小雪がちらちらと舞う、風の強い日だった。
金色の髪の剣士が一人、定期船の甲板から近づきつつある港を眺めていた。レーギス大陸北部の冬らしく、どんよりと低く垂れ込めた雲の下に、新旧入り交じる石づくりの建物群が広がっている。海鳥が舞い、港の男達がロープを手に船の到着を待っているのがはっきりと見えてくる。
剣士──ランディ・フィルクス・エ・ノルージにとっては、ほぼ2年ぶりのケレスの光景だった。
「相変わらず、か」
無表情に彼はつぶやく。ただでさえ低いつぶやきは、口の端に乗せられるはしから吹きすさぶ風に散らされ、誰にも届くことはなかった。
「ガイドを辞めた?」
中心街のガイドの紹介所で、ランディは聞き返す。
「ああ。最近はなんだか図書館でバイトしてるみたいだぜ」
紹介所のカウンターに座っているのはジェレミー・カッツ。盗賊団「アルバトロス」が解散して以来、ガイドの斡旋業を営み、自らもガイドを勤めている。
「図書館? そりゃなんでまた」
「さあな。まあ元気そうだし、ここにもよく顔は出すんだが……会うならそっちに行った方が早いよ」
「わかった。邪魔したな」
ランディはうなずく。ガイドを辞めているとは意外だったが、この町にいるのなら問題はない。問題はむしろ、どうやってこれから向かう地につき合わせるかということだが、口実はいくらでもある。なにしろ馬鹿がつくほど世話好きなお人好しなのだから。
(必要なのはもう一人の方だが、あそこでは出て来ざるを得ないはずだ)
それこそが今回の目的なのだから。
ランディは肌寒さを感じつつ石畳の通りを歩いていく。
図書館は新市街の外れにあった。既に閉館時刻は過ぎており、薄暗くなりかけた裏口から職員達が帰宅の途についているのが見える。
(遅かったか?)
舌打ちしながらそちらに目をやった時、見覚えのある人影が目に入った。
闇色の髪の青年。少し髪が伸びたらしく、後ろで一つに束ねている。裏口付近で職員の一人と二言三言、言葉を交わし、バッグを肩にひっかけるようにして無造作に持ち、こちらに向かって歩いて来た。
ランディはちょうど、彼の正面に立つ形になる。相手もランディの存在に気づいたらしく、そのまままっすぐランディの前にやって来る。
「よう、久しぶり」
陽気な声で先に挨拶したのは、相手の方だった。手を軽く上げ、屈託のない笑みを浮かべている。上げた右手の小指で、銀色の指輪がきらめいた。
が。
ランディは目を細め、会いに来たはずの相手をじっと見つめる。
「……おまえは誰だ」
それがランディの第一声だった。
「何ボケてるんだよ。ディングだってば」
「俺の知っているディングは、もっと間抜けた無防備な顔だったな」
「ひでえなあ。なんだよそれ」
相手は笑い出す。
「ついでに言えば、もう一人同じ顔の奴も知っていたが、そいつは逆に陰気でピリピリしていた」
「うわ、追い打ち」
大げさに頭を抱えて見せる。この反応、この仕草は、どう見てもランディの知っているディングのものではないし、ディングのもう一つの人格、ガルトのものでもなかった。
今ランディの目の前にいる彼は、分かたれた人格のどちらでもない、だが、どちらのようでもある。ディングの陽気さとガルトの隙のなさが、彼には同居していた。
ひとしきりおどけて笑ってから、彼は低い声で言う。その口調が、彼が見た目通りの屈託のない人間ではないということを示していた。
「……相変わらず鋭いな。お察しの通りだよ」
「統合したか」
「そういうこと」
「……なんと呼べばいい?」
「どっちでもいいぜ。ディングでもガルトでも。一応ここではディングのままで通してはいるけどさ」
「本名は?」
「ガルト・ラディルン」
フルネームを聞いたのは初めてだ。
「なら、ガルトと呼ばせてもらおう」
まさか、二つに分かれていた人格が一つになっているとは。
正直言って予想外の出来事だった。だが、今回はむしろ好都合かも知れない。
一呼吸おいて、ランディは続けた。
「ガルト、おまえに用があってここに来た。手を貸してほしい」
「リュテラシオン?」
ランディが滞在している新市街の宿の一室。
ランディの口から発せられた地名を、ガルトが聞き返す。わずかにひそめられた眉は、彼がその地について何かあまり愉快とはいえない知識を持っていることをうかがわせた。
「知ってるか?」
「覆面商人の……出身を隠したヘスクイル島の商船の寄港地なんだ。教団の暗殺者が島に帰る時にも使ってた」
「そうか、やはりな」
ランディはうなずく。必要としていたのは、ダーク・ヘヴンの暗殺者がリュテラシオンをうろついているらしいという噂の裏付けだ。元暗殺者のガルトにならばわかるだろうし、人々に紛れ込んだ暗殺者から身を守る術も心得ているだろう。
「……リュテラシオンの郊外に、『宝石王の館』と呼ばれる屋敷がある。かなり前に死んだ宝石のコレクターのものだが、死霊が巣くって誰一人入れないそうだ」
「宝玉か」
「そういうことになるな。あれからあちこち行ってみたが、ろくな宝玉がない」
苦い顔で吐き捨てるように、ランディは言う。そこそこの強さの宝玉であればすぐに見つかる。だが、ランディが求めているのは、秘術によって人から作り出された宝玉に抗しうるだけの力を持ったものだ。一族を惨殺した兄、レスターを倒し、生きながら宝玉に変えられた婚約者のミルカを苦しみから救うには、それだけの宝玉がどうしても必要なのだ。
