魔の島のシニフィエ

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第5章 魔の島のシニフィエ

2 意味するもの されるもの

 ゲイン。
 ヘスクイル島北西部にあるこの町に、ドリュキス以外では唯一の港が存在することは、あまり知られていない。波の荒い外海ではなく、河口を少しさかのぼったところにあるその港は、鉱山で採掘された鉱石の荷上げと漁船の基地として細々と使われている。
 その船も、なんの変哲もない近海の漁船に見えた。
 が。
「かわりはありませんか」
 川べりの宿屋の2階で、中年の男が一人、傍らの女に尋ねる。あまりぱっとしない、どちらかといえば凡庸な顔立ちの男だ。仮面を取り去ったバルベクト・ユジーヌであることは、漁船に偽装した船で待機するロルン達以外は知る者もいない。
「はい。全員集結し、ご指示をお待ちしております」
「わかりました。引き続き待機していてください」
 ロルンの女は音もなく立ち去り、ユジーヌは窓の外を見やった。川むこうにゲインの市街が見渡せる。中心部にひときわ高くそびえる尖塔は、ほんの少し前まで教団の聖堂と呼ばれていた建物だ。その正面の広場に大勢の人々が集まっているのが見える。
「ほう」
 彼の口から、感心したとでもいいたげな声がもれた。
「自らお出ましですか。やりますねえ。これは少し急ぐ必要があるかな……」
「何をだい?」
 すぐ後ろで、若い男の声がした。同時に喉元になにかが触れる感触がある。鋭利な短い刃物のようだ。
 まったく気配が感じられなかったにもかかわらず、ユジーヌの口元には笑みが浮かんでいた。
「あなたを待っていましたよ」
「……そりゃ、追っかけてきた甲斐があったな」
 苦笑混じりの声とともに、刃物がすっと引っ込められる。
 ユジーヌはゆっくりと振り向いた。闇色の髪と目を持つ青年がそこに立っている。
「お久しぶり、と言うべきでしょうかね、ガルト」
「ああ。そういうことになるな」
 ナイフを片手でもてあそびながら、ガルトはにやりと笑みを浮かべる。刃物のように鋭く、昏さをうかがわせる目。普段の快活な表情とはほど遠い、だが時折見せて来た一面。
「それで、何用でしょう?」
「逆だぜ、それ」
 ガルトはおかしそうに笑ってみせた。
「俺を待ってたんだろう? ここからすぐにでも逃げ出せるものを、わざわざ宿屋に逗留して。そればかりか、自分はここにいると言わんばかりにゲインの人達をそそのかしてみたり、さ」
「相変わらず頭がいいですねえ。無論、私の招きに気付かず、ゲインの封鎖も突破できないようなら、所詮はそれだけのことだったのですが」
「ち、ドリュキスからはるばるやってきた身にもなれよな」
 ガルトは口をとがらせる。
 一見するとなごやかな会話がかわされているだけにすぎない。殺気だったところも、何もない。それでいて、そのなごやかさが本物ではありえないことを、互いによく承知していた。
 9年前、二人はシガメルデの聖堂で相対していた。降臨した破壊神として捕らわれたガルトに対し、ユジーヌは言葉で少しずつ彼の心を揺さぶっていき、追い詰めていった。心の平衡を失ったガルトは翌日、妹の死をきっかけにシガメルデを壊滅させた……。
 二人が会うのは、それ以来のことである。
 だが、ガルトには以前のような追い詰められた表情はない。
 9年の間に、彼は確実に変わっていた。
「なぜ待っていた?」
 先に尋ねたのはガルトである。ユジーヌはふっと笑みを見せた。
「私とともに行きませんか? ガルト」
「えっ……」
 ユジーヌのその言葉は、さすがにガルトにとっても意外なものだった。一瞬反応に迷うガルトの前で、ユジーヌがさらに続ける。
「もうこの島に、あなたのいる場所はない。『生命の神』として生きるつもりならば別ですが」
「……」
「バートレットは『ウドゥルグ』の意味を書き換えてしまった。それはあなたを別のイメージに縛りつけるだけのことでしかない。この島で、その姿でいる限り、あなたは生命の神でいなければならないのですよ」
「……わかってるさ」
 つぶやくようにガルトは言い、ユジーヌの誘いに答えぬまま逆に問いを投げかけた。
