魔の島のシニフィエ

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第四章 革命

1 軋轢

 レブリム、大聖堂。
 教皇の居室で、教皇とユジーヌが向かい合う。珍しい光景ではないが、今日はいつもとなにかが違っていた。
 教皇は明らかに不機嫌な顔をしている。よせた眉根といい、きつく引き結んだ口元といい、普段滅多に見せることのない表情だ。
 ユジーヌも無言である。明らかに気まずい空気が、教団の長とその腹心の間に流れていた。
 長い沈黙の後、教皇がやっと口を開く。
「失態は認めざるを得ん、な」
 ユジーヌはわずかに顔を上げただけである。仮面で目元の表情はわからないものの、口元にいつも浮かべている柔和な笑みは、今のユジーヌにはない。
 背をつたって流れ落ちた冷汗に、教皇自身がどきりとする。無言のユジーヌにかつてない迫力を感じ、我知らず教皇は気圧されていた。
 確かに今回の作戦は教皇の失態を露呈した。教団の監視をかいくぐり、仲間を増やしつつある反乱分子達。目立つ活動をしている者はわずかだが、彼らにさしむけた暗殺者がことごとく返り討ちにあっていた。
 理由ははっきりしている。元ロルンの存在だ。
 ラスデリオン・デューイ・バートレット以外にも、教団の処刑の場から救出され、反乱分子に加わった元ロルンが数名いるらしい。彼らの名は判明していないが、ロルンの手の内を知る者が反乱分子を守っているのである。
 とりわけ厄介な存在が、ガルト・ラディルンとランディ・フィルクス・エ・ノルージの二人だった。この二人が元ロルンを反乱分子に引き入れ、統率している。島外で未知のシンボルを学んだ上に暗殺者の技術を知りつくしているガルトと、元ロルンではないが戦闘の駆け引きを熟知した戦士のランディは、確実にロルンの戦力をそぎ落としつつあった。
 教団の武力は、ロルンの暗殺部隊によるところが大きい。しかし島内の部隊の腕は、島外派遣部隊よりも確実に劣る。島内のほとんど無抵抗な市民に恐怖を与え続ける存在であればよかったのだから、実際に島内での戦闘は想定されていなかったのである。彼らは世界有数の暗殺者集団ではあったが、戦闘集団ではなかった。暗殺は基本的に標的の隙をつき、一撃必殺を狙う技であり、正面から武力で挑まれた場合には不利になることも多い。だが、一体誰がそんな場面に島内部隊が直面すると想像し得ただろうか。
 この事態に対してユジーヌが島外部隊を召還するように教皇に申し入れたのが、先月……ヘスクイル暦696年6月のことである。大陸北部、ヘスクイル島からはほぼ真南にあたる沿岸の都市リュテラシオンに、教皇はかねてより島外進出の足場として信徒や暗殺者を集結させていた。彼らを島内での戦力として使おうというのが、ユジーヌの提案である。
 これに対して教皇は、島内部隊を結集し、もっとも厄介な者を始末すればよいと考えた。島外進出を断念するつもりは彼にはなく、現在の反乱分子もリーダー格の数名を殺せば沈静化するだろうという。
 標的は戦力の一翼を担うランディと、反乱分子のリーダー、デューイである。ガルトを標的にしようとは、教皇は考えなかった。利用できれば強力な兵器になる力を、できることなら手に入れたいという欲もあるにはあるが、むしろ島内のロルンでは太刀打ちできない危険を考慮してのことである。ランディやデューイならば、斬っても死なない屍鬼部隊に襲わせれば、いずれは力尽きるだろう。だがガルトにはそもそも、屍鬼の力が通用しないのである。
 それでもデューイの死は反乱分子に大きな打撃を与える。いかにガルトであろうと、求心力を失った集団を再び反乱に駆りたてることはできないだろう。
 教皇の作戦はこのようなものだった。ランディとデューイがともに行動している時を狙い、ランディ達に屍鬼部隊をさしむける。人数は四十名ほど。これは部隊の大半にあたる。戦術の不利を数で補うのだ。一方、ガルトには念のため教皇の直属部隊を派遣し、足止めにあたらせる。デューイ達のいる方向に向かっているのなら足止めし、そうでなければ放置しておく。今回はとにかく、ランディ達の襲撃の邪魔をされなければよいのだ。
 この計画は、教皇ひとりの発案ではない。冬のあたりから、教皇やユジーヌが反乱分子の動向を見守ってばかりいることに苛立った若手の司祭達が集まり始めていた。武闘派と呼ばれる彼らは、反乱分子を一人も残さず粛清すべきだと主張し、しばしば教皇に食い下がっていた。彼らを納得させるためにも何らかの手を下すべきだと教皇は考え、武闘派の司祭と綿密に打ちあわせた後、現場の指揮を取らせたのである。
 そして計画が実行されたのが、7月はじめのことであった。
 だが。