求める宝玉があまりに見つからないことに、ランディは苛立っていた。ダーク・ヘヴンの暗殺者がうろつく地の、死霊によって閉ざされた館に手を出すのも、彼の余裕のなさの現れと言える。
「だがリュテラシオンには、ダーク・ヘヴンがらみの噂が多い。『宝石王の館』を狙っていた冒険者が立て続けに変死したという話もある。おまえならそいつらに目をつけられずに済む方法がわかると思ってな」
「まあね」
持ち込んだ蒸留酒を杯に注ぎながら、ガルトは答える。かなり強い酒ではあるが、顔色一つ変わっていない。
「要するに宝玉が狙いで、その時に教団の暗殺者に目をつけられないようにしたい、ってことでいい?」
「そうだ。頼めないだろうか」
教団に追われている、と、かつて言っていた。だとすれば教団とのつながりが深いリュテラシオンを訪れることは、彼にとって望ましくない事態であるかも知れない。
ガルトは口の端をわずかにゆがめた。
「……なんだか、らしくねえなあ」
「なんだ?」
「なんか口実つくって連れていって、なりゆき上協力せざるを得ないようにする方が、あんたらしいと思ってさ」
「ディングが相手ならな。だが今のおまえに通用するとは思えん」
人格が統合する前であれば、人の好いディングを言葉巧みに連れ出すつもりだったということだ。ガルトに差し出された酒の杯を受け取りつつ、平然とランディはそう言ってのける。
ガルトはランディにとって、利用価値のある対象だ。死霊を狩る上でダーク・ヘヴンの情報は貴重だし、彼の「力」にも関心がある。詳細は知らないが、秘術の生贄として宝玉に変えるに足る魔力を秘めているのはわかる。満足のいく宝玉が見つからなければ使わざるを得ない、最後の手段ではあるが。
だが二年ぶりの彼は、容易には侮れない相手となっていた。人格が統合されたせいか、明朗さの裏にしなやかな鋭さを隠し持つ油断のならない雰囲気に仕上がっている。再会して間もないが、迂闊に振る舞えばこちらが返り討ちに遭いそうな危機感すら、ランディの剣士としての鋭敏な感覚は感じ取っていた。いつになく下手に出ているのはそのためである。
ガルトにしても、ランディに全幅の信頼など寄せてはいないだろう。利害が一致する限りでは当面の信用はできるが、隙を見せてはならないし、好意やら友情やらに期待する仲でもない。
互いにそれがわかっているからこそ、取り繕いは無用だ。
とはいえ、ガルトが承諾するかどうか、ランディには今一つ読めない。場所が場所だけに、拒否される可能性も大きい。
「無理にとは言わんが……」
ランディはそこで言葉を切り、酒を喉に流し込んだ。喉を灼く酒の強さを感じつつ、ガルトにとって魅力的な条件を探して頭を巡らせようとする。
が。
「わかった」
いともあっさりとガルトは答える。
「いいのか?」
「俺も教団の動向を調べておきたいからさ。ちょうどいいや」
「そうか」
言いながら、利害が一致したことにほっとする。
「ただ、少し待ってくれない? 仕事が一段落するまで」
「構わんが……おまえ、図書館なんかで何やってるんだ?」
「魔術書の翻訳。新しい魔法を覚えるついでにね」
ガルトによれば、ダーク・ヘヴンに伝わる魔法は伝承のための特別な言語で書かれており、図書館にあった本は誰も読める者がいないために放置されてきた。島に伝わっていない魔法を探して読んでいたところ、図書館の研究員に翻訳の仕事を持ちかけられたという。
「暗殺者でガイドで研究員……芸達者だな」
「魔術師なだけだよ」
ガルトは軽く笑って見せる。こうして酒を酌みかわしつつ話すのは初めてだったことに、ランディは気づいた。
リュテラシオンは大陸北部の沿岸に位置する中規模の都市である。ケレスと同様、レーギス帝国に属するが、エテルナ公国に隣接しており、ケレスからは船で三日を要する。町の南東部では山が海岸近くにまで迫っているため、ケレスから陸路を使うと大幅に迂回しなければならない。
ランディとガルトがリュテラシオンの港に降り立ったのは、二人が再会してから半月ほど後、大陸暦933年も暮れようかという時期だった。冬の風が時折強く吹き、雲の流れが早い。天気がこれ以上荒れる前に上陸できたことは幸運だった。
「どうだ?」
埠頭から市街に向けてゆっくりと歩きながら、ランディは尋ねた。ランディには通行人とダーク・ヘヴンの暗殺者の区別がつかない。
「このあたりには見当たらないけど……北港に船が来てたな」
「奴らの?」
「いや……商船の方」
答えながらガルトは、風に飛ばされそうになった帽子を押さえる。ふだんはかぶらない帽子をかぶっているのは、島の出身者の目をごまかすためだ。
「どうしてわかる?」
「俺が乗ってきた船だった」
ガルトの声は、明らかな苦笑を含んでいた。嫌な偶然、といったところだろうか。
島から逃げるには、商人になりすまして商船に乗るしかない。ガルトもかつて、そうやってリュテラシオンに来たのだという。
「まあ、少し歩いただけじゃわからないだろ。あとで調べてみるよ」
「ああ」
「それで、館の方はどうするんだ?」
