魔の島のシニフィエ

[戻る][進む][インデックス]


第一章 復活の声

 鐘の音が町に鳴り響く。
 人々は仕事の手を休め、ふと空を見上げる。
 真夏にしては弱々しい北の国の太陽が、もっとも高い位置に輝く。はるか昔に封印された破壊神が眠ると言われるこの島――破壊神の復活を願う教団の司祭達に支配されるこのヘスクイル島にも、太陽は分け隔てなくその恵みを与えているのだ。
 鐘の音は町の中心に立つ聖堂のものだ。今日は月に一度の例祭の日だから、鐘の音と同時に破壊神に捧げられた犠牲はいつもの動物ではなく、くじで選ばれた誰かの赤ん坊だろう。生後三年以内の乳幼児の首が、破壊神「ウドゥルグ」の像の前で切り落とされるのだ。
 だが、破壊神に忠誠を誓う信徒でない人々は、鐘の意味をそのようには捉えたがらない。
「もう昼か……」
 彼らにとって聖堂の鐘は、時刻を知る手段に過ぎぬ。そう思わなければ、到底この国では生きていけない。
 この国の政治も経済も、思想さえも支配している「ウドゥルグ教団」。彼らが望むのは、破壊神の復活。破壊神「ウドゥルグ」が復活する時、世界は死と破壊に覆い尽くされると言われている。そして、復活に尽力した者だけが生き残り、破壊神のもとで死をも超越した存在になる……それを信じる信徒達は像に生贄を捧げ、復活を願う。
 無論島民すべてが熱心な信徒ではない。表向き信仰を強制されてはいるが、死と破壊の覆う世界など望んでいない者も多い。だが彼らは司祭達に目をつけられ、生贄に捧げられたり殺されたりすることのないように、目と耳と口をふさぎ、ひっそり目立たずに生き延びていくことで、一見平和な日常を守っているのだ。
 このシガメルデの町も例外ではない。
 そんな、いつもと変わらぬ夏の正午、それは起こった。
 鐘の音が余韻を残し、やがて消えた、次の瞬間。
 ……否。
 次の瞬間は、彼らには用意されていなかった。

 何が起きたのかを理解した者はいなかった。
 すべての生命が失われた。生命あるものすべてが、その活動を止めたのだ。
 何の前触れもなかった。
 火がついたように泣き叫ぶ子どもも、その子どもをかばう母も、武器を取って外に駆け出す若者もいなかった。
 家の屋根裏から一目散に逃げ出すネズミも、慌てたように飛び去る鳥も、不安げに遠吠えする犬もいなかった。
 ざわざわと不吉な音を立てて梢を揺らす木々も、雲のごとく空を覆いつくす虫の大群も、不気味な地響きとともに動き出す巨大な地竜の姿もなかった。
 ただ、死の静寂のみが、そこにあった。
 空から黒い塊がばらばらと降ってくる。空中で災禍に遭った鳥たちだ。
 池の表面は、魚の腹で白く覆われた。
 梢を飾る白い花が、とどまる力を失ってはらりはらりと落ちていく。
 そして、そこかしこに倒れる人々。苦痛はなかったのだろう。一様に眠るような表情をしている。だが、息のある者はいない。
 死の世界が、どこまでも広がっている。ただ太陽だけが、先刻と変わらずに中天にあって輝く。
 常識ではありえない、異様な事態だった。
 生命がこの地域にのさばることを、なにものかがふとした気まぐれで拒絶したとでもいうような、そんな光景だった。

 その事件は「シガメルデ壊滅事件」と呼ばれた。
 ヘスクイル島の南西部にあり、森林地帯に近いためか美しい木造建築の多いことで有名だったシガメルデの町と周辺の三つの村の生命が、一瞬のうちに死に絶えた事件。
 原因は一切不明である。生き残った者が皆無である以上、調べようもなかった。教皇・ベルレン八世は調査命令すら出していない。幸運にも上級司祭の中に犠牲者がいなかった……というのがその理由だという。
 人々の中には、いよいよ破壊神が降臨したのだ、と脅える者もいた。だが教皇達にそれらしい動きはない。その後同じような事件が起こらなかったことから、破壊神の噂は立ち消えになっていった。シガメルデの聖堂を中心とした円形に壊滅した様子から、聖堂で下級司祭か暗黒魔術師が召喚実験でも行なったのではないかという者もいるが、真相を知る者はおらず、やがて人々の口にのぼることもなくなっていった。
 災禍に見舞われた地域では、その後長い間、雑草すら生えず、人々も……獣も近寄ろうとしなかった。

 ヘスクイル暦687年のことである。


[戻る][進む][インデックス]