 教皇の作戦は無様なまでに失敗した。ガルトはまるでデューイ達の居場所を知っていたかのようにまっすぐシガメルデを目指して馬を走らせていた。旧マルシュピール付近で追いついた捕獲部隊は足止めにすらならず、あっさりとガルトに全滅させられた。のみならず、現場で指揮をとっていた武闘派の下級司祭の口から、ランディとデューイの襲撃計画が洩れた。結果として捕獲部隊と屍鬼部隊はほぼ壊滅状態となり、標的を誰もしとめることができなかったのである。
 ユジーヌは当初島外部隊の召還を提案していたことから、教皇の計画にはしぶしぶ同意した形になっていた。ユジーヌが反対する根拠は、島内部隊の実力の低さである。教皇の島外進出計画が進むにつれて、優秀な暗殺者が次々とリュテラシオンに配属されていった。その結果、ここ数年で島内部隊の力は急速に落ちている。無抵抗な島民を支配する事は容易であったが、ひとたび変事となれば対応は難しいと、ユジーヌは主張した。その彼を説き伏せ、なかば強引に計画を進めたのは教皇である。教皇もロルンの質の低下を知らなかったわけではない。知っていたからこそ、数を割いて戦力としたのである。
 それが、まったく役に立たなかったという事実。ひとえに教皇の読みと戦略のミスでしかない。それゆえに教皇のユジーヌに対する立場は弱まったことになる。
「今回の作戦により、島内の暗殺部隊は半減しました」
 ユジーヌの声が幾分冷ややかに感じられたのは、教皇の気のせいだろうか。
「奴の殺傷力があれほどとはな」
 教皇の嘆息に、ユジーヌは淡々と答える。
「ガルト・ラディルンは島外で『拡散』のシンボルを学んできたようです。加えて彼自身が『ウドゥルグ』のシンボルなのですから、暗殺者達よりもはるかにすばやく、しかも広範囲に即死の魔法を使えるのですよ」
「ウドゥルグ」のシンボルは、あらゆるシンボルの中で最も描くのが難しいと言われている。ガルトはそのシンボルを描く必要がない。かれ自身が生けるシンボルなのだから。
 一瞬で標的を死にいたらしめる魔法を複数対象に放つことができる……しかも、失敗の確率の高いシンボルを描かずに済む……それがどれほどまでに有利なのかを、教皇は測り損ねていたのである。
 それだけではない。
 作戦が失敗したのは、血気にはやるだけの武闘派などと手を組み、作戦の全貌を知る者に指揮を任せたからだ。たとえばユジーヌの部下ならば……ユジーヌの命令を疑うことなくまっとうする者達ならば、たとえガルトに問いつめられようと、知らないことを答えはすまい。
 いずれにせよ、教皇の失態だ。
「猊下。島外部隊を召還せざるを得ないのでは?」
「そうだな」
 認めざるを得ない。苦渋の決断だった。
「リュテラシオンに使者を。現在任務遂行中の者を除き、実行部隊は60日後……9月15日までにドリュキス港に帰還すること。支部長以下統括官は引き続きリュテラシオンの保全につとめよと」
「心得ました」
 教皇が失敗したことで、教団は不利な立場におかれる。教皇もさすがに焦りを感じているようだった。
 ユジーヌは一礼し、ごく控え目に提案があると申し出た。
「島外部隊帰還まで60日、戦力がこれ以上削られては危険です。ここは一度、教団の力をもって反乱分子を牽制しておくのが賢明かと存じますが」
「ほほう、どうやって?」
「公開処刑、というのはいかがでしょう? 末端の反乱分子を捕らえてラスデリオン・デューイ・バートレットを出頭させ、できるだけ大勢の目の前で処刑するのです……彼らの結束を崩したところに、島外部隊を使って片をつけさせましょう」
 数の面で言えば、教団はかなり不利な状態に追い込まれていた。結束を固めつつある民衆に対し、教団は思ってもみない反乱の気運に浮き足立つばかりで、内部の統制も乱れる一方である。長すぎる支配のもたらした油断であろうか。
 その典型とも言える事例が、今回の失態であろう。これまではうまく噛み合ってきたユジーヌの控え目な助言と教皇の決断力。教皇の焦りと、それにつけこんで教皇を自分達の陣営に組み入れようとした武闘派の介入が、二人の結束に亀裂を入れた。
 武闘派。
 ユジーヌや教皇を弱腰と批判し、反乱分子の殲滅を主張する彼らだったが、その主張は島全体を巻きこむ運動に成長してしまった反乱分子達を皆殺しにするという、現実性のないものに過ぎない。今それをやれば、島の人口は激減し、教団にも影響が及ぶ。それ以前に、そこまでの粛清をはかる武力は教団にはない。だが、武闘派の面々はそういった読みすらもできなかった。
 だが、ユジーヌは彼らの現実的でない主張を否定するでもなく、曖昧に受け流してきた。それは彼らを調子づかせることになっていたが、ユジーヌの真意は別のところにあったのである。 

