「王は臣下に王として扱われて初めて王となる」

 第四章1「軋轢」で、ユジーヌ司祭長がエッカート司祭に言った言葉。この元ネタは、マルクスの『資本論』です。

 引用すると
「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して 臣下 としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは 臣下 なのだとおもうのである。」(カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳,国民文庫,1972年,P111)
 権力は権力者の側に備わっているのではなく、ある存在を「権力者」とみなして服従することによって生じる、ということ。

 つまり権力ってのは、ある種の関係なんです。でもって、関係を取りむすぶ双方がその関係を望んでいなくても、あるいは、一方が意志すら持っていなかったとしても、もう一方によって関係は成り立ちうるわけ。そんな関係を求め、成り立たせるのは、権力者の側とは限らない。単なる記号に権力を与えたのは、恐怖に思わず従ってしまった一般民かも知れない。教団はその恐怖を利用し、破壊神の代行者としての権力をふるってきた…ってこと。

 ユジーヌが『資本論』を読んでいたわけはない(いくらなんでも『資本論』をたずさえてあの世界に飛ばされ、翻訳した人の話なんか書けないし)けど、人の世の権力のからくりを見抜く人は、たぶんファンタジーな異世界にもいると思うので、そういう誰かが書いたものの一節なのでしょう。

 (ていうかそこに突っ込んでしまうと、私の書くキャラって(古代にゃ珍しかっただろう)近代精神の体現者というか、主体性を持った合理主義者ばっかりだから、いろいろ成り立たなくなってしまうものがあるのです。このいびつさを保つためにファンタジーにしてるんで、見逃してやって下さい)