魔の島のシニフィエ

[戻る][進む][インデックス]


第一章 復活の声

1 暗殺者の帰還

 最近のこの町は、ひどすぎる。
 ゲイリー・クランジェは客用のテーブルを磨きながら、ふとそう思った。
 昔から住みやすい町ではなかった。寒く、長い冬。吹き荒れる風。徘徊する屍鬼。そういったきびしい環境に加えて、破壊神を崇める者達。生まれてくる子どものおよそ一割が、月々の儀式の生贄として首を切り落とされ、幼い生命を断たれる。その時期を生き延びたとしても、うかつに信徒や破壊神を批判する言葉を洩らせば、教団の暗殺組織「ロルン」に狙われることになる。この島で、無事に天寿をまっとうするということは、なかなか困難なことだった。
 かといって、島から脱出することは容易ではない。海を渡り、他国へ行くことのできる船には、司祭達の手によって厳しい監視がなされているからだ。
 しかも、最近一段と監視の目が厳しくなっている。例祭での生贄の数が増やされ、対象年齢も生後三年未満の赤子だったのが、五歳未満、すなわち、学校にまだ行っていない子どもすべてに広げられた。
 学校では破壊神を崇拝する信徒の教師によって思想教育が行われる。信徒と一般民の格差が広げられ、一般民は圧迫された生活を強いられている。税率、居住区域、教育……あらゆる局面において、一般民は不利な立場に立たされている。その一方で信徒は生活に困ることのないよう保障されている。
 数の上では圧倒的多数を誇る一般市民は、しかし「ロルン」を恐れて抵抗することができない。「ロルン」は島外の暗殺も請負うほどの実力を持つ。身を守るすべを持たない一般民に、どうやって太刀打ちできようか。
 脱出も抵抗もできず、ただ忍従するだけの一般民。無論、すべてがそうなのではない。中には生きるために破壊神への忠誠を誓い、多額の寄付を払って信徒となる者もいる。生まれたばかりの子どもを「ロルン」に入れることで、地域での評判と引き換えに信徒に準ずる地位を得る親もいる。あるいは逆に、島外への命がけの脱出を試みる者もいる。
 島外への脱出は、単独では不可能である。他国へ行き着けるほどの設備と食料を積んだ船は二種類。国外の暗殺を請負う「ロルン」の船と、島では手に入らぬ物資を調達するための商船だ。「暗黒大陸<ダーク・ヘヴン>」と呼ばれ、破壊神の島として恐れられているこの島に立ち寄る船はない。商船も国名を偽り、幾重にも偽装をこらした上で初めて交易が可能なのだ。
 二種類しかない他国への船のうち、「ロルン」の船には「ロルン」の暗殺者と信徒の船員しか乗ることができない。だが、商船ならば船員や商人に変装して乗りこむことが可能だ。乗船者の資格を示す証明書がなければならないので、脱出者はどこかに隠れ住む「渡し」を頼ることになる。「渡し」は依頼者が船に乗りこむための証明書の偽造、商人になりすますための衣服や道具といった手筈を整えてくれる。信徒に見つかれば死罪というだけあって、依頼料は通常かなりの額になる。
 ゲイリーはその「渡し」だった。「だった」と過去形なのは、監視が厳しくなったここ数年「渡し」の仕事ができなくなっていたからである。酒場の主人という表向きの顔で生活はできるものの、信徒への反感から裏の仕事をするに至ったゲイリーにとって、仕事ができないということは、信徒に屈しているようで憤懣やるかたない。
 ともあれ、最近のこの町……いや、この港町ドリュキスだけではない。ヘスクイル島全体が、一般市民にとってますます住みにくい地となっていることは確かだ。
 破壊神の降臨は近いと、信徒達は言う。ならばなおのこと、こんな島から人々を脱出させてやりたいのだ。それなのに……。
(破壊神……ほんとに降臨なんてしやがるのか?)
 破壊神と言えば、思い出すことがある。
 シガメルデ壊滅。あれは七年ほど前のことだったか。シガメルデから遠く離れたドリュキスでも、破壊神が降臨した、世界の終わりだ……という噂が流れた。結局噂は立ち消えになっていったが、あの頃から少しずつ、島の状況が悪化し出したような気がするのだ。
 何かが知らないところで起こりつつある。
 確証はないが、そんな不安がゲイリーの頭から離れることはない。
 が。
 思うことはいろいろあれど、ゲイリーの手はテーブル磨きに余念がない。店の共同経営者であるトーマスが仕入れから帰ってきたら、料理の下準備にかかるのだ。「渡し」の仕事がなくても、忙しいことに変わりはない。
 ゲイリーはいつものように清掃を終え、道具を片付けるために、裏口から外に出ようとした。
「おっさん、出ちゃだめだ!」
 突然そんな声が聞こえた。振り向くと、店の入口に立つ青年と目が合う。
「お客さん? 酒場は準備中だよ」
 店の扉には「準備中」の札をかけていたはずだ。そう思いつつ、ゲイリーは手に持ったモップとバケツを示してみせる。
 だが、青年の反応は予想外のものだった。
「そうじゃない。今裏から出たら、あんた死ぬぜ」
「なに?」
 ゲイリーは掃除用具を置き、青年をじろじろと見る。
 二十歳を少し過ぎた頃だろうか。闇のように黒い髪は長く、後ろで一つに束ねている。同じように闇色をした目は鋭い光をたたえてはいるが、ぎらぎらした危険な鋭さではない。なにか強い意志を秘めているような、そんな目だ。そして、額の中央にほくろが一つ。
「まてよ……おまえ」
 ゲイリーはこの青年に見覚えがあるような気がした。
 この顔立ち、額のほくろ……。
「……ガルト? ガルトなのか?」
「あ、覚えててくれた?」
 ちょっと笑ってみせた表情は、確かにゲイリーの知っているものだった。
 七年前にゲイリーが島外に脱出させた少年。名をガルトという。この島には珍しい闇色の髪と、同じく闇色の強いまなざしが、ゲイリーの記憶に刻み込まれている。