「司祭長」
 教皇との密談の後、祈祷室にいたユジーヌに、一人の司祭が声をかけた。上級司祭の仮面を被ったその男は、武闘派の筆頭と目されている。血気にはやる集団の中では比較的頭がまわるほうで、教皇に接近しようとしたのも彼だと言われている。教皇の親戚にあたり、次期教皇とも目されていることも接近の背景にあったろう。当然のことながら、下級司祭の家の出であるユジーヌに対して好意的であるとはいえない。
「どうしました。エッカート司祭」
 柔和な口調で、ユジーヌは答えた。
「反乱分子の首謀者をとらえ、公開処刑になさるおつもりだとか」
「ええ。猊下の許諾をいただいておりますが、それが何か?」
「首謀者たった一人とは、随分と手ぬるいのではありませんかな?」
 口調は丁寧だが、それは明らかに、ユジーヌは弱腰で頼りにならないという不満のあらわれだった。
 が、ユジーヌは動じない。
「エッカート司祭」
「なんでしょうか」
「教団とは、なんだと思いますか?」
「……は?」
 虚をつかれたエッカートに、ユジーヌは続ける。
「島の一般民はウドゥルグ様を信仰せず、進んでその役に立とうともしない。我々が彼らを支配し、ウドゥルグ様の世をもたらすための役に立てようとしている」
「それが……どうかしたのですか?」
「けれども、こんな風に言い換えることもできます。……我々は彼らの生産物を収奪して生きのび、彼らを身代わりに生贄に捧げ、労せずしてウドゥルグ様の恩寵を得ようとしている……」
 低く、ほとんどささやくような声。
「王は臣下に王として扱われて初めて王となる、という言葉をご存じですか?」
「い、いえ……」
「誰も信じていないのに、一人で自分は王だ、と思いこんでいるのはただの道化でしかないのですよ」
 バルベクト・ユジーヌは、柔和な美しい口調で、的確な判断を簡潔に言う。……そんなイメージを抱いていたエッカートは、遠まわしで含みのある言葉を連ねるユジーヌに戸惑っていた。
 目の前の司祭長は、いったい何を言っているのか。
「教団が一般民から奪い取ることができるのは、彼らがウドゥルグ様を恐れているからです。教団をでなく、ね」
「ど、どう違うと?」
 彼にはユジーヌの言っていることが理解できなかった。産まれた時から教団の一員であり、教義から一歩も出ることのなかった彼にとって、一般民は搾取の対象でしかない。それは永劫に不変の真理であり、その理由など考えるまでもなかった。なぜなら、ウドゥルグの意志は絶対なのだから。
「ウドゥルグ様のご意志を教団が実践していると、あなたは本気でそう思っているのですか?」
「な……なにを」
「700年もの間、一度として教団の前に現われたことのないウドゥルグ様のご意志を、誰がどうやって確認したのでしょう?」
「し、司祭長……」
 背中を汗がつたう。
 冒涜。
 そんな言葉が、エッカートの頭に浮かぶ。
「……まあ、そんなことはどうでもいいのです。ウドゥルグ様への信仰によって、教団と一般民がつながってさえいればね」
「なにが言いたいのです……司祭長」
「おわかりになりませんか?」
 微かに浮かんだ口元の笑みに、エッカートはひどく屈辱を受けた気分になる。
「司祭長」
 エッカートは怒りをあらわにした。
「あなたの話は回りくどい。言いたいことがあれば、はっきり言ったらどうです」
「……ああ、これは失礼」
 余裕を失わない話しぶり。こちらを低く見て、少しずつ追い詰め、いたぶるように話を展開する。
 無礼だ、とエッカートは思う。
 格式の低い家に生まれた分際で、司祭長などという高い身分を得るなど、僭越甚だしい。まして、この慇懃無礼な調子。
 だが、そんな彼の怒りを見越していたかのように、ユジーヌは言い放つ。
「ウドゥルグ様が教団の危機を救うことはありません。その事実を知り、一般民に広げる者は危険ですが、それ以外の者は今の信仰がある限り、教団にとって欠くことのできない資源なのですよ」
「ばかな!」
 エッカートの叫び声が、祈祷室に響きわたった。
「ウドゥルグ様が我々を救わぬだと?」
「では、なぜ救いがあると言えるのです?」
「……それは……」
 エッカートは言葉につまる。
 救いが約束されていたわけではない。だが、それはエッカートにとってあまりにも自明のことだった。
 もしかして、自分が間違っていたのか?
 自分のやっていたことは、まったく意味のないことだったのか?
「資源は無駄にすべきではない。だから処刑も最小限に済ませましょう。……あなたにお任せすると、一般民すべてを虐殺しかねませんからね」
 ユジーヌは丁寧に一礼し、祈祷室を出て行く。
 後に残されたエッカート司祭が何を考えたのかは定かではない。数刻後、彼は自室で死体となって発見された。
 遺書と見られる書き置きには、ウドゥルグ様の真意を尋ねるから暗黒魔法で呼び戻して欲しい、と書かれていた。
 ロルンの魔術師が屍鬼製造の魔法を使ったが、奇妙なことに、幾度試みても成功することはなかった。


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