魔の島のシニフィエ

[戻る][進む][インデックス]


第一章 復活の声

4 罠

 その後数日は、なにごともない日が続いた。
 次の集会では、ジュールの隣にジーンが座っていた。アリスの勧めで、ジュールは常にジーンと行動を共にするようになっていたのである。情報収集する時間のなくなったジーンにかわって噂話を集め、報告するようになったのはガルトだった。この役目はいわば新参者に与えられるものであり、信頼するに足るかを試される機会でもある。つまりジーンはジュールの信頼を得たということになる。
 ジーンの座る位置で、アリスが口外したことはガルトにもわかったらしい。今日のガルトは、最初からアリスの方を見ようとしなかった。
 アリスはジーンが心配だったので、なにかにつけてジュールのそばにいるように心がけていた。一日のほとんどの時間、ジーンを眺めていられる。それだけでアリスは嬉しかった。そのおかげですっかり忘れていたが、ガルトの姿を見かけると、先日の口論が思い出されてならない。冷静になってみれば、なにをあそこまでつっかかる必要があったのだろう。アリス自身にも思い出せない。ともあれ、その結果アリスが取った行動は、明らかにガルトの気分を害するようなものであったはずだ。
「例の事件ですけど……」
 幾分不機嫌な声で、ガルトは報告を始める。
「島内の各地で一日おき程度に起きています。事件の様子は以前の報告と変わりません。また、この事件で信徒の支配意義に疑問を抱く人々が増えつつあるようです」
「ふむ……どのように?」
「破壊神が本物なら、信徒達は今まで嘘をついていたのか。あるいは、偽物なら、なぜ本物の破壊神が怒って出て来ないのだ……といったものですね。いずれにせよ、信徒達が支配の根拠にしていた破壊神のイメージが崩れつつあることはたしかなようです」
「信徒の動きは?」
 いつものように、ジュールが尋ねる。
「……さあ。俺は礼拝には出ていませんから。町なかでは目立った動きはありませんがね」
 ジーンはいつも礼拝にまで潜り込んで調べていた。それすらできないのか、と、アリスは思う。 
「それから」
 意味ありげに、ガルトは言葉をついだ。
「ひとつだけ、ゲインで今までと違うケースがあったようです」
「ふむ?」
「……夜、屍鬼に襲われかけた人を破壊神が助け、屍鬼を消し去った……と」
「な……っ?」
 思わず声を上げたのはジーンだった。ジーンだけではない。その場にいた誰もが驚いた顔を見せている。ドリュキスから遠く離れた北西の町、ゲインでの奇妙なできごとは、まだ彼らの耳には届いていなかったらしい。
 屍鬼は破壊神の力でよみがえった死体と言われる。死をつかさどる破壊神の力が屍鬼をあやつり、それゆえに屍鬼を倒すことはできない。司祭達はその方法を知っているのかも知れないが、平民には知らされていない。
 つまり、屍鬼を消し去ることができる者がいたとしても、その者が平民を助けることなどありえないはずなのだ。まして、破壊神がそのようなことをするはずがない。
「まさか」
「見間違いではないのか?」
 誰からともなく上がった声に、ガルトは答える。
「今のところはわかりません……が、もし見間違いでなければ、また同じことが起きるでしょうね」
「うむ……」
 誰もが困惑していた。
 どこかで確実に、何かが起こっている。それなのに、何が起きているのかは謎に閉ざされたままなのだ。 
「ともあれ、はっきりしていることは、この事件を表立って止めようとするものがまだいないということです」
 ガルトはそう締めくくって報告を終えた。
 そうなのだ。
 信徒に目立った動きがない以上、事件はまだまだ続くだろう。事件の首謀者が本物の破壊神の怒りに触れない限り。だがそのような兆候すら見あたらぬ。
 事件は人々の心を揺るがす。破壊神を恐れ、信徒に屈してきた人々に、一つの思いを芽生えさせている。
 ……信徒のかかげる破壊神こそが、いつわりの存在なのではないか……。
 アリスは不安だった。戸惑っていた。破壊神とは一体何なのか……いままであたりまえのように思い、深く考えようとしなかった疑問が、彼女の心に芽生えていた。
 だが、それがわかった時、何が起きるのだろう。人々は、信徒は、どうなっていくのだろう。
 もの思いにふけりそうになる自分を現実に引き戻そうとするかのように、アリスはひとつ頭を振り、そっとジーンの方を見やる。ジーンはいつもの柔和な表情で、次の報告に耳を傾けている。先刻の動揺ぶりは、アリスにとって初めて見る姿だったのだが、今はその片鱗も見られない。
(ジーンでも驚くことだったんだなあ……) 
 彼の意外な一面をみた思いがして、おもわず嬉しくなった。
 
