夢魔

第12章 最後の王

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 透の背後から、こちらに向かって歩いて来る人影。暗くてよく見えないが、透が忘れるはずもない姿だった。
 透の左目を奪った夢魔の王。それは、環の顔をしていた。
 環が二人。一人は妖しく冷たい赤紫の瞳を、もう一人は悲しげな褐色の瞳を持っている。
「やはりあの時に殺しておけばよかったようね」
 赤紫の瞳の環……夢魔の王が口を開く。恵美の声だ。
「まあいい……どうやってここまで来たのかは知らないが、ここでとどめを刺してやろう」
 夢魔の王が、一歩透に向かって踏み出す。
 透は動けなかった。
 左目を刺された時の恐怖感がまざまざとよみがえる。あの時とは違って、今度は目だけでは済まないだろう。
 また一歩。
 透が覚悟を決めた時。
 夢魔の王と透の間に立ちはだかった者がいた。
 環である。
「島村に手を出すな」
 透をかばうように立ち、環は同じ顔をした夢魔の王と向かい合う。
 王は薄く笑った。
「おまえに何ができる」
「できるさ。……島村が気付かせてくれた。はじめからこうしていればよかったんだね……」
 環の表情は、透の位置からは見えない。だが声の調子は先刻の絶望に疲れきったものとは別人のように、きっぱりとした決意を秘めている。
「なにを……」
 王の表情に、わずかに不審の色が浮かぶ。環は一歩進み出て、王に手を差し延べた。
 そして言う。
「おいで……環」
 暖かい調子の声だった。――まるで去って行った友を再び迎える時のように。
 夢魔の王の表情に、明らかな動揺が走る。と、やにわに頭を押さえ、うつむく。
「……!」
 透は息を呑んだ。
 夢魔の王が、二つに分離しようとしている。
 頭を押さえた王の身体から、一つの淡い影がゆっくりと浮かび上がり、王から離れようとする。その影は人に似た形を次第にはっきりさせながら、ゆっくりと環に近づいて来る。
 環は手を影の方に差し延べ、じっと待っている。
 影は環に近寄り、そして、消えた。
 透にはその影が環に吸収されたように見えたし、それは恐らく錯覚ではなかった。
「ばかな……」
 恵美の声に透ははっとして、王の姿を見、そしてその姿が変わっていることに気付く。
 美しい顔の女が、呆然とこちらを見ていた。
「恵美……」
 影を吸収した環は静かに告げた。
「あなたの負けです。もうあなたの思うようにはなりません」
「環……」
 恵美の姿になった夢魔の王。
 いや、彼女は既に王ではなかった。環の夢に巣食う、一匹の夢魔に過ぎない。
 それでも恵美は「女帝」の誇りを失ってはいなかった。あくまでも美しく、傲然と言い放つ態度は、とても形勢が逆転して苦境に立たされている側のものには見えない。
「私に逆らうつもり?」
「そう……なりますね」
 環の言葉は、あくまで静かである。だが、丁寧な口調がどことなくよそよそしい。あるいはあえて距離を保とうとしているのだろうか。
「僕は……あなたが好きでした。あなたがただ僕の力を利用しようとしているだけだと知っても、あなたを裏切りたくはなかった。でも……僕がそうしてあなたに従っていたせいで傷つけ、死なせてしまった人達に償いをしなければなりません。そのために……」
 環は一呼吸おき、続ける。
「あなたを倒します」
 恵美は完璧なまでの美をそなえた、しかし冷酷な毒を秘めた目で環をじっと見つめる。
「環……あんたは夢魔よ。どうとりつくろってもね。あんたがその手でその男の目をえぐったことも、夢使い達を殺したことも、永遠に消えない事実だわ。それでもまだ、人間のふりをしたいっていうの?」
「僕の間違いは、それを認めまいとしたことでした」
 恵美の動揺を誘うような言葉にも、環はひるんだ様子を見せることはなかった。
「僕はずっと、目をそらして逃げ続けてきました。……夢使いの僕も、夢魔の僕も、どちらも僕にほかならないんだということに、気付いていたのにわざと気付かない振りをしていたから……こんなことになってしまったんです」
 そればかりとは限らない。環の背中を見ながら、そう透は思う。唯一真相を知っていながら事態をぎりぎりまで静観していたラグナ、身近にいながら妙に理解者ぶって相談に乗ってやらなかった透。誰もが迷い、事態を悪化するに任せてしまった。現実から目を背けて来たのは、環だけではなかったのだ。
「だから僕は……夢使いとして、そして同時に夢魔の王として、あなたを滅ぼします。夢魔は……こんな形で存在してはいけないんだ」
「た、環……」
 恵美の美貌に初めて、狼狽の色が走る。
 恐らくは、それが恵美の最も恐れていたことだったに違いない。自分を上まわる力の持ち主が、自分に牙をむくことが。
 恵美の赤紫色の目が、すばやく左右を見回す。逃げる隙など、初めからない。
 不意に環が振り返り、じっと透を見つめた。
「ごめん……この先は二人だけにしてくれ」
 環の言葉と同時に、強い力が自分を環の夢の世界から押し出そうとしているのを、透は感じる。
 透は環の目を見、はっとした。
 深い悲しみと、それでもなお進もうとする意志を秘めた目。
 今や赤紫色に染まったその目は、驚くほどラグナに似ていた。


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