魔の島のシニフィエ

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第三章 生命の摂理 破壊の傷痕

2 野心

「申し上げます」
 白い仮面の下級司祭の報告を、バルベクト・ユジーヌはいつもの仮面の下で聞く。
「バートレット夫妻ですが……逃げられました。家には誰もおりません」
「そうですか」
 美しい声だ。低く、耳に心地よい声の調子からは、ユジーヌの心の内までは読み取れない。上級司祭の赤い仮面に表情を隠した彼は事実上、誰にも悟られることなく思索をめぐらすことができる。
 穏やかな声で、ユジーヌは続ける。
「見張りを引き上げさせなさい。あの家には、もう用はありません」
「はい」
 疑問をさしはさむこともなく、下級司祭は従う。いつでも簡潔で的確な指示を与えてくれるこの上司に逆らう理由などない。ユジーヌの意図はわからぬが、従っていれば間違いはないのだから。
「ああ、そうそう」
 やや間をおいて、ユジーヌがつけ加えた。
「ドリュキスの監視を強化してください。……それから、旧シガメルデに屍鬼部隊を待機させるように」
「は……では、監視班を二班増やし、屍鬼部隊をドリュキスから一小隊を残して移動させます」
 具体的な作戦は、命令を受けた者に任されている。ワルトハイムという名のこの下級司祭に限らず、ユジーヌの部下達は、こうした個々の局面での作戦遂行能力には長けていた。だが、作戦が大きな時代の流れの中でどのような意味を持つのかということには思いが至らない。それはちょうど、人を爆死させることも、自然死にみせかけて暗殺することも状況に応じて自在に判断できるが、暗殺という行為自体の意味への思考を停止してしまっているロルンの暗殺者達と同じである。もっとも、ロルンを手足と思う司祭達がそのような対比を思いつくことはない。
 ユジーヌはこの十数年をかけて、そんな部下達を育ててきた。現在の地位……後任の司祭の指導を担当し、ロルンを統括する司祭長……に加え、卓越した判断力と巧みに言葉を駆使する能力を持つ彼に、それはさして困難なことではなかった。
「……ええ、そうして下さい」
 ユジーヌの許諾を得た下級司祭が、早速命令を実行にうつすべく退出した後、ユジーヌは一人、考えにふける。
(やはり動きだしましたか……待っていましたよ、あなたを)
 仮面の奥の目が、薄い笑みをたたえる。
(私を楽しませてくれるのは、あなただけなのですからね……)