「あんたの目的はなんだったんだ?」
「目的?」
「最初は、俺を破壊の兵器として利用しようとしているのかと思ってた。……少なくとも9年前、シガメルデを壊滅させた時はそうだった。だけど、今はそうじゃない。教団をつぶし、デューイに新しい信仰を説かせてまでやりたかったことはなんなんだ?」
「おや」
 いくぶんからかうような口ぶりでユジーヌが返す。
「まるで私がなにもかもを仕組んだようですね」
「そうだろ? 実際」
 ガルトはあっさりと答える。
「俺があんたの行動を見張っていることを知っていて、わざわざ屍鬼に襲わせたランディとデューイの所に行ったのは、俺に屍鬼部隊を片付けさせるためだった。デューイ一人だけを公開処刑にしたのは、ああいう状況になればデューイが言葉で人々を動かそうとするし、俺達がデューイを助けるために一気に蜂起までことを運ぶってことがわかっていたからだ。だからあんたは、ドリュキスへ向かったと思わせていたロルンを、最初からここに集めていたんだ。あの日で教団が滅びることも予定のうちだったから」
「ふふっ」
 満点に近い答案の唯一の欠点を指摘する教師のような口ぶりで、ユジーヌが答える。
「バートレットの話す内容まで予定していたとは限りませんよ」
「してたさ、あんたなら」
 ガルトは一歩もたじろぐことなく、ユジーヌの余裕ある態度を受け止めている。
「時間がない、しかもやり直しも繰り返しもできない。そんな時に人を動かすのに一番効果的な方法は何か……少なくともデューイが『ウドゥルグはただの記号だ』なんて難しいことなんか絶対に言わないってことを、あんたは知っていた。デューイが自分の意思で、あんたが望むような道を選ぶように、あんたが仕向けたんだ」
「ほう。さすがにあなたには判っていましたか」
「そこまでして、『ウドゥルグ』の意味を変えて、あんたは何を求めてる?」
「そうですね……」
 ユジーヌは笑みを浮かべたまま、語り出す。
「これまで長い間強固な信仰によって意味を与えられていたものが、突如としてその意味を変えられたとしたら、そこから引き出される力はどう変わるのでしょう?」
「……」
「教団がこの島に成立する前は、『ウドゥルグ』のシンボルを描く魔法は『即死』の魔法ではありませんでした。破壊神という意味を与えられたことで、記号を通じて引き出せる力が変質した……その最たる者が、あなたです」
 ユジーヌはゆっくりとガルトを正面から指さした。
「恐らく、ある記号から引き出せる力と本質的に結び付いている人間は、さほど珍しいものではないのでしょう。本人も気付かぬままに。その中であなたが違っていたのは、『ウドゥルグ』が意思と姿を持つ『神』という意味を与えられていたことでした。あなたの姿も死をもたらす力も、破壊神への信仰なくしてはありえなかった。……その意味が変わった時、あなたとあなたの持つ力がどう変わるのかを見たかったのですよ、私は」
 ガルトは黙っていた。ナイフをもてあそぶ手はいつしか止まっている。じっとユジーヌを見る眼の鋭さが、なぜか幾分やわらいでいた。
「……それで、俺に一緒に来いって?」
「それもありますが、あなたにとっても悪い話ではないはずですよ。あなたを理解できるのは私だけです。あなたの仲間達には、あなたが『意味づけられる』ことの重みは理解できない」
「……そっか」
 不意に。
 ガルトが微笑した。刃物の眼ではなく、どこか優しげな表情。しかたないな、とでもいいたげな笑みだった。
 意外な表情に、ユジーヌの顔からは逆に笑みが消える。
「……あんたの言ってることは、正しいんだと思うよ。……確かにあの時から、俺にはひとつひとつの生命の存在がわかるようになった。生命力を回復したり、成長を促したり……記号魔法を使わなくても、今の俺にならできる」
 静かにガルトは言う。
「……だけど、一つだけあんたが見落としてることがある。それでも俺は人間なんだ……ってことだ」
「どういう……ことです?」
「9年前、あんたは言ったよね。俺が人間だから摂理を歪めることもできるって。あれは俺を不安にさせて力を暴走させるための言葉の罠だったんだろうけど、実際その通りなんだよ」