 集会後。人々が数人ずつかたまって帰りかけていた時である。
「ねえ、アリス」
 ジーンが話しかけてきた。
「頼みがあるんだ、聞いてくれるかな?」
「頼み?」
 ここ数日、ほぼ一緒に行動していたのに、わざわざ人前で頼みごととは、どういうことだろう……アリスは少し首をかしげて聞き返す。
「いや、たいしたことじゃないんだけどね」
 ジーンは微笑した。
「僕の友達のところに、手紙を届けてほしいんだ。ほら、今手が離せないから、仕入れを頼みたくてね」 
「……あ、ごめんなさい、私が無理なこと頼んじゃったから」
 そう言ってから、アリスははっと気付く。
 ガルトがこちらを見ていた。まだ帰っていなかったらしい。
 しまった、と思う。ガルトの話をジーンに伝えてしまったことが、これでわからないはずはない。
 あの時はつい感情的になりすぎたが、アリスは特にガルトを嫌っているわけではない。多少軽薄さを感じさせるしゃべり方が気に入らないというだけで、あえて不快の念を起こさせるようなことをするほど関心を持ってはいない。だから、ジーンに話してしまったことについては、悪かったと思う気持ちもあるのだ。とはいえ、いまさら謝るのも気まずい。
「どうしたの? アリス」
 ジーンに見つめられ、アリスはどきんと胸が鳴るのを感じた。
「あ、ごめんね。急ぐの? その手紙……」
「ちょっと、ね。できれば明日にでも届けて欲しいんだけど、頼んでもいい?」
 アリスがいなければ、ジーンは一人きりでジュールの警護をすることになる。大丈夫かな、という思いが頭をかすめた。が、自分とて腕が立つわけでもないので、何も言わないことにする。
「ベイリーさん、帰ろうぜ〜」
 ジーンとアリスの会話など聞いていなかったようなそぶりで、ガルトが言っている。ジーンと他愛のない話をしつつ、アリスは耳の片隅でそれを聞いていた。
「ああ、でももう少し人数いなくて大丈夫か? 屍鬼が……」
 ベイリーは部屋の隅で話し込んでいる一団を見やる。帰る方角が同じ人々だ。
「平気平気。最近このあたりじゃ、屍鬼は少なくなってるらしいよ」
 ガルトの口調は、話題の深刻さに比べてあまりに明るい。その違和感に自分はいらだつのかも知れないと、アリスは思う。
「へえ」
 ベイリーが、目をまるくしている。
「そういやおまえ、最近夜も出歩いてるもんな」
「そうそう。結構平気だぜ」
「ふーむ、さっきおまえが言ってた、ゲインでの事件と関係あるのかねえ」
「……かもね」
 ガルトの口調は、心なしか楽しげに聞こえる。
「そういうことなら、帰ろうか」
 ベイリーが立ち上がり、ガルトと連れだって出て行こうとする。階段近くにいるアリスの目の前を通り過ぎる刹那、ちらりと視線が動いた。アリスと向かい合っているジーンの肩ごしに、アリスはその視線をとらえる。
(!)
 刺すような目。
 ほんの一瞬、こちらに向けられたガルトの目は、アリスの知っているものではない。快活な青年のイメージが嘘のように、鋭く、どこまでも昏い、闇の瞳。
 ぞくり、と背中をなにかが駆け抜けた。
 頭よりも早く、本能が警告の声をあげる。
 危険を知らせる声を。
(あれは……何?)
「……アリス? どうしたんだい?」
 目を見開いたままのアリスの肩を、ジーンがかるくつかんでゆさぶる。
「…い…今……」
「今どうしたって?」
 やっと我に返ったアリスは、慌てて階段の方を見やる。上の方から、かすかにガルトのものとおぼしき笑い声が聞こえてきた。なにごともなかったような、明るい声だ。
「……ごめん、なんでもない」
 アリスは固い笑いを浮かべる。ジーンは心配そうにアリスを見つめ、なにか言いたげにしていたが、それきり何も言わなかった。