 あれは、シガメルデ壊滅のしばらく後のことだったか。夜遅く、閉店直後の店の扉を叩く音に、ゲイリーが出てみると、そこにガルトがいた。ぼろぼろにやつれきった格好で、目だけが警戒心にぎらぎらしている。壁にもたれたまま、彼は口の端をつりあげてちょっとだけ笑って見せた。
「頼みが……あるんだ」
 きれぎれに、彼は言う。
「この島から出たい……『渡し』を知っていたら教えて欲しいんだ」
「一体……」
 酒場の客だったこともある彼が、実はロルンの暗黒魔術師だということを、ゲイリーは知っている。ロルンの魔術師でありながら、破壊神の復活を信じていないことも。破壊神のためにすべてを投げうったり、人の命を奪うことを何とも思わなかったりといった信徒のイメージから、彼は随分とかけはなれていた。他の信徒達とは違う、健全な精神が彼には宿っていたのである。だからこそ、ロルン内の立場は危ういものだったろうと、密かに案じてはいたのだ。ガルトの所属するのが、ロルンのシガメルデ支部だったため、壊滅に巻き込まれたのではないかという心配もあった。
「大丈夫か?」
 閉店後の店に招き入れ、熱いミルクを出す。幾分ほっとした顔で飲む少年の顔は、まだ幼さを残している。
「それにしても、ひどい格好だな」
 ゲイリーはあらためて、少年のやつれきった姿を眺める。
「おまえ、まさかシガメルデから歩いて来たのか?」
 シガメルデ、という単語に、やせた肩がぴくりと反応した。ややあって、彼はうなずく。
「どうしたんだ? その……」
 ゲイリーは周囲をはばかるように見回し、小声になって尋ねる。
「ロルンにいたんじゃないのか?」
「……」
 長い沈黙が落ちた。
 うつむいたガルトのきつくかみしめた唇は、何かを耐えているように見えた。
「……俺、もう、あそこにはいられない。この島にも……」
 かぼそい声でやっとそれだけ言うと、ガルトは黙り込む。動かぬ表情が、どんな嗚咽よりも痛切に見えた。
 何があったのか聞くことは、ゲイリーにはできなかった。ガルトの態度から、彼がシガメルデ壊滅の謎を知っているらしいことや、シガメルデ近辺の村に住む家族も、壊滅事件に巻き込まれたらしいということはわかったが、それ以上聞き出すには、ガルトの様子はあまりに痛ましすぎた。
 何も聞かずに島から送り出して七年。もう二度と会うこともないと思っていた。

 その彼が、帰って来たのだ。


[戻る][進む][インデックス]