「そうだな」
ランディは空を見上げる。まだ昼前ではあるが、海の方から低く黒い雲に覆われつつあった。
「雨にならないうちに、一度見ておこう」
「間に合うかな」
「さあな」
リュテラシオンでは真冬でも雪はほとんど降らないが、冬の雨はやはり冷たく、時には雷を伴う嵐になることがある。迫り来る黒雲が嵐のものなのかはわからないが、雨になることはほぼ確実だった。
だが、ランディは雨だからといって予定を変更するつもりはない。館の様子を確認し、宝玉を手に入れる算段を整えるのが、何よりも優先すべき事柄だった。
館はリュテラシオン南東の山の中腹に張り出した崖の上に、町を一望できるように建てられている。山を登って館に近づくのは、館を狙っていた冒険者が変死したという噂を考えれば危険であるが、麓の森を抜けて真下から見上げる形であればさほど時間もかからず、人目にもつきにくい。
「死霊が巣くって誰も入れない……って、どういうことなわけ?」
森の小道に足を踏み入れて間もなく、ガルトが尋ねた。森は散策路として整備されているが、冬のこの時期にはさすがに人影はない。
「扉は開かないし、壊そうとしても壊れない。強力な守りが働いているようだが、その源と思われる死霊の気配はいっこうに弱まらず、次第に強くなってきている……そんなところだ」
「死霊を浄化すれば片づくこと?」
「おそらくは」
ランディの足取りには迷いがない。事前に経路は入念に調べてあったし、妖魔や獣の類が襲って来れば魔剣で切り捨てるまでだ。
ほどなく、目の前に絶壁が立ちはだかる。見上げるとはるか上に、館らしきものが建っているのが見えた。
「これは……」
にらみつけるように館の方を見上げ、ランディはつぶやく。
「聞きしにまさる、か」
遠雷が響く中、暗雲を背景に立つ館からは、距離を隔ててなお死霊の気配が感じられる。館そのものが死霊であるかのように濃密な気。これまで誰も手がつけられなかっただけのことはあった。
「封じられそう?」
「難しいな」
ガルトの問いに、館をにらんだまま答える。自分の手に負える強さを遙かに越えているのが、麓からでもわかる。だが、せっかくの獲物を諦めるのは惜しい。
何か方法はないものだろうか。
思案にふけるランディをしばらく眺めていたガルトが、おもむろに口を開いた。
「俺が浄化しようか?」
「なんだって?」
思わずランディは聞き返す。あの死霊を浄化できるというのだろうか。
ガルトはにやりと笑ってみせる。
「できもしないことを安請け合いする趣味はねえよ」
「しかし……」
にわかには信じがたい。
「なんなら、今やろうか?」
「ずいぶん簡単そうに言うんだな」
半ば呆れて、つぶやくようにランディは言う。以前彼が変わった魔法を使って死霊を浄化しているのを見たことはあるが、そこまで強力な魔法には見えなかった。
だが本当に浄化できるというのなら、願ってもないことである。
「あてにしていいんだな?」
「もちろん」
「ならば頼む……ああ、今じゃない。ダーク・ヘヴンの奴らのことも気になるし、一度出直そう」
再び散策路に足を踏み入れる。遠くで鳴っていた雷が次第に近づいていることに気づき、二人は足を早めた。
雨が降り出したのは、二人がまだ森の中を歩いている時だった。大粒の雨が激しく地面を打ち、雷鳴がとどろく。散策者のために設けられた休憩小屋に飛び込んで、なんとか雨をしのぐ。小屋はしっかりとしたつくりで、濡れる心配はないが、雨が止むまでは動けそうにない。
「間に合わなかったな」
炉に火を起こし、濡れた服を乾かしながら、ガルトが苦笑する。
ランディは無言で剣の手入れをしていたが、ふと、その手を止めた。
「……声がする」
「えっ?」
ガルトは怪訝な顔をしたが、すぐにランディが耳にした声に気づいたようだった。
小屋のすぐ外、雨音にかき消されて聞き取れないが、男の声が聞こえる。続いて、扉を叩く音。
二人は顔を見合わせる。
「こんなところに何の用だ」
「なあ、助けてって言ってないか?」
ガルトの言う通り、扉の外の男は助けを求めているようだった。次第に激しくなってきた扉を叩く音に混じって「助けてくれ」「お願いだ」といった懇願の声が切れ切れに聞こえる。
「おい」
立ち上がって扉に向かうガルトを、ランディは呼び止めた。
「どうするつもりだ」
「こういう場合、戸を開けてやってもいいと思うけど?」
「……」
よけいなことにかかわる気はなかったが、ガルトが既に扉に手をかけているので仕方なくなりゆきを見守ることにする。手入れの途中だった剣を鞘におさめ、だが、用心深く手から放さない。
ガルトが扉を開けた瞬間、激しい光と地面を揺るがす音とともに、男が一人転がり込んできた。ちょうどすぐ近くに雷が落ちたのだろう。男は床に転がってうずくまったまま、がたがたと震えて切れ切れになにやらつぶやいている。
ランディは男を一瞥し、閉められた扉に目をやる。
「近くに落ちたな」
そう、興味なさそうにつぶやいた。ガルトのお節介ともいえる行動につき合う気はない。
「おっさん、落ち着けよ。どうしたんだ?」
ガルトが男の肩を叩き、なだめようとするが、男はどうしたわけか恐怖にすっかり取り乱していた。
