「シニフィエ」ってなーに?


 タイトルの「魔の島」はまあ舞台となる島だとわかってもらえるとは思うんですが、じゃあ「シニフィエ」とは一体? てな疑問もあるかと思います。この小説読む人のどれくらいがこの言葉を知っているのか、全然見当がつかない(少なくとも今まで感想を下さった、オフラインでの知合いの方々は知らなかったみたい)ので、最低限の説明をインデックスに載せてはいたんですが、もうちょっと補足など。

 ただまあ、知らなくても不都合はないと思います。読んでかえって混乱したらごめんなさい。さらに興味をもたれた方は、丸山圭三郎『言葉とは何か』(夏目書房刊)などを読んでみるといいかも。

 

 第四章4「裏切りと背信の司祭」で、ユジーヌが教皇に、記号がどうのと語る場面があります。ちょっと再掲してみましょう。


 「封印? あれはただの記号であろう?」
 「ええ、記号です。生命の流れを象徴すると言われる……。ですが我々の知る『ウドゥルグ』という記号はただの音の羅列もしくは図形であって、生命の流れそのものではないのですよ」
 「記号になっている図形とその記号によって示される意味は違う、ということか」
 「記号魔法は様々な図形から力を引き出します。ある図形を記号とし、そこから力を引き出すことができるのはなぜか、考えてみたことはおありですか?」
  教皇はおし黙る。記号魔法は彼にとって、暗殺者に覚えさせるに適した技術のひとつに過ぎなかった。その原理など、現役を引退し、魔法の研究を行なっているロルンにでも任せておけばよいことだったのである。
 「図形は意味を与えられることによって記号となり、世界に満ちる力と術者を結び付け、力を引き出す媒体となるのです。個々の記号はべつにその形でなくてもかまわないようなものなのですよ。力と結び付くような意味さえ持っていれば、ね」
  「……」
  島外には様々な魔法の体系があり、記号魔法と同じ効果を別のやりかたでもたらすものも多いということはわかる。だが、教皇にはユジーヌがことさらに「意味」を強調する理由がわからなかった。意味を持つ記号がある、それ以上に何を考えねばならぬというのか。なぜわざわざ記号を二つの側面に分けて考えようとするのか。 ユジーヌはそんな教皇の心を読み取ったかのように続ける。
  「では、記号を記号として成り立たせるのは誰ですか?」
  「誰……だというのだ」
  「人間のあつまり、ですよ」


 ここにかなり集約されてたり。

 言葉という記号(シーニュ)は二つの側面から成り立っています。音声の連なり(「ぶ」「た」という二音とか)と、その音声の連なりから想起されるもの。前者を「シニフィアン」、後者を「シニフィエ」と言います。

 じゃあ、記号を二面から見ればいいかというと、それだけじゃまだ単純すぎるんです。

 たとえば「ぶた」って聞いて、生きている豚を思い出した人もいるだろうけど、切り身の豚肉を思い起こした人もいるんじゃないでしょうか。
 では「ぶた」を英語で言ったら?
 pigは豚肉をあらわさないし、porkは生きている豚のことじゃない。
 ってことは、「ぶた」というシニフィアンはpigともporkとも違うものを指示してるってこと。
  言葉はあるものを指示する名前じゃない。ちょうど表があって初めて裏があり、裏があって初めて表がある(けれどどちらかが先に存在することはできない)ように、シニフィアンとシニフィエの関係によって成り立つのがシーニュなんです。
  だから「豚を英語で言うと?」という問いは、実はひどく難しいんです。それは、ある社会で物事を分類して記号を与えるやり方と、別の社会でのやり方は異なっているってことだから。

  ある社会での、記号によって物事を分類する規則の体系を「ラング」といい、そうやって物事を分類して記号化する能力を「ランガージュ」といいます(「パロール」という用語もこの話をする時には出てくるものだけれど、「パロール」は特定の個人が発した具体的音声の連続のこと)。ラングの体系は簡単には変わらない(不易性)けれど、世代を通じて少しずつ変わっていく(可変性)。
  たぶん「ぶた」が食肉としての豚肉を表わすようになったのは、日本人が豚肉を食すようになってからなんでしょうが、今日明日にいきなり「食肉としての豚をこれから〜〜と呼べ」と言われたってすぐに人々の概念が変わるわけじゃないってこと。
 それを維持し、あるいは世代を経て変えていくのは、その言葉でその概念を思い起こす人々です。どんな言葉であろうと、ある意味を持つものとして使われなかったらそういう意味にはならないし、そういうものとして使うのは人々ですから。
 (ラングにのっとって発せられたパロールの集積がラングをつくっていく…だから、ラングは容易には変わらないけれどだんだん変わっていく、ってわけです)

 「魔の島のシニフィエ」の「シニフィエ」はだから、「ウドゥルグ」というシニフィアンによって思い起こされるもの…破壊神のち生命神のことだったんですね。ガルト(の身体)はその関係の接点に立たされたシーニュ。この小説が「ファンタジー」なのは、ただ一点…魔法にも用いられるシーニュに同一化した人間の存在…だけじゃないかと思っています。

 

 それにしても。
「シニフィエ」でgoogle検索かけるとなぜかここが一番にヒットします。
 いやー、こまったな。
 トップページ以外は検索よけのタグをはってある(なんかまずいことがあるわけじゃないけれど、同じ小説の各ページがいちいち検索結果に並ぶのが気恥ずかしいので)し、トップページにだって検索サイト2つ3つぐらいからしかリンクしていないはずなのに、なぜなんだろう…。曲解してるつもりはないけど、ソシュール探してオンラインファンタジー小説に来てしまった人にはなんだか申し訳ない気がします…。