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1・死者の叫び
ゴォォォォ……。
風が吹きすさぶ。
島全体を冷たく荒れた風が駆けぬける。
ヘスクイル島の冬の訪れを告げる北風。
島の人々はこの風を「死者の叫び」と呼ぶ。高く低く音を立て、夜通し吹きつける風はなるほど、無念のうちに死んでいった者達の呪詛の声に聞こえなくもない。ダーク・ヘヴン――暗黒大陸と呼ばれ、恐れられるこの島に吹く風に、実にふさわしい名前だ。
今年もまた、その風の吹く季節がやって来た。
港町ドリュキス。
ヘスクイル島……「ダーク・ヘヴン」の中で最も活気にあふれた町である。
港近くには今日とれたばかりの魚や、どこか島の外から仕入れたらしい様々な品物を売る店が軒を連ねている。
売る者がいれば、買う者もいる。一見して町の住人とわかる者の他にも、海から帰ってきたばかりの船乗りや巡礼の信徒らしき旅の者が、通りを歩きまわっている。
表向き他国との交渉のないヘスクイルだが、ここドリュキスに限っては、覆面商人――ヘスクイルの者ということを隠して島外へ赴き、商品の売買を行う商人――が黙認されていた。
人通りの多さも売り手の声も、港町ならばありふれた風景だ。
だが、人々の表情に、時折陰りがよぎる。
まるで何かにおびえているかのように。
今の活気が、うわべだけのものでしかないことを、皆が知っているかのように。
ここはダーク・ヘヴン。
暗黒大陸と呼ばれる、北の果ての地。
来るべき破壊神の降臨と世界の破滅に恐れおののく者達、そしてそれを利用しようとする者達の島。
港近くの裏通りに「黒猫亭」はある。一階が酒場、二階が宿屋になっている。港を利用する者達の拠点の一つだ。
なんといっても、昼間から強い酒を出してくれるのがいい。ドリュキスはヘスクイルの中では比較的温暖な気候の町であるが、それでも冬の寒さはなかなかに厳しいのだ。
とはいえ、昼すぎにはほとんど客はいない。
その日の客も、船乗りらしき男二人と、たった今入ってきたばかりの十四、五歳の少年だけだった。
「見たか? 港に入ってた船」
船乗りの一人が、連れに言う。
「死の船か」
ヘスクイルには、大規模な暗殺組織「ロルン」がある。
ロルンとは、破壊神ウドゥルグを崇めるヘスクイル教の下部組織である。ロルンの暗殺者は、司祭の命令によって儀式の生贄を殺し、また島外からの依頼を受けて島外の要人を暗殺する。ドリュキスはその窓口でもあった。
そして、暗殺者を乗せた船を「死の船」と呼ぶ。船首の破壊神像が目印だった。
「ロルンの奴等が帰って来たんだな」
「またどこかで人殺しをしてきたんだろうよ」
「なんであんな奴等がのさばってるんだかな」
「そりゃあおまえ、『ウドゥルグ様』のためだよ。血が流れれば流れるほど、ウドゥルグ様の復活が近づくってんだからよ」
「ああ。だけど俺は嫌だぜ。破壊神が支配する世の中なんて」
「まったくだな」
よくある世間話だ。教団の者に聞かれれば無事では済まないが、教団の者がこんな酒場に来ることはまずないし、この店の店主は客の話したことを教団に密告するような者ではない。
が。
「おっさん」
不意に、船乗り2人に声をかけた者がいる。もう一人の客の少年だ。
「あー? なんだよ坊主」
船乗り達は、やや酔いのまわった目で少年を見た。
漆黒の髪と目。顔だちはまだ幼さを感じさせるが、それでいて身にまとう鋭利な刃のような雰囲気は、奇妙に大人びた印象をも与えている。額にはほくろが一つ。
少年はにやりと笑う。
「そういう話には気をつけな。どこで誰が聞いてるか、わかったもんじゃないからな」
「なんだと? 小僧が……!」
船乗りの一人が、明らかに気分を害したように立ちあがりかける。が、もう一人がそれを止めた。
「よせ」
「うるせえな、なんで邪魔するんだよ」
「見ろ、そいつの左手を」
テーブルの上に何気なくつかれた少年の左手に視線が注がれる。
小指に指輪がはめられていた。金にブラックオニキスがちりばめられ、一つだけルビーが赤くきらめいている。たかだか十代前半の少年には、いくぶん似つかわしくないように思われた。
が、それを見た船乗りは顔色を変えた。
「ま、ま、まさかそれは……」
「そうさ」
少年は目を細めた。
「噂のロルンの暗黒魔術師だよ」
ロルンは暗殺組織である。従って暗殺者達はそれとはわからぬように変装しているのが常である。暗黒魔術によって暗殺を行う者が、魔術師とわかるような格好をすることはほとんどない。杖すら持たず、指輪や首飾りなどの装身具によって杖と同じ効果――精神集中を高め、呪文の効力を強める効果――を得る。
少年の指輪は、その証しだった。
「ひ……」
船乗り達の酔いが一気に醒めた。慌てるあまりに椅子を倒して立ちあがる。客のいない酒場に、その音は大きく響いた。
「み、見逃してくれ。悪気はなかったんだ」
どう見ても20は年下の少年に向かって、船乗り達は媚びるような目つきをしながら後ずさる。ひけた腰が、「ロルンの暗黒魔術師」の恐怖を雄弁に語っていた。
少年は刃物の目で薄く笑う。
「酔ってただけなんだ、信じてくれ……」
半ば恐慌状態の船乗り達に、少年は答える。
「何をだい?」
「……へっ?」
「俺は何も聞いちゃいねーよ。おっさん達、夢でも見たんじゃねーの?」
「……?」
二人は顔を見合わせる。少年は口の端に笑みを浮かべたままだ。だが、それは一般に言われているような、ロルンの暗殺者の残忍な笑みではない。
いたずら好きの少年のような表情が、刃物の目にちらりと見え隠れしている。
――なかったことにしてくれるんだ!