 数日後。
 ユジーヌは一人、教皇であるベルレン八世のもとに赴いた。名目上、ユジーヌよりも高位の、島でただ一人の人物である。初老の男は、華美ではないが充分に手間のかけられた教皇服に身を包み、ユジーヌを迎えた。
「猊下、大陸北部のリュテラシオン地方での作戦ですが、死者二名が出た模様です。いずれも要人の暗殺失敗によるものですが、屍鬼化して任務は遂行、その後同行の暗殺者により処理されたとのことです」
「……作戦はおおむねうまく進んでいると見てよいのだな?」
「はい」
 ユジーヌは恭しく一礼する。教皇に対して彼は、完璧とも言える恭順の態度を取っていた。野心家として名高く、島内に飽き足らずに島外にまで勢力を伸ばそうと、暗殺者を使った作戦を計画する教皇を、実務のレベルで支えてきたのはユジーヌである。この二人が手を組んでから、ヘスクイル島の勢力は水面下でじわじわと広がりつつあった。
 しかし、ユジーヌは決して自らが先頭に立とうとはしない。常に教皇を立て、その陰で目立たぬよう行動している。だからこそ、教皇の信頼も厚い……とされていた。
 が。
「おそれながら、猊下」
「なんだ?」
「古い話で恐縮ですが、昨年、ドリュキスの反乱集団に送り込んだ暗殺者が行方不明になったという話をうかがいまして」
「!」
 教皇の目が、油断のならない光をたたえ、じっとユジーヌを見つめる。ユジーヌは一向に動じず、話を続けた。
「あの男が島に戻って来ていたことをご存じだったのならば、一言命じていただければすぐにでも対処致しましたものを」
 二人の間では、それだけで話は通じる。だが、それぞれの思惑は違った。
「……すまぬな。おまえもとうに知っていると思っていたのだ。おまえはあの男に並々ならぬ関心を寄せていたからな」
(果たしてどうだかな……)
 仮面に隠されたユジーヌの表情が、冷笑を含んでいることに、教皇は気付いただろうか。
 教皇は、ユジーヌに無断で教皇直属の暗殺者を動かしていた。そもそもロルンの暗殺者約三百人のうち半数は教皇の指揮下にあるのだ。その多くは島外での暗殺活動に携わってはいるが、島内で情報収集や暗殺を受け持つ者も数十人いる。教皇には暗殺者を動かす権限があるし、通常ならばユジーヌが問題にすべきことではない。
(でも……だめですよ。あなたに彼を扱うことはできない)
 そんな嘲笑を微塵もおもてに出さず、ユジーヌは言葉の上では誠実そうに言ってのける。
「ご相談いただかねば。おそれながら、彼の力は未知数です。侮ってはならぬかと」
「無論侮るつもりなどない。ロルンの追撃の手を逃れ、島外で七年も過ごせた者……そして、ロルンの教皇直属部隊の精鋭の監視をも振り切れる者だ。だが、奴に無関係の民衆を殺戮することなどできんよ」
 わずかに、ユジーヌの表情が動く。
「暗殺者の報告ですか?」
「そうだ。身近な者を守るためにあえて不利な行動もとっていたらしい。結果として、奴は守り抜き、暗殺者は行方不明。恐らく、殺されたのであろうな」
「つまり、彼をウドゥルグの力の持ち主としてではなく、離反したロルンとして考えよということでしょうか」
「そうだな」
 ならば教皇にとって、「彼」は利用価値のあるものではない。密かに彼を捕獲しようとする理由はないはずだった。
 要するに教皇も欲しいのだ、彼の力が。