尋常ではない怯えようである。
「助けてくれ……追いかけて来るんだ……」
「何が?」
尋ねても男は尋ねられたことに気づいていないようだった。歯の根も合わぬほどに震えながら頭を抱えて丸くちぢこまる。
「大丈夫だと……のに、どうしてここに……奴らが」
「ここなら安心だよ。何があったか教えてくれないか?」
ゆっくり言い聞かせるようにガルトが言う。男は相変わらず震えていたが、当面は安全なところらしいと理解できたらしく、抱えていた手を頭から放した。
「どうして追いかけられてるんだ?」
「逃げてきたんだ……船で……」
「どこから?」
「……」
不意に。
男の口から発せられた音を聞いた瞬間、ガルトの表情が変わった。普段の快活な表情から、厳しく鋭いまなざしへ。目元のはっきりした顔立ちのせいか、それだけで別人のように雰囲気が変わる。
刃物のように鋭い目を、ガルトは扉に向けた。
「ガルト?」
「ランディ」
ガルトは立ち上がる。
「この人を頼む」
「何があった?」
ガルトは答えず、扉を開け放つ。雨で白く煙る森の中に、何か動くものが見えた。ゆっくりとこちらに近づいてくるものを見て、ランディは思わず声を上げそうになる。
それは、人の形をしていた。剣らしき棒状のものを手に、まっすぐ小屋を目指して歩いてくる。だが、ふらふらとした歩き方と不自然にねじれまがった首は、それが生きた人間ではないことを証明していた。
「あれは?」
「屍鬼。たぶん暗殺者のなれの果てだ」
思わず戸口に駆け寄ったランディに、短くガルトは答える。刃物の目をまっすぐに、死してなお動くその身体に向けたままだった。
「……」
ランディは剣の柄に手をかける。何が起きているのか完全に理解したわけではないが、迫って来るものが屍鬼であれば、魔剣で倒せばよい。
が。
「悪い、ここは俺に任せてくれ」
低く鋭い調子のガルトの言葉に、ランディは一瞬たじろいだ。
その時。
「う、うわぁぁぁぁぁっ!」
男が絶叫する。
「お、お許し下さい! どうか……ウドゥルグ様!」
(ウドゥルグ?)
ダーク・ヘヴンの破壊神の名。
(そうか!)
ダーク・ヘヴンから逃亡してきた男がリュテラシオンで暗殺者に見つかり、追われてここまで逃げてきた。そう考えれば、男のおびえようもガルトのただならぬ様子も、そしてやって来た屍鬼も説明がつく。
戸口から一歩踏み出しかけたガルトの背中がぴくりと動いた。が、振り向くことなくそのまま屍鬼に向かう。
(一体何を?)
戸口に留まり、ランディはガルトの様子を見守る。
叩きつけるように降る雨の中を、ガルトはまっすぐに屍鬼の方に向けて歩みを進める。屍鬼は正面からやって来るガルトに気づき、剣を構えようとする。
「……っ!」
突然背後から衝撃を受けて、ランディはよろめいた。男がランディを突き飛ばすように戸口から走り出て、そのまま屍鬼から逃げるように森の奥へと駆けて行く。迫る屍鬼の恐怖に耐えきれなかったのだろうか。
ランディは男を止めようとも追おうともせず、屍鬼とガルトの方に再び視線を向ける。
ガルトは立ち止まり、十歩ほどの距離を隔てて屍鬼と向かい合っていた。彼の背中ごしに、屍鬼が構えかけた剣を下ろすのが見える。手の動きから、どこか戸惑っている様子がわかる。
剣をだらりと下ろしたまま、屍鬼はガルトの方を見つめている……実際には、ねじ曲がった首がどこを向いているのか判断できなかったし、激しく雨の降りしきる中でのできごとだったので、正確にはわからないが、そのように感じられた。
ガルトはじっと立ったまま、背中をこちらに向けている。
ややあって。
屍鬼がぐらりとくずおれた。全身からすべての力が抜けたかのようにどさりと倒れ、そのまま動かなくなる。
ガルトはしばらく、倒れた屍鬼に目を落としていたが、やがて戻って来た。
冷たい冬の雨に打たれていることに気づいていないかのような、うつろな歩き方だった。
「……済んだよ」
抑揚のない声で、ぽつりと言う。
だが。
「あいつ、逃げたぜ」
ランディがそう言うと、ガルトははっと顔を上げた。
「どっちに?」
「追いかける気か? やめておけ」
「そうはいかないだろ?」
再び雨降りしきる森へ足を踏み出しかけたガルトの肩を、ランディはぐいとつかみ、引き戻す。
「馬鹿かおまえは。追いかけてなにができるっていうんだ」
「……」
ガルトの顔に、ひどくやりきれない表情が浮かぶ。その表情を見ながら、ランディは続けた。
「ウドゥルグってのは、死者を支配するんだろう? だったらあいつは破壊神を忘れない限り、死ぬまでその影におびえ続ける。そんな奴にしてやれることがあるか?」
男は、屍鬼の姿を見てウドゥルグに許しを乞うていた。逃亡したことで死後の世界を統べる破壊神の怒りを買ったと思っていたのだとすれば、彼は死ぬ瞬間まで破壊神の怒りを恐れ続けるだろう。だが、それを他人が解いてやることなど、到底できない相談なのだ。破壊神自らが出現して許しを与えでもしない限りは。
「……そうだな」
ゆっくりと自分に言い聞かせるように、ガルトはつぶやき、素直に小屋へと戻る。無言で服を着替え、冷え切った身体を暖めるガルトの姿にちらりと目をやり、ランディは再び剣の手入れを始めた。
