夢魔

第12章 最後の王

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 輝きの後には闇が世界を覆い、しばらくの間、透の目には何も映らなかった。
 誰かの夢の中ということは確かだ。だが、それ以上のことは何もわからない。
(入れたのか……? 粟飯原の夢に)
 暗闇の中、それとわかる確証はない。ただ重苦しい空気があたりを満たしていることだけがわかる。夢魔の瘴気とは違う、沈鬱な空気。あたりが暗いのはそのせいかも知れない。
 ゆっくりと周囲を見回しながら、透は目が慣れるのを待つ。
 おかしなものだ、と思う。夢の中なのに、まるで現実のように、目を暗闇に慣らさねばならないとは。
 やがて、おぼろげながら周囲にあるものの形が見えるようになってきた。
(あれは……)
 少し離れたところに、人影らしきものが見える。向こうを向いてうずくまっているようだ。透はゆっくりと、人影に歩み寄る。
 あたりを満たす重苦しい雰囲気は、その人物から発せられているようだった。近づくごとに、透の気分も沈鬱なものになっていく。
 手を伸ばせば触れそうな距離まで近づいた時、人影が動いた。振り向かずに、だがはっきりとした言葉を発する。
「島村……?」
 環の声だ。
 まるで数十年振りに聞いたような気がする。
「粟飯原だな?」
 ぴくり、と環の肩が震えた。
「……」
「え、何だ?」
「来ないでくれ……」
 ひどく疲れきった、弱々しい声で環は言う。うずくまったまま、透の方を見ようともしない。
「粟飯原?」
「僕は……もう抜け殻でしかない。何もかも失って……あいつにさえ勝てなかった。そんな惨めな姿を見ないでくれ」
「……!」
 すべてをあきらめきったような、環の声。
 この空間を支配する重苦しい空気にふさわしい名を、透は見つけたような気がした。
 ――絶望。
 恐らく環にも様々な葛藤があったに違いない。彼がいとおしんできた姉と自分自身にさえ裏切られ、暗い夢の世界の中で絶望に沈んでいることは、理解できないことではない。
 だが。
 今の透には、環のそんな事情を思いやっている余裕はない。身近な人々の死と失われた左目、立て続けに起こった様々な出来事。透はそれらに打ちのめされ、自らの無力感に苛まれ続けてきたのだ。
 夢魔と夢使いの間に生まれた環の境遇を思いやるには、透はあまりに深く事件に関わり過ぎていた。
「いい加減にしろよ……!」
 かっとなった透は環を乱暴に引き起こし、拳で顔を殴りつける。環は勢いで後ろに倒れ込み、しりもちをつく。だが、声の調子と同じく暗い絶望に彩られた瞳には、何の表情も浮かんでいない。動かずにじっと透を見つめているさまは、捨てられ、疲れきった子犬のようだった。
 その環を見下ろし、透はなおも激しい言葉をぶつける。
「おまえがここで座り込んでる間に、何人死んだと思ってるんだ? それでいいと思ってるのかよ!」
 普段は温厚で、誰の悩みでも親切に聞く透。環に対しても、よき相談役であり続けてきた。透自身、放ってはおけないと思うから相談に乗るのであり、その心は決して偽りではない。だが、環は透に対して、他愛ない悩みしか打ち明けようとはしなかった。長年抱えてきた大きな悩みを打ち明けるべく手紙をよこした時には、既に手遅れだったのだ。
 もしも恵美が環の夢魔としての力を目覚めさせる前に、環がなんとか立ち向かおうとしていれば、千秋も桜川先生も沢村も、命を落とさずに済んだろう。透の左目も奪われることはなかったはずだ。
 もっと早くになぜ打ち明けてくれなかったのかという苛立ちと、環の近くにいながら何もできなかった自分への怒りが、透を彼らしからぬ荒々しい行為に駆り立てていた。透の口からは、今まで口にしたことのないような激しい調子の言葉があふれ続ける。
「自分の心に閉じこもってるなんて、俺は許さない! おまえのせいだ……おまえが殺したんだ! 千秋も……先生も…みんなッ!」
 不意に環が身を起こした。飛び上がるように立ち上がり、逆に透につめよる。
「千秋がどうしたって?」
「じょ……冗談はよせよ」
 透は一瞬戸惑った。
「知らないわけはないだろう? おまえの姉貴が千秋を殺したんだ。あの旅行の時に」
「殺し……た…? 恵美が…」
 環は呆然とした表情でつぶやいた。
「なんでおまえが知らないって言うんだ?」
 透は声を荒げる。
「千秋はおまえを救おうとして殺されたんだ。おまえ……なんであいつを守ってやれなかったんだよ!」
 千秋。
 幼い頃から面倒を見続けてきた従妹の少女。
 彼女の消滅を目の当たりにした時の、やるせない思いが透の胸によみがえる。環のせいで殺されたと言えなくもない彼女が、それでもなお環を救おうとして消滅したのだ。当の環を目の前にして、それはどうしてもぶつけずにはいられない言葉であった。
 が、環は透の言葉に衝撃を受けていた。
「そんな……千秋が恵美に……」
 うつろな表情。だが、先刻の絶望に満ちた表情とは明らかに違う。千秋はそれだけ、環にとって大切な人間だったのだろう。
「千秋はな、おまえのことを最後まで心配していた。身体をなくしてもな。それでおまえを救うために、もう二度と生まれ変われないような道を選んだんだ。おまえのために!」
「……」
 環の表情に感情が戻ってきつつある。すべてを失った絶望の表情から、せつない後悔の表情に。透はさらに言葉をつぐ。
「千秋だけじゃない。先生も沢村も……夢魔の王に殺された。おまえがここで何もしなければ、もっと沢山の人が死ぬ。それでもいいのか?」
「先生……沢村君……」
 環は長い間考えていた。
 が、やがて、
「でも……だめだ。僕があいつに勝てるわけがない」
「なんであきらめるんだよ」
「S海岸で……恵美が来た時、わかったんだ。あいつ……夢魔の僕が本当の僕で、ここにいる夢使いの僕はただの殻に過ぎなかったんだと。それにあいつは恵美のものになってるから……」
「だから逆らえないってのか? おまえ……千秋を殺されてもまだ、姉貴の方を信じるっていうのか?」
「そんなことはない!」
 珍しく強い調子で、環が反論する。
「そりゃあ、許せないよ……だけど、いくら僕がそう思ったって、僕には何の力もないんだ」
 なぜそこであきらめてしまえるのだろう。透はそう思った。天才夢使いと呼ばれ、活躍していた環に何もできないなどということは、とても考えられない。
「それじゃあ、夢使いだったおまえって、一体なんだったんだよ?」
「あれは……」
「おまえじゃなかったのか? 俺達と一緒に夢魔を退治してきた粟飯原環ってやつは、初めからいなかったとでも言うつもりなのか?」
 環ははっとしたような表情になった。
「そうか……僕は…」
 環は何かをつかみかけていた。
 だが、その時。
「なぜおまえがここにいる……!」
 女の声がした。


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