「……」
「破壊神も生命の神も、生命の流れる力を別の方向から見ただけで、どう意味づけられようと、力自体は何も変わらない。変わるのは記号の意味だけなんだ。俺が『ウドゥルグ』という言葉や記号が指すものとつながっていても、俺という人間に意味を与えることができるのは、『ウドゥルグ』を信仰する人々じゃない。俺自身なんだ」
「……」
「俺は9年前にあんたが言った通り、ただの人間だ。破壊神と呼ばれることや、ロルンの追手を気にすること、それに島の人達が無駄に殺されて行くことがイヤだったからっていうだけで、みんなを巻き込んでこの島に騒ぎを起こした……そして、沢山の人を殺してきたことがやりきれなくて、あんたに八つ当たりみたいな復讐をしてやろうとここまでやって来た。……そんな、それだけのちっぽけでつまんない人間だ。それがわかっているから、今の俺は生命の神にでも破壊神にでもなれる。どちらの力も使えるし、どちらの役割も演じることができるんだ」
「……」
 長い沈黙。ユジーヌは先刻から、何も言葉を返していない。
「……どうやら……」
 やっと沈黙を破ったユジーヌの声はかすれていた。言葉に力が感じられない。
「私の負けです。あなたを甘く見ていました」
「?」
「9年前ならいざ知らず、今のあなたは私の言葉にはもはや惑わされない。神というイメージすらもあっさりと乗り越えてしまえるほどに、意味するものと意味されるものの本質を知ってしまったあなたは、もはや私が制御できる範囲を越えてしまったようです」
「……」
「私は、言葉で人を操ってきました。どのように言えばどんな行動を取るのか、それがどういう事態を引き起こすか、予測できぬことなどなかった。9年前、あなたを島から逃がしてしまったこと以外は。それ以来私は、あなたが私を殺しに帰って来るのを待っていました」
「俺が帰らないとは思わなかったのか?」
「あのできごとを封印してそのまま生きていくほど、あなたが無神経だとは思いませんからね。そしてその矛先を向けるべき相手は私……だから、ここまで来たのでしょう?」
 やや軽口めいた言葉を使ってはいるものの、ユジーヌはひどく沈鬱な口調で淡々と語る。
 まるで、懺悔のように。
「私はもう一度あなたと戦いたかった。私の武器である言葉で。あなたの破壊神の力を私の言葉で奪い、変えることができるのか、試してみたかった……」
 自嘲的とも取れる言葉。
 ユジーヌは小さな瓶を取り出し、中の緑色の液体を一気に飲み干す。その一連の動作はあまりに自然でよどみがなく、ガルトが止める間もなかった。
「ユジーヌ……」
「こうなることを、私はどこかで望んでいたのかも知れない。私を越える者に全力で挑み、敗れることを……」
 つぶやくようにユジーヌは言い、ゆっくりと床にくず折れていった。
 ガルトは立ったまま、その様子をじっと見つめていた。ロルンで調合される毒薬。助かりようのないことは瞭然である。
「……敗れる、か」
 息絶えたユジーヌの身体。彼もまた、生命の流れの中に還って行く。
「何が勝つってことなんだ? 生き残ることか? おのれの道を歩むことなのか?」
 ガルトは「敵」であったはずの男の死体に話しかけるように続ける。
「ユジーヌ。俺には時間がなかったんだよ」
 誰にも明かしたことのなかった秘密。
「記号って媒体なしに生命の力を使うことなんて、人間の身体には無理なことなんだ。あんたは知らなかったろうけど、俺は自分の命を削ってこの力を使ってた。……あと1年か2年しか、俺の命はもたない。それまでに9年前の決着をつけたかっただけなんだよ、俺は」
 革命として、恐らく歴史に記される事件。
 だが、そこに関わった者達の思惑がいかに食い違っていたのかは、歴史に残ることはないだろう。
 だが、一つだけ共通するものがあるとするならば。
 誰もが自分と自分の大切なもののために、「ウドゥルグ」という記号に新たな意味を与えようとしたのだ。
 デューイもユジーヌも、そしてガルトも。


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