ダーク・ヘヴンからの逃亡者と追っ手にたまたま出くわした。ランディにとってはそれだけのことである。だが、この一連の出来事は、ガルトにとっては何らかの意味をもっていたように、ランディには思えた。
単に同郷の男を救えなかったというだけではない。むしろ屍鬼に対峙した際の、彼のただならぬ表情が気にかかる。まるで追っ手が屍鬼となって迫って来ていることが扉越しに見えていたかのような、あの、鋭いまなざし。そして戻って来た時の、どこかうつろな様子。
深く関わるつもりはない。だが、どこか気になるできごとではあった。
夕方には雨はあがり、二人は市街の宿に向かう。途中、森の入口にある広場で、落雷を受けたとおぼしき大木があった。太い幹は二つに裂け、一方は折れて地面につき立っている。
「さっきの追っ手、たぶんここにいたんだ」
ガルトの言葉に、ランディは足を止めた。確かに落雷を受け、さらに折れた木の直撃を受けたとすれば、あのような姿になっても不自然ではない。
「なぜわかる?」
「近寄った時に首飾りをしてるのが見えたんだけど、屍鬼化の魔法がそこから発動したばかりの気配があった。たぶん支給される呪具に、死ぬと発動する仕掛けがあったんだと思う」
ランディは言葉を失う。
いつどこで死んでも、屍鬼として動き続ける暗殺者。任務をまっとうするために考えられた仕掛けなのだろうか。
「ダーク・ヘヴンではそんなことをするのか?」
「俺がいた頃は、そんなことはなかった。けど……」
ガルトは言葉を切った。
「哀れなものだな。死んでも働かされるとは」
ランディはそう言い捨てて歩き出した。過ぎたことにも死んだ者にも興味はないし、屍鬼と化してなお任務を続けていた暗殺者の姿は、思い出すだけで不快な気分になる。
「……まったくだ」
すぐ後ろで、ガルトのそんな低いつぶやきが聞こえてきた。
やめてくれ。
その名を呼ぶな。
夜更けの宿屋で、ガルトは一人まんじりともせず、夜の闇を見つめていた。
昼間のできごとが、どうしても頭から離れない。
雨の森に足を踏み出した時、彼にはウドゥルグを呼ぶ二つの声が聞こえていた。
一つは背後で逃亡者の男があげた、ウドゥルグに許しを乞う叫び。
もう一つは目の前で、屍鬼と化した暗殺者から放たれる、助けを求める声。
──死にたくない……助けて、ウドゥルグ様。
死の瞬間の恐怖にとらわれたまま、もはや声を発することもできなくなった身体で、屍鬼は助けを求めていた。死を統べる破壊の神の復活に尽力した者は、来たるべき世界で死を超越する。そんな教団の教えを疑うことなく信じ、死してなおすがり続けていたのだろう。
教団の創り上げた、幻想の神に。
そのさまは見ていてあまりに痛ましく思えた。おそらくは多くの人々に死をもたらしてきたであろう暗殺者の不運な末路とはいえ、どうしても放ってはおけなかったのだ。
だから彼は近づいて額の目を開き、破壊神としてねぎらいと休息の命令を与えた。屍鬼がほっとした表情を浮かべるのを待って、本来あるべき永遠の休息へと導いてやった。
欺瞞だということはわかっている。死界などありはしないのだから、最期の一瞬に与える安心など、何にもならない。まして虚構の神を演じてやる義理も必要もない。
だが他にどうすればよかったのか、彼にはわからない。
それほどに、助けを求める声は悲痛だった。
一方、その間に逃亡者の男は逃げて行ってしまった。かろうじて追っ手から逃れられたとはいえ、逃亡という裏切りをいつか──ことによれば死後──罰せられることにおびえて、これから生きていくのだろうか。
ランディの言うように、彼にしてやれることはない。破壊神の罰を恐れる必要のないことを信じさせるには、あまりに恐怖が深く根付いてしまっている。
破壊神など存在しない。それは「ウドゥルグ」のシンボルの力を持つガルトが一番よく知っている。だが一方で、存在しないものへの強固な信仰が、実際に人々を縛り付けているのだ。それが続く限り、島は教団の圧政に支配され、無意味な生贄と殺戮が繰り返される。
しかも教団の、少なくとも一部は、破壊神が虚構のものだと知った上で支配を行っている。それはガルトにとって、何よりも許しがたいことだった。
だが、どうすれば人々を信仰から解き放てるというのだろう。
ウドゥルグを呼ぶ二つの声は、ずっとガルトが抱いていた問いをあらためてつきつけるものだった。それだけにずしりと重く心に突き刺さったままである。浮かない表情は、だが、闇に隠されて見えない。
ふと思い立ったように、ガルトは音を立てずに起きあがった。窓を細めに開けてから、右手の小指にはめられていた、蛇を意匠した指輪を外し、手のひらに乗せる。指輪が淡い光を放ち、小さな銀の蛇の姿になった。かつて地下遺跡で手に入れた、破壊神の使い魔。同じ信仰の中で結び合わされてきた半身ともいうべき存在を、彼は普段指輪として身につけている。
(イーシュ、リュテラシオンの教団を探ってきてくれ)
声には出さない。だが、蛇はするりと身をくねらせて宙に浮き、窓から市街の一角に向けて滑るように飛んで行く。その行方を見送るかのように、ガルトはいつまでも窓の外の闇を見つめていた。
翌日の夜。
ランディが宿に戻ると、ガルトが待ちかまえていた。