 八年前、島の南西部の都市シガメルデで起きた事件。
 一瞬のうちに、シガメルデとその周囲の三つの村が壊滅した。その場にいた生命が、すべて死に絶えたのである。人はもちろんのこと、獣や鳥、植物や虫に至るまで、生きとし生けるものはことごとく死滅した。以来、シガメルデ周辺では草木も育たぬ死の世界として、廃墟だけが残されている。
 ユジーヌはその事件の真相を知っていた。否、それはユジーヌ自身が仕組んだことでもあった。
 それは、一人の少年に秘められた力を試すための実験だった。彼の力は、本来人が持ち得ないものであり、それゆえにユジーヌの関心をひいたのだ。
 バルベクト・ユジーヌ。
 司祭学校時代には常に優秀な成績を誇り、司祭となってからも、異例の昇進を遂げて来た男である。四十三歳の若さで司祭長の座を手に入れてしまった彼にとって、思い通りにならぬものはない。出身階層の低さゆえに、教皇の位こそ手に入れられぬが、実権としては教皇に匹敵する力を持っている。
 だからこそ彼は退屈しきっていた。
 その退屈を、強大な力を持ちつつその本質を制御する方法も知らぬ少年は、いともたやすく打ち破ってくれたのだ。
 あの力を制御する。
 それがユジーヌの関心をかき立てた。少年を捕らえ、シガメルデで実験を試みた後に兵器として利用するつもりだったが、少年はユジーヌの手をかいくぐり、逃亡した。
 思い通りにならない少年に、ユジーヌはますます面白さを感じていた。
 こんなちっぽけな島で労せずして伸ばした権勢など、彼にとっては何の価値もなかった。たとえ島外に勢力範囲を伸ばしたとて、ユジーヌにとっては同じことである。
 ユジーヌが求めているのは、少年の持つ力を手に入れることだけだった。その他のものは、望みさえすれば簡単に手に入る。たとえ、世界であろうとも。ユジーヌにはその自負があった。だが、あの力だけは……。
 教皇の目的は、島外への進出である。ユジーヌは表向きそれに協力しているだけだ。
 だからこそ、ユジーヌにはわかる。
 教皇には、彼も彼の力も制御することはできない。あの力は、ただの道具として利用できるほど甘いものではないのだ。
 だが、仮面はユジーヌの表情を注意深く押し隠す。
「そうは言っても、もしものことがございます。彼の処遇は私めにお任せを。必ずや、猊下のご希望にそえるかと存じますが」
 あくまで、主君を気遣う臣下を演じるユジーヌを見遣る教皇の碧眼は、必ずしも信頼に満ちているとは言い難い。
「気遣いはありがたいが、ユジーヌ」
 とはいえ、視線とは裏腹に、教皇の口調もやはり穏やかである。
「直属部隊も、ウドゥルグ様のためとあらば、喜んで命を差し出すであろう。多少の失敗は止むを得んがな。その時はおまえの部隊にも働いてもらいたいものだ」
「では、直属部隊を動かされると?」
「そうだ。奴の監視には直属部隊の精鋭があたる。よいな?」
「……承知しました。ウドゥルグ様のため、このわたくしも影ながら尽力させていただきます」
 ウドゥルグのため。
 破壊神ウドゥルグの復活を願う集団の頂点に立つ二人の間でかわされたその言葉は、だが、妙にそらぞらしい響きを帯びていた。
 彼らは承知している。
 ウドゥルグなどという「破壊神」は存在しないのだということを。