 翌日。
 ジーンから預かった手紙を持って、アリスは指定された店に向かう。
「せっかくだから、一日遊んでおいで。僕に無理して付き合うこともないよ」
 手紙を受け取る時のジーンの言葉。
 もしかすると、手紙を口実に、ジーンはアリスを休ませてくれようとしたのかも知れない。そう思うと、なんとなく嬉しい気分になった。
 手紙を渡して町に出る。一人で町をぶらつくのは数日ぶりだ。天気のよさもあって、ジーンに甘えて少しゆっくりしようかと思う。
 が、その時。
(あれは……ガルト?)
 通りを横切って足早に歩いて行く、長い黒髪の青年。ポケットに手を突っ込み、口笛を吹きながら通りを歩く姿は、どこにでもいる呑気な青年のものでしかない。だが、もはやアリスには、彼が見せかけ通りの人間だとは思えなくなっていた。
 昨夜目にしてしまった、あの冷たい目。ほんの一瞬のことだったのに、焼きつけられた恐怖と戦慄は、容易に忘れ去ることのできるものではない。
 あの目の正体がわからないことが怖かった。ただの軽い男と侮っていた相手が、得体の知れない存在に見えることが不安だった。
 我知らず、ガルトを追って歩き出す。距離を保ち、気付かれぬよう後をつける。
「おばちゃん、このイチゴちょうだい」
 ガルトの方はといえば、アリスの尾行に気付いた風もなく、港近くの露店で買ったイチゴを袋から一つ二つ取り出し、口に放り込んで歩き出す。いたってのんびりとした調子だが、その割に足早なところが、アリスを怪しませた。
(あれ、戻って来ちゃった)
 気がつくと、ジュールの店の近くに来ていた。今頃ジュールは店番をし、ジーンがその傍らでジュールを守っているはずである。
 その店にすたすたと入って行くガルト。
(ちょ、ちょっと……なんでよっ)
 ガルトの目的地が自分の家であったことに、アリスは驚く。
 単にベイリーに頼まれて買い物に来ただけなのだろうか。
 尾行していたことに気付かれないよう、しばらく間を置いてから、思い切って店のドアを開ける。
「ただいま……」
 声はそこで途切れる。
 店の中には、誰もいなかった。ジュールもジーンも、つい今しがた入っていったはずのガルトさえも。
 奥の部屋も無人だった。が、うろたえる気持ちを押さえて、何が起きたのかを考えるアリスの耳に、物音が聞こえた。
(地下室?)
 奥の部屋の隠し扉……集会に使う地下室への階段へと通じる扉に歩み寄る。普段ならば鍵がかかっているはずだが、押してみるとすっと開いた。
(やっぱり、この中だ。でも、なんで……?)
 足音を忍ばせながら、階段を降りて行く。地下室にあかりがともっているのが見えた。耳をすませると、人の話し声が聞こえる。気付かれないぎりぎりのところまで階段を降りて、アリスはそのまま様子をうかがった。