「何かわかったか?」
「ばっちり」
ガルトは笑顔を見せる。前日は沈み込んだ様子だったが、すっかり元の快活な表情に戻っている。
「下手に急がなくてよかったよ。あの館、監視されてるみたいだ」
「そうか」
無表情にランディは答える。館に近づいた者が変死したという噂を考えれば、驚くことではない。
「リュテラシオン市街に何ヶ所か教団の拠点があって、大陸での活動拠点になってる。表に出ないようにはしてるから、そっちはまあ、気にしなくてもいいだろ」
「なぜ奴らがあの館を?」
「たぶん、あんたと同じ目的だと思う」
確証はないけれど、と前置きした上で、ガルトは続けた。
「昨日、暗殺者に屍鬼化の魔法が仕掛けられてた、って言ったろ?」
「それがどうかしたのか?」
「あのぐらいのレベルの魔法だと、何にでも仕掛けられるわけじゃない。媒体にするものにもそれなりの力がないと成功しないんだ」
「だから、媒体に使える宝石を狙っているというわけか」
目的がかち合うということは、迂闊に動けば刺激してしまうということだ。慎重に動かねばならないだろう。
ふと思いついて、ランディは尋ねてみる。
「奴らは館を開けられるのか?」
「無理だと思う」
ガルトは即答した。自分以外に館の死霊を浄化できる者がいないのを知っているかのように、ランディには聞こえる。
「大した自信だな」
「そうじゃなくて、入れるならとっくにやってるよ。監視なんてするまでもなくさ。今は誰かが開けるのを待ってるんじゃないかな」
「ならばなぜ館に近づく者を殺す?」
「うーん」
ガルトは少し考える。
「方針を変えたんじゃないかな。変死者が出たのって結構前だろ?」
確かに冒険者が相次いで変死し、ダーク・ヘヴンとの関連がささやかれたのは数年前のことだったという。それに、開かずの館を守り続けることには何の益もなかろう。
「もしそうなら、近づいただけで殺されるわけではないにしても、開けた途端に狙われそうだな」
「俺もそう思う」
ガルトも苦笑する。彼の言葉を信じるなら、開けることはいつでも可能なのだが、それは同時に一つの危険を招き寄せてしまうことにもなるわけだ。
「まあ、憶測だけどな。俺がつかんだのは、リュテラシオンの拠点の規模が大きくなってることと、館を交替で見張る島の暗殺者がいる、ってことだけだ」
理にかなった推測ではある。同時に、推測の通りであれば身動きのしようがない。
「教団ってのは、邪魔者はみんな殺すのか?」
「基本的には、任務の障害になればね。けど、この町で正体をばらしたくはないから、大がかりなことはしないように司祭が統制してるはずだよ」
「障害にならなければいいのか?」
「……手を組むつもりなら、やめといた方がいいぜ」
見透かされている。
ランディは内心苦笑しつつ、ガルトの次の言葉を待った。
「館を開けて利用価値がなくなったとたんに消されるのが落ちだ。それに奴らと組むなら、俺は協力できない」
今のところ、館に入るべく死霊を浄化できる見通しがあるのはガルトだけだ。どれだけ信用に足るのかわからないが、少なくとも見も知らぬ破壊神の信徒よりは頼りになる。
「ならば、奴らが立場上殺すわけにいかない連中を巻き込むのはどうだ?」
「どういうこと?」
「リュテラシオンの行政府を使う。ここに潜伏している以上、役所に手を出せば表沙汰にならざるを得んだろう?」
「そうだなあ」
ガルトは思案顔で首をかしげた。
「確かに行政府には手は出さないだろうけど……具体的にどうするわけ?」
「館の死霊退治を、行政府の主催で公開する。腕に覚えのある者が集まって、死霊の浄化に成功すれば賞品として館の財宝の一部をもらえるような催し物にするんだ」
「行政府は乗ってくるかな?」
「郊外に死霊の館があるのはイメージが悪いし、なにより人の近づけない場所の近くには人前に出られない奴らが集まりやすい。役人の発想で言えば、治安の上からもあの館を放置しておきたくはなかろう。それに、大陸北部で噂になっているぐらいだから、あの館に関心を持っている奴は多い。奴らのように誰かが開けたあとを狙っている連中も少なくないだろう。祭りの人集めにはちょうどいい」
「なるほど……」
ガルトはうなずく。
「もっともこれは、おまえが確実に死霊を浄化できなければ計画倒れなんだが」
「あー、それは大丈夫」
ガルトの自信の根拠は知らないが、たとえ失敗しても教団に目をつけられる危険を最低限に抑えたつもりである。他に死霊を浄化できる者が現れる可能性もないわけではないが、あの濃密な死霊の気配を思えば、そう心配することもないように思われた。
「たださ、ちょっといいかな?」
「なんだ?」
「俺が浄化するところを、奴らに見られたくないんだ」
「ふむ……」
ランディは考える。確かに、元暗殺者のガルトが教団の目のあるところで表舞台に立つのはまずかろう。
公開の場で、だが目撃されずに済む方法。
「わかった、何か方法を考えよう」
「行政府にはどうする?」
「明日俺が行く」
ランディは答え、左腕にはめられている腕飾りを示してみせる。
「恐らく、これが役に立つ」