 教団は数百年もの間、虚偽の教えを流し続けて来た。だが、それを知る者はほとんど……司祭達を含めて……いない。ヘスクイル暦以前の記録を丹念に読み解いていかない限り、その真実にはたどり着けないのだ。
 ベルレン八世とユジーヌはそれぞれ、書庫の記録を読みあさり、同じ結論に達した。
 ウドゥルグは破壊を望む神などではない。
 いや、そもそも「神」という存在ですらないのだ。
 700年ほど昔のことであるが、レーギス大陸の北部に「記号魔法」と呼ばれる魔法を研究する者達がいた。彼らは「シンボル」と呼ばれる記号を描くことで、シンボルに対応する自然現象を操作することができた。たとえば「火」の記号と「前進」の記号を描けば、炎の球がまっすぐ前に飛んで行くのだ。
 彼らの研究の中で、特に重要視されているシンボルが三つあった。時の流れをあらわす「カーナン」、因果をあらわす「ヴァリエスティン」、そして、生命の流れをあらわす「ウドゥルグ」である。この三種のシンボルは、人間に深くかかわる摂理を示すものとして、その他のシンボルの上位に位置すると伝えられていた。
 だから「ウドゥルグ」とは、生命の摂理である。生命は必ず死を迎える。死んだものはもはや生物ではない。
 たったそれだけの摂理。
 だが、死を恐れる人間達は、その摂理の存在を恐れた。
 ある時、臨終を迎えた魔術師がいた。彼は遺言として「ウドゥルグ」のシンボルを逆に作用させ、自分をよみがえらせるように指示していた。弟子達はそれに従い、息をひきとったばかりの彼に向けて「ウドゥルグ」のシンボルと、発見されたばかりの「逆転」のシンボルを描いた。
 ある意味でこれは、生命の摂理を人間が越えようとした、記念すべき瞬間だったのかもしれない。そして、同時にこれが最初の屍鬼製造の瞬間でもあった。
 よみがえった彼は、動き、しゃべることもできた。だが心臓は動いておらず、血も流れていない。やがて腐敗とともに、彼の知性は低下し、かつての弟子達をむさぼり食らうようになっていった。急遽、「逆転」のシンボルが解かれ、彼は本来なっているべきであった、ただの腐った物体へと戻っていった。
「ウドゥルグ」の研究者達は、この事件を「失敗」と見た。理論上は「ウドゥルグ」の司る生命の流れを逆転させれば、死ぬことはなくなるはずである。屍鬼となったのは、シンボルの描き方が悪かったのか、あるいはまた「ウドゥルグ」のシンボルに未知の要因があったのかであろうと、彼らは考えた。そして、近隣の村から人をさらい、さまざまな実験を繰り返した。
 記録によれば、その実験は相当にむごたらしいものだったらしい。吊り下げた人の血管を切り、少しずつ出血させ、どの段階でシンボルを使えば屍鬼化するのか、といったものや、手足を切り落した状態で屍鬼化させた時にどうなるのか、といったものもあった。時には、村一つをまるごと滅ぼし、その後でシンボルを使ってみる、ということさえも行われていた。
 やがてその実験は、他の研究者達の知るところとなり、「ウドゥルグ」を研究していた魔術師達はみな追放された。彼らがたどり着いたのが、このヘスクイル島である。
 彼らの研究は、この地で誰にも邪魔されることなく進められていった。彼らの間で伝えられていくうちに、単なるシンボルだった「ウドゥルグ」は、不死の象徴、そして死を統べ、彼らを排斥した者達を滅ぼす破壊神の名へと変貌していった。その結果、現在の破壊神信仰が形づくられてきたのである。
 数百年の年を経た今となってはもはや「ウドゥルグ」が破壊神かどうかなどと考えてみるものは滅多にいない。同世代の司祭達の中で二人もそのような背信の徒が現われたことは、きわめて珍しいことだった。
 いや。
 三人めの存在を、ユジーヌは知っている。
 司祭達からすれば取るに足らない、ロルンの若者。立ち入りを禁じられている書庫に忍び込み、ユジーヌと教皇しか知らぬ文献を見つけ出した少年は、かつて「ウドゥルグに守られ、歴史に名を残す」と予言されていた。ウドゥルグがシンボルに過ぎないことを知るユジーヌは、その予言に関心を寄せ、ロルンに入れて観察していた。
 禁をおかした罰として、彼は処刑されたはずである。だが、ユジーヌは彼の……ラスデリオン・デューイ・バートレットの死を確信してはいない。
 ロルンからの報告によれば、確かに処刑は行われ、火炎呪文によって消炭のごとく燃やし尽くされた死体だけが残ったという。だが、もはや原形をとどめぬ死体をデューイのものと断定することはできない。ロルンでは教えられてはいないが、物質を瞬時に転移させる記号魔法が古い記録に残されている。しかも処刑の瞬間は、炎と煙とで視界が遮られる。高度な技ではあるが、処刑の瞬間にデューイを救い、かわりに死体置場の適当な死体を置くことは、決して不可能ではないのだ。実際、死体置場からは一体の死体が紛失したという知らせが入っている。さらに、監視をつけておいたデューイの両親も、その晩、行方をくらました。これらの動きがすべて偶然であるはずはない。
 何者かが古い記号魔法を使ってデューイを救ったという可能性を、ユジーヌは捨てていない。それが可能な人間がいるとすればの話だが、心あたりはある。
 教皇が独占しようとした「彼」……望まずしてシガメルデを破壊し、島外に逃れていた魔術師の少年。いや、あれからもう八年、彼も既に二十三、四歳になっているはずだ。彼がこの島に戻って来ているという情報がある。もしも彼が島外に散在する記号魔法の書物でも入手していれば、ロルンの動向をさぐり、思想規律違反者を同志として助けようとしてもおかしくない。そもそも彼は、思想規律違反すれすれでありながら、そのたぐいまれな魔力で通常よりも一年早く暗殺者の刻印を受けた経歴の持ち主だったのだから。
 彼の目的はおそらく、この島を教団の手から解放することだ。ロルンにいた当時から、破壊神信仰に決して屈伏しなかった少年の強いまなざしを、ユジーヌははっきりと覚えている。なんの目的も勝算もなく、島に戻って来たはずはない。
 ロルンを煙に巻くほどのあざやかな魔法と、体制転覆への強い意志。そして、すさまじい破壊の力。
 敵として正面から向かい合うには、あまりに手強い相手だ。たとえユジーヌの権力をもってしても。
 だが、ユジーヌは彼と敵対していることが、なによりも嬉しい。年齢や立場など無関係に、ただ、命がけでわたり合える相手。退屈しきっていた権力者としての日常に、再びかがやきが戻ってきたのだ。

 


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