 ガルトらしき声に答えるジュールの声が聞こえる。
「話、だと? わしを殺す前に情報でも聞こうというのかね?」
 物騒な言葉がいきなり耳に飛び込んできた。アリスは息をのんで様子をうかがう。
「……ジーンから聞いておったぞ。おまえさんがロルンの魔術師だったとな」
「ふうん、そこまでご存じだったんですね。どうりで何度警告しても、聞いていただけなかったわけだ」
「アリスの頼みでジーンを護衛につけたが、あるいはそれもおまえさんの策略なのかね」
「俺だけじゃありませんよ。俺はジーンの計画通りに動く手駒だったんですから」
「……なに?」
 ジュールの声が固くなる。
「もういい加減、話してやったら? ジーン」
「そうだね、ガルト」
 アリスは耳を疑う。くっくっと笑う声は、まぎれもなくジーンのものだ。
「君とペアを組んだおかげで、随分詳しい情報が得られたよ」
(ジーンがロルンの暗殺者? まさか……)
 ジーンの優しい笑みが脳裏に浮かぶ。ずっと見つめてきたはずの美貌の青年が、忌むべき狂信者の手先だったことは、にわかには信じがたい。だが、階段の下から聞こえてくる声は、容赦なくアリスを打ちのめしていった。
「なんだと……?」
 ジュールの声も、驚きに震えている。
「僕に与えられていた使命は、ジュール・デルガスルーアとゲイリー・クランジェの暗殺、それに反逆組織の内偵だった。重要な情報に近づけなくて困ってたんだけど、君がアリスを使ってうまく注意を引きつけてくれたおかげで、うまく入り込めたよ」
「そこまではご存じなかったようですね、ジュールさん」
 ガルトの声が聞こえる。
 アリスは茫然とそれを聞いていた。
(あたしのせいだ……ジーンに護衛を頼んだのは、あたしだ……)
 暗殺者の術中にはまっていた自分。
(そうだ、おじいちゃんが危ない……)
 だが、どうすればいいというのだろう。ロルンの暗殺者二人を前にして。
 それに、ガルトの昨夜の目を思い出すと、まだ背中に寒気が走るのがわかる。ロルンの暗殺者の殺気とはまた違う言い知れぬ力が、あの目から感じとれたのだ。
(ガルト・ラディルン……一体何者なの?)
 が。
「……あとはそこのじいさんを殺して、君を捕獲すれば、僕の任務は終わる」
 ジーンの声が、アリスを現実に引き戻した。ガルトが聞き返している。
「捕獲?」
「知らなかったとでも思う? 七年前にシガメルデで死んだはずの君がここに現れたのに、僕が怪しまないわけはない。すぐ、教皇様に連絡したよ」
 それまでと、様子が違う。祖父は無事なようだが、今会話しているのは、協力してジュールを暗殺しようとしていたはずのジーンとガルトだった。
 ジーンの声は続く。あざけるような調子で。
「君のことは、できるなら殺さず捕獲しろ、というご命令だった」
「ふーん」
 ガルトの口調には、少しも乱れがない。世間話のように、血なまぐさい話題に返事を返す。一見なごやかに話が進んでいるようだが、地下室からただならぬ緊張感が漂ってきているのを、アリスは感じ取っていた。
 一触即発。そんな言葉がふさわしい。
「教皇の直属になってたんだ。出世したじゃん、ジーン」
「ふふっ。……シガメルデ支部では、いつも君に首席を取られていたからね。まあ、僕としては、殺さずになんていうつもりはないよ。君はもう、ロルンじゃないんだから」
 えっ……と、アリスは思う。
「だからね、これも罠だったのさ。いつもうろちょろしているアリスを遠ざければ、君は必ずここへやって来る。じいさんを守るためにね」
「……」
「ここに来たばかりで信頼されてない君が、僕の手からじいさんを守るには、まだロルンにいるような顔をして僕を見張るしか方法がなかったんだろう? だから僕も、じいさんを君の目の前で殺してあげようと待っていたのさ。もちろん、情報収集もあったけどね」
「相変わらずだなあ、ジーン。自信家でこずるくってさ」
 ずいぶんと、ひどいことを言う。奇妙なことに、ガルトはこの期に及んでなお、普段の口調を変えようとしなかった。
「おかげで助かったけどな」
「助かる? もう暗殺者でもなんでもない君に勝算があるとでも?」
「ははっ……」
 ガルトは低い笑い声を立てる。
「……おまえこそ、勝算あるみたいな言い方だよな」
「ガルト……君、島外でばかになってきたの? この距離で僕の毒に勝てるつもりでいるなんてさ。言っておくけど、その荷物を置いてシンボルを描く時間なんてあげないよ」
「いらねえよ、そんなもん」
「ふぅん……」
 ジーンの声の調子が、微妙に変わった。なにか、今まで被っていた仮面が不意にぽとりと落ちたかのような、なにげないうすら寒さを感じる。
 なにかが、起こりそうな気がした。
(だめ……やめて!)
 アリスは心の中で叫ぶ。誰に何をやめろというのか、自分でもわからぬままに。ただ、怖かった。その場から逃げ出したくなるほどに恐ろしかった。それなのに、足が一歩も動かない。目を見開いて階段に座り込んだまま、アリスは地下室の扉からもれ出るあかりを凝視していた。
「いいかげん、君と話すのも飽きたな。毒針はやめて、じいさんと一緒に殺してあげよう」
「どーぞ」
 状況からは考えられないほど楽しげに、ガルトは応じる。
 ふっと、あたりが静まり返った。