ノルージ家当主の証。エテルナ公国の侵攻から小国ケイディアを守り、国王の信任を得て来た一門の名は、エテルナのみならず周辺地域にも知れ渡っている。エテルナに隣接するこのリュテラシオンでも、身元を保証する程度の効果はあるだろう。
十日後。
館の死霊退治コンテストが、越年の祭りの一環として開かれた。むろんランディの交渉によって実現した催し物であるが、館の存在に頭を痛めていた当局は予想以上に積極的な姿勢を見せ、魔術研究院から審査員を揃えるほどの本格的なものとなった。
審査員の前で参加者が順番に浄化に挑戦する。挑戦の前後で死霊の気配を審査し、死霊を弱めた度合によって得点が与えられる。死霊を完全に浄化できた場合は、館から回収された宝石の中から得点に応じて賞品が分配されることになっている。
祭りなだけに人出も多い。長年誰も手を出せなかったいわくつきの館に挑戦しようと、かなりの数の魔術師や霊媒師が参加を申し込んできた。教団の暗殺者も混じってるぜ、と、ガルトが小声で教えてくれる。身につけた呪具の意匠で判断できるらしい。
既に審査は始まっている。参加者用にしつらえられたテントの中にも結果を発表する声が聞こえてくるが、ほとんどの参加者は死霊を弱らせることもできないようだったが、ごくまれに少しだけ弱らせることのできる者もいて、そのたびに観客から拍手が起こっている。
「大丈夫か?」
ノルージ家の当主としての正装に身を固めたランディが尋ねる。ケイディアに伝わる鎮魂の剣舞を舞い、その陰で助手に扮したガルトが死霊を浄化することになっていた。
「ああ、心配するなよ」
すぐに答えが返ってくる。ケイディア風の長めの服をまとい、目深に帽子をかぶった姿は、一見するとガルトには見えない。
参加者番号が呼ばれ、ランディはガルトに魔剣を手渡して立ち上がった。
館の前には舞台が設けられ、その後方に審査員の机が並ぶ。そしてその周囲を観客が取り囲んでいた。リュテラシオンの住人だけでなく、遠方からやってきたとおぼしき格好の観客もいる。たかだか十日前に立ち上がった企画の割にここまで広まったのは、館の噂がそれだけ有名なためだろう。
観客の間の通路をランディは進む。後に剣を持ったガルトが続いた。帝国と接していない小国ケイディアの衣装が珍しいのか、物見高い人々の視線が一斉に集まる。
舞台に上がったランディは、観客に向けて優雅に一礼し、ガルトから剣を受け取った。
(せいぜい派手に目を引きつけてやる)
魔剣をすらりと抜き、鞘をガルトに渡す。ガルトはそのまま舞台隅に膝をつき、控えの姿勢をとる。
剣を高々と掲げ、ぴたりと止めた。
ノルージ家の剣舞は、王の前で披露することが許されている由緒正しいものだ。現在、この舞を舞うことができるのは、ランディただ一人である。
ランディは剣を構えた。
ゆっくりと一歩踏み出し、そして。
瞬間、動に転ずる。ほとばしり出る水の奔流のごとく流麗に、次々と構えの型をなぞっていく。
観客席からどよめきが起こる中、ランディの動きはいささかもよどみがない。
これが、魔剣を御し、ケイディアを守ってきた当主の証だ。ケイディア王の前でなくとも、その誇りは失われていない。
それだけではない。
(この舞が、あいつは好きだった)
思い浮かぶのは、裸足でたたずむ少女。男に生まれてノルージ家に入門したかったと言ってはばからない、気丈な娘。兄に気兼ねして当主の補佐に甘んじようとしていたランディを叱咤し、支えてくれた。
誰よりも大切な相手。
その彼女は生きながら魔剣の宝玉にされ、今も苦しみの声を上げ続けている。
彼女を宝玉に変えた実の兄を倒し、彼女を救う。ランディはそのためだけに生きている。どれほどの血を流そうと、どんな犠牲を払おうと、それだけは自分の手でやらねばならぬ。当主の正装も、由緒正しい剣舞でさえも、その手段の一つに過ぎない。
だが、彼女が好きだった剣舞は、嫌でも彼女を思い出させる。剣をきらめかせ、足を踏み出すごとに、彼女の面影が浮かぶ。
それは、あたかも彼女に捧げる舞のようであった。完璧な型の連続は、だが、どこか抑えがたい悲しみを感じさせるものとなり、見る者を魅了した。ざわめきはいつしか静まり、誰もが彼の舞を見つめていた。
舞の最後に、剣を高々と振りかざし、鎮魂の句を唱え始める。ガルトと前もって示し合わせておいた合図だ。
句を唱え終わり、剣を一気に振り下ろす。
その瞬間起こったことを、ランディは生涯忘れはしなかった。
身体の中を何かがぞくりと駆け抜けていったかのような気がして、ランディは凍りつく。
何が起きたのかはわからない。だが、何かが起きたことだけは確かだった。
世界がすっかり変わってしまったかのようにさえ感じられた。
彼だけではない。観客席も審査員席も、すべてが静まり返ったままである。
(これは……なんだ?)
あたりが一瞬だけ、何者かの意志に完全に支配されたかのように思われた。従わぬ者の存在を微塵も許さない厳然たる意志が、館の周囲を覆い尽くした。
いや、意志というにはあまりにもそれは揺るぎのないものだった。
理(ことわり)。
そんな言葉が浮かぶ。いささかの過ちも存在し得ない、峻厳な条理に支配された世界。
だが、そんなことが起こりうるのだろうか。
剣を振り下ろした姿勢のまま、ランディは立ちつくしている。
(おい、ランディ!)
