第二章 破壊神の片腕
1 捧げ人デューイ
詠唱が耳の奥で黒い渦を巻く。礼拝堂に集った信徒達が斉唱するのは、いつもの破壊神への祈りだ。
復活のあかつきには、世界に死と破壊をもたらすという神・ウドゥルグ。
その姿を知る者は誰もいない。だがこの島では古くから、額に第三の眼を持つ青年の姿で破壊神が降臨すると信じられている。その姿を象った像が礼拝堂に安置されているのだが、それに犠牲の血が多くかかるほどに復活は早まるのだという。ゆえに、礼拝には生贄がつきものであった。
祈りはウドゥルグをたたえ、死と破壊を賛美する。
……息がつまる。
ラスデリオン・デューイ・バートレットは、黒衣と黒い覆面の陰で、小さくため息をついた。
祈りは第七章にさしかかっている。次の章に入ったら、剣を構え、九章の終わりに生贄の首に向けて振りおろす……それが、デューイの役目だ。
デューイは捧げ人……破壊神の信奉者達が組織する「教団」に所属する信徒の中で、最も格下に位置付けられる「ロルン」という組織の一員である。ロルンは本来、教団の意に沿わぬ者を暗殺する者達だが、デューイのような「捧げ人」も一定数存在する。デューイは八歳の時から剣技と暗黒魔法による暗殺術を学び、半年ほど前に一人前の暗殺者としての刻印……髑髏の刺青……を施されたばかりだ。
が、彼は教団の教えを受け入れていたわけではなかった。
覆面は彼の表情を隠す。苦しげなまなざしも、きつく結んだ唇も。
いつだって、気の進むことではない。だが、今日は特別だ。
よくロルンのレブリム支部の近くで見かけた野良犬。人なつこく、デューイによくなついていた。いつ信徒につかまって礼拝の生贄にされるかと気が気ではなく、遠くに連れて行って置きざりにしたこともあったが、いつも戻って来て、デューイを見ると尻尾を振って迎えてくれた。
できることならば逃げて欲しかったのだが。
その野良犬が、礼拝の生贄として、デューイの前にいる。そしてデューイは捧げ人……野良犬の首を斬り落とし、破壊神の復活を願う生贄とする役目なのだ。
犬がクゥン……と哀しげな声を上げ、剣を持つデューイを見上げる。やせこけて目だけが大きな犬。その目がデューイの胸をきりきりと締めつけた。
だが、命令には従わねばならない。
第八章のはじまりに、デューイは機械的に剣を振り上げる。
こんなことは嫌だ……。
何度もつぶやいてきた言葉を、今さらのように彼はつぶやく。何もせず、信徒に自分が殺された方が、まだましな気さえする。その勇気すらない自分を、彼は呪う。
……今ここに犠牲を捧げ、復活を願うものなり!
祈りの最後の文句とともに、デューイは機械のような動きで剣を振りおろした。
やせた野良犬の首は、意外なほど固い手ごたえがあった。
何とも言えぬ声を発して、半分ほどちぎれた犬の首が、祭壇上の聖杯に落ちる。
血ぬられた剣を捧げ持つデューイの耳に、信徒達の声が反響する。
死と破壊の神ウドゥルグよ、ここに来たれ……。
(やめてくれ……)
覆面の下で、デューイはつよく目をつぶる。
目の前の野良犬の死体を、とても正視できなかったのだ。
暗黒魔法の練習に生贄の死体を使わせてほしいというデューイの申し出は、すんなりと許可された。生贄は「死を与える」ことが重要で、既に死んでしまった死体は通例、暗殺に使う毒薬の材料や、ロルンの暗黒魔術師が屍鬼を作り出す呪文の練習台に使われる。剣術とともに魔術を学ぶデューイのそんな申し出は、珍しいものではなかった。
(ごめんよ……きっと生き返らせてやるから)
首が半ばちぎれた野良犬がどんな姿でよみがえるか、デューイに想像できなかったわけではない。だが、自分が殺してしまった命へのつぐないをしたかった。
失われた命を再びその身に宿す魔術。ウドゥルグが認めた者でなければできないとされる、ロルンでも有数の難しさを誇るものだ。デューイも習ったものの、まだ実際に試したことはない。
(できるさ……だって僕は……)
デューイの脳裏に、ある風景が浮かぶ。
十年前の、幼い自分。
レブリムのさして大きくもない雑貨屋のひとり息子として、平凡に成長するはずだった。学ぶことは好きで初等学校は楽しかったが、金のかかる上級学校には行かず、いずれは店を継ぐことになるだろう。……そんな、ごく普通の子どもの運命が、ある日を境に大きく変わった。