(な、なに?)
 絶え間なくことばを交わしていた二人がふっと黙ってしまったので、アリスはひどく不安にかられた。が、それはほんの短い時間だったらしい。
「……なぜ?」
 疑念に彩られたジーンの声。どさ…っと、なにかが倒れる音がする。
「毒針飛ばしまくる危ねぇヤツを、野放しにしとくわけにはいかねえだろ?」
 ガルトの声の調子はかわらない。
「最初から魔法はかかってたんだよ。闇の盾って魔法、知ってる?」
「……」
「見えない壁を作る魔法だ。それでおまえを囲んであったのさ。おまえはおまえの振りまいた毒でやられたんだ」
(ジーンが?)
 呪縛が解けたように、アリスは走り出す。地下室に駆け込み……そして、立ちつくす。
 扉を入ってすぐの所に倒れているジーン。それを見下ろすガルト。そのすぐ後ろのソファで様子を見守るジュール。
「……よう」
 驚く様子も見せず、ガルトが挨拶する。
「い、今……」
 なにから言ってよいのかわからない。倒れたジーンを見つめたまま、アリスは言葉をつまらせた。
 うつぶせになったジーンの背中。もはやぴくりとも動かない。
 ずっと見つめて来たのに。
 なぜ、気付かなかったのだろう。 
 なぜ、好きになってしまったのだろう。
「……悪かったな。でも、あんたには話を聞いてもらいたかった」
 ガルトの声に、はっと顔を上げる。ガルトの闇色の目が、少し悲しそうな表情をたたえてアリスを見ていた。
「知ってたのね? 私がいたこと」
「ああ。つけてきてたことも知ってた」
「そっか……そうだよね、ロルンにいたんだったら、それくらい……」
 アリスはジーンの死体から目をそむけるように、ガルトに向き直る。
「ジーン、死んじゃったんだね……」
 ガルトはうなずく。
「わかってるけど……こうなって欲しくなかった……。何者でもいいから、生きていて欲しかったよ」
 ガルトはしばらく黙っていた。が、やがて、
「俺のこと、憎んでいいぜ、アリス」
「……え?」
「ジーンを殺したのは俺だ。それ以外のことは忘れてさ……。その方が楽だ」
「そんなこと……」
 確かにそうできたら楽にはなれるだろう。やりきれない思いを怒りに変えて、誰か適当な相手にぶつけてしまえれば。だが、アリスはそこまで勝手に振舞いたくはなかった。
「できるわけないじゃない。聞いちゃった記憶は消せないもの」
「そうか……そうだろうな」
 ガルトは苦笑した。自分でもばかげたことを言ってしまったという口調だ。
「すまない。人が死ぬってことにあんたが慣れてないんじゃないかと思ってさ」
「それはそうだけど……でも、違うと思う」
「違うって?」
「いくら悲しくても、ジーンが死んじゃったことは受け止めなきゃならないんだ。ジーンがロルンの暗殺者で、おじいちゃんやゲイリーさんを殺そうとしてたこともね。だから……どんなに辛くても、自分にまで嘘ついちゃいけないんだと思う。ジーンに生きていて欲しかったのは、ほんとだけど……そしたらおじいちゃんは殺されてたんだろうし、時間は戻せないんだもの」
「……強いな」
 ぽつりと洩らしたガルトの言葉が、ひどく寂しげに聞こえて、アリスはどきりとした。
「ガルト、おまえは何者だ?」
 それまで沈黙を守っていたジュールが口を開く。
「ロルンの魔術師と聞いていたが……とてもそうは見えん。なぜわしを守ろうとした? それに……なぜアリスを傷つけまいとする?」
「ロルンにいたのは、ほんとですよ。ジーンが言ってた通りです。あの教義についていけなかったんで七年前に逃げましたが……あとは、まあ、放っておけない性分ですかね」
(性分って……でも)
 アリスが怪訝な顔をする。そんなもので片付けてしまえることなのだろうか。ジュールも同じ思いであったらしい。
「解せんな。ロルンから逃げるなどという発想も、破壊神の噂が立ち始めた頃に帰ってきたこともな。なにか企んでいるとしか思えん」
「勘ぐり過ぎですよ、ジュールさん」
 ガルトは曖昧に笑う。触れられたくないことなのだろうか。
「ただ、これだけはわかっておいて下さい。俺は破壊神を崇める奴等に与する気はないし、無為に殺されていく人達を放ってはおけない……その意味で、あなたがたと志は同じだということをね」
 そう言って、屈託なく笑う。だがその笑みは、数日前までアリスが思っていたような、軽薄で脳天気なものの笑みではない。今ならアリスにも、それがわかる。
 志、と、彼は言った。彼が目的とするもの……それは、破壊神を核とする信徒達の支配を覆すことなのだろうか。ロルンの暗殺者でありながら島外に逃亡し、再び舞い戻って来た彼の行動は、何を意味するのだろうか。
 アリスは尋ねたかった。だがどうしても、口を開くことができなかった。


 それきりガルトは、集会に現われなくなった。ベイリーによれば、島をまわって遊んで来ると言って、ある日ふいと出て行ってしまったのだという。
 あれほど苦手だったのに、行方が気になるなんて、とアリスは自分に苦笑する。
 その時は、まだ予感でしかなかったのだ。あの、底知れぬ闇色の髪と目を持つ青年が、軽い口調の陰で成し遂げようとしていることへの、そこはかとない不安と期待でしかなかったのだ。 

(第一章 了)


[戻る][進む][インデックス]