せっつくように背後からかけられた小声に、ランディははっと我に返った。観客の方を向き、一礼して見せる。観客もそれで現実を取り戻したらしい。少しずつざわめきが戻り始めた。
舞台上でランディは、ちらりと館に目を向ける。そこにあるのは、ごく当たり前の古びた建物だった。先刻まで立ちこめていた死霊の気配が、まるで冗談だったとでもいうかのように消え失せている。あの一瞬は、死霊には長すぎたのだ。
誰がしたことなのか、彼は知っている。だが、そんなはずはなかった。これは、人間の及ぶ領域ではない。
彼はゆっくりと、そこに目を向ける。
舞台隅で、魔剣の鞘を捧げ持ったまま控えている男。観客を背にちらりとこちらを見上げ、片目をつぶって見せた様子には、普段と何一つ変わるところはなかった。
館はその後、行政府によって管理されることになった。館の主の死後初めて開かれた扉の奥に眠っていた宝石の数々は、当局の手によって処分あるいは保管され、リュテラシオンの財政を潤した。
ランディは狙い通りに宝玉を手に入れていた。最強の、とは言い難いが、これまでではもっとも満足のいく強さの宝玉である。ケイディアの魔剣士に一つ余計な伝説を加えてしまったのは致し方なかったが、それを差し引いても十分な収穫だった。
「よかったな、宝玉手に入って」
ケレスへ戻る船の中、ガルトがいつもの笑顔で話しかけてくる。衆目を避けるため、あのコンテスト以来二人は別々に行動し、三日後にランディが賞品を受け取ってから船で落ち合ったのだ。
「そうだな」
ランディはそれだけ言う。あの時のことを尋ねたい気がないわけではなかったが、おそらく答えは帰って来ないだろう。
「それで、これからどうするんだ?」
「しばらくは、ケレスを拠点に死霊を集めるつもりだ」
「そっか」
しばし会話が途切れる。ランディは船室の壁を彩る花飾りに目をやった。新年を祝う、レーギスの習慣である。
ややあって、ガルトが切り出した。
「もう少ししたらさ、俺、島に戻ろうと思う」
「……」
ランディは目を上げ、無言で続きをうながす。
「結構やり残してきたことがあってさ。リュテラシオンで船に乗るつても見つけたし、図書館の仕事が済んだら行くよ」
「そうか」
「それでさ、昔あの島に興味あるって言ってたろ?」
ランディは腕を組み、考える。破壊神が君臨し、暗殺者が屍鬼と化す魔の島で死霊を集めるのは、悪い考えではないように思えた。暗殺者に目をつけられる危険はあるが、ガルトがいるのなら切り抜けられるだろう。
それに何よりも、ガルトを監視しておきたい。
あれだけの力を指一本動かすことなく放ち、平然としていたガルト。秘術によって死霊を呼び込む宝玉に変えれば、想像を絶する強さになるのではないか。それをむざむざ見逃すのは、あまりにも惜しい。
ランディは手に入れたばかりの宝玉を指し示しつつ答えた。
「ああ、こいつに死霊を集めねばならんからな」
「わかった。じゃあケレスにいる間にいろいろ教えとくよ」
ランディの隠された意図を知らないガルトの笑顔は、いかにも屈託のないものに見えた。
「おまえ、結構お人好しなんじゃないか?」
思わずそう口にしてしまう。
が。
「……どうだろうね」
意に反して、ガルトはにやりと口の端に笑みを浮かべてみせた。先刻の笑顔から一転して、底知れぬ雰囲気になる。もともと表情によって雰囲気がかなりはっきりと変わる顔立ちではあるが、思わず気圧されてしまったのは、あの館の死霊を浄化した力を垣間見てしまったせいだろうか。
「世話好きなのは認める。けど、俺も自分のためにならないことまでする気はないから」
「ならばなぜ、館の浄化を手伝った? おまえになにか利益があったとでも?」
「あんたに貸しを作っときたくてさ」
「……」
ガルトのあっさりした答えに、ランディは一瞬ぽかんとし、思わず笑い出す。
「なるほど、俺は恩を売られたわけか」
「高く買ってくれよな?」
「さて。仇で返すかも知れん」
「それは、ないと思うな」
「……なぜ?」
「目的がはっきりしてて損得で判断するタイプって、行動がわかりやすいんだよ。あんたにとって俺は利用価値がある。だからむやみに損なうわけにはいかない。違う?」
ランディは黙り込む。確かにその通りだった。今回の一件で、ガルトには思った以上の利用価値があると確信したのだから。それ自体がガルトの目的だったとするのなら、ランディはそれにまんまと乗せられていたことになる。目的を首尾よく果たしたとはいえ、何だか面白くない。
「……なぁんてな、嘘だよ」
突然、ガルトはいたずらっぽく笑って見せた。
「?」
「死霊を放っておけなかったってだけだよ。前にも言わなかったっけ?」
まだ、人格が分かれていた時、死霊を浄化するかランディに手を貸すかで迷い、結局ランディに手を貸したことがある。おそらくはその時のことを言っているのだろう。
「……なら、やっぱりお人好しじゃないか」
そうまぜかえすのが、すっかりガルトのペースに乗せられてしまったランディの、せめてもの反撃だった。
それでも、どちらも必ずしも嘘ではないのだと、ランディは思う。まったくの計算ずくでも、まったくの善意でも動くことはできない。ガルト・ラディルンという人間がそこまで極端にはなりきれないことを、彼は見抜いている。だからこそ、信じがたい力の片鱗を見せたガルトにも、普段通りに接することができる。
利害の関係しないところにまで深入りするような情は持ち合わせていないし、互いに必要となれば利用し、あるいは排除することをためらわないだろう。そんなガルトとの、常に軽い緊張感を伴う関係は、だが、ランディにとって決して嫌なものではなかった。
(end)