしのべる。白っぽい輝きが彼の手に生まれ、次第に大きさを増していった。
「夢魔の王は今、他の人間の夢に入っています。戻って来ないうちに急いで環に会っ て下さい」
 透はごくりと息を呑んだ。夢魔の王が戻って来るまでにどれほどの時間があるのか、見当がつかない。
 夢の中に満ちていた力――透自身の生気――が、ラグナの片手の一点に収束していくのがわかる。それと同時に周囲の風景が変わり始めた。夕闇に包まれかけた川べりは消え、何もない殺風景な部屋の中に似た様子になる。
 恐らくラグナは、環の夢に到る道を開くために、透の夢の力を使っているのだ。
 透と千秋が見守る中、ラグナの操る輝きは少しずつ形を取り始める。白い扉が、徐々にその姿を見せ始めていた。
 が。
「……思ったより……」
 ラグナの表情が曇る。
「どうしたんです?」
「環の力が強いようです。これ以上力を加えると、この世界に影響が及びます」
「入れないってことですか?」
「無理にやってできないことはありませんが、あなたが危険です」
「……」
 透は答えにつまる。ここまできて諦めたくはないという思いと、このまま無理を続ければ、環に会う前に自分の生命に危険が及ぶということへの恐れとが、彼をためらわせていた。
 ラグナもひどく迷っているらしい。端正な顔に苦悩の色が見て取れる。扉はほとんど完成しているのに、環の夢には通じていないのだ。
 その時。
 それまでじっと黙って様子を見ていた千秋が、不意に動いた。手をすっと伸ばし、白い扉に触れる。
「だめだ、千秋さんっ!」
 ラグナが制止の声を上げる。
「それは私が集めてきた生気の力で作った扉です。今触れたらあなたまで扉に吸収されてしまう……」
「だから、だよ」
 千秋は扉に手を触れたまま振り向いて答えた。
 微笑を浮かべて。
「私の魂が加われば、扉を開けるんじゃない?」
「どういうことだかわかっているんですか?」
 ラグナは空いた方の手で千秋の手をつかみ、扉から引き離そうとした。千秋は首を横に振り、懸命に抵抗する。
「確かに扉は開くでしょう。でもあなたが消滅してしまうんですよ。新しい身体に生まれ変わることもなく、永遠に消え去ってしまう……それでいいというんですか?」
 ラグナの口調は、それまでの彼らしからぬ激しいものだった。
 透は、何も言えなかった。
 夢の世界で働く力。生気と呼ばれるこの力がどのようなものであるのか、透にははっきりとはわからない。だが、心とか魂と言われるものと関係があるらしいということはわかる。ならば、俗に幽霊と言われる存在になってしまった千秋が「扉に吸収される」ということは、千秋が幽霊としてすら存在できなくなってしまうことになる。
 千秋はそれを知った上で扉に手をさしのべたのだろう。
 透にはその千秋の表情が、この上なく神々しいものに見えた。
「いいに決まってるじゃない」
 千秋はきっぱりと言い放った。こういう言い方をする時は、何があっても譲らない。幼い時から彼女はそうだった。
「それで環が元に戻ってくれるんなら、私がどうなろうとかまわないわ。……それに……私に他に何ができるっていうの?」
 千秋の言葉はほとんど叫びに近かった。
「……わかりました」
 ラグナは苦しそうな表情のまま答える。この時透の頭からは、ラグナが夢魔だということが――これまで戦いを繰り返してきた夢魔達を産み出した張本人だということが――すっかり拭い去られていた。それほどまでに、ラグナは人間そのものだった。
 千秋の手をつかんでいたラグナの手が、力なく離れる。千秋の姿が、ぼやけ、揺らめき始めた。
 透は何も言わずに、千秋と扉を見つめている。言葉が見つからない。どんな言葉も、千秋の前では無力なように感じられる。
「透兄ちゃん……」
 千秋は優しい微笑を浮かべた。
「環を……お願いね」
 次の瞬間、揺らめいていた千秋の姿が、白い扉に溶け込むように消える。
「……扉が完成しました。急いで下さい」
 千秋の消滅を悼む間もなく、ラグナが告げる。やや平板な声は、心の動揺を懸命に押し隠しているように聞こえた。
 が、今はそれを語っている時ではない。
 透は夢中で、ラグナの示すままに、白い扉の中へと足を踏み入れた。扉がひときわ白く輝き、透は自分がどこにいるのかわからなくなった。


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