二人がそれに気付くまでには、しばらく時間がかかった。
気付いた二人は、そそくさと席を立ち、飛び出すように店を出ていった。
店のドアを出る直前に、一方が振り向く。
命拾いしたぜ――顔にはそう書いてあった。
黒猫亭の主人ゲイリー・クランジェは、奇妙な驚きをもって一部始終を見ていた。
ロルンやヘスクイル教、そして彼らが信仰する破壊神ウドゥルグを誹謗した者がその場で無残な殺され方をするのを、ゲイリーは幾度となく見てきたからだ。
だからこそ、酒場の主人という表向きの仕事の傍らで、信徒や司祭に狙われた人々を島の外へ脱出させる「渡し屋」として密かに活動しているのだ。
だが、少年の行動はロルンの暗殺者らしからぬものだった。
見逃すとは。
カウンターに座りなおして、年齢不相応な強い酒を注文する少年を、ゲイリーはそっと観察する。
彼はゲイリーが見てきたロルンの者達とは明らかに異なっていた。
強い意志を秘めた目だ。命令のままに人を殺し、破壊神に血を捧げるようには思えない。
少し興味がわいた。
ロルンの者に下手に関われば、命の危険にさらされる。だが、少年に対する興味の方が強かった。
ゲイリーは酒を少年の前にとんと置き、いかにもついでといった風に話しかけてみる。
「死の船で外から帰って来なすったんで?」
少年は闇色の目でゲイリーを見た。この島には珍しい髪と目の色である。
「……ああ」
「仕事、ですか」
「そうさ」
少年は酒を一息にあおる。
「俺は人を殺して来たんだ」
どこか吐き捨てるように、そう言う。
その目から、はからずもこぼれ落ちた一粒の涙を、ゲイリーは見逃さなかった。
「!?」
少年自身が一番動揺している。
「……畜生……」
うつむいて少年がつぶやく。
どう見ても、それは暗殺者の態度ではない。
グラスが空になっている。ゲイリーは同じ酒を少年の前に置いた。
「?」
頼んでないぜ、というような表情で、少年が顔を上げる。
「私からのおごりですよ、どうぞ」
少年はまだ怪訝な顔をしていたが、ゲイリーが笑ってみせると、やっと笑いを返した。
「……ありがとう」
少年は不器用な礼を述べた。
少年は相変わらずうつむいたままだったが、ゲイリーが問いかけるとぽつりぽつりと答えた。
ロルンで暗黒魔術師として修行を積んできたこと、一人前と認められ、暗殺者の刻印を受け、初めて人を殺して帰ってきたところだということ……。
少年が暗殺者らしくないのは、経験の浅さのせいかも知れない。
いや――。
(それだけじゃない)
ゲイリーはそう感じた。根拠はない。ただ、ロルンにいてなお意志の強さを失わない目が気にかかるのである。
「死者の叫び」が吹きすさぶ季節、少年の他に客はいない。
秘密めいた話をするにはうってつけの時期だ。
思い切って口に出してみる。
「失礼ですがお客さん、とてもロルンの方には見えませんでしたよ」
「だろうな」
少年は小さくため息をつき、意外な一言を口にした。
「俺、あいつら嫌いだから」
ゲイリーはしばしあっけにとられた。
ロルンの暗黒魔術師が、そのようなことを言うとは。
「どうして……」
言いかけた言葉を、ゲイリーは慌てて呑みこむ。だが、少年は自分から続けた。
「どうしてかって? 嫌いなものは嫌いなんだよ」
「いや、しかし……」
そんな彼が、なぜロルンにいるのか。
あからさまな疑問の表情を呈するゲイリーに、少年は苦笑する。
「昔な……」
「は?」
「あるところに、一組の夫婦がいたんだ」
「はあ」
酔いのせいもあるのだろうか、少年は話したがっているようだ。ゲイリーはそれに気付き、少年の語るに任せた。
一組の夫婦がいた。
長い間子どもに恵まれなかった彼らは、それゆえに男の子が生まれた時の喜びも大きかった。
だが、喜びはやがて不安に変わる。月に一度の例祭の折、破壊神に捧げられる生贄は、生後一年未満の赤子と決まっているからだ。
せっかく生まれた自分達の子どもを、破壊神に捧げたくはない――、親としてはもっともであるが、この島の住人としては表に出してはならない考えを彼らは抱いた。そして子どもを生贄にしないための方法を探し求めた。
方法は容易に見つかった。
破壊神に一生を捧げると誓った者とその家族は生贄のくじから外される。
具体的に言えば、信徒か司祭になればよい。だが、そのためには教団への多額の寄付が必要であり、なおかつ司祭や司教といった幹部クラスから信任を得ねばならない。それほど裕福ではない一般市民の夫婦には不可能な話だった。
残された最後の手段。
一般市民にも容易に信徒と同等の地位を手に入れる方法が一つだけあった。
ロルンに入り、暗殺者となることである。
それは、人の血で手を汚し、人々に恐れられながら一生薄暗い道を歩んでいかねばならないということだ。本人だけではなく、家族すらも後ろ指を指されて生きていくことになる。だが、夫婦は赤子をなんとしてでも助けたかった。
――暗殺者でもいい、生きていてくれたら。
――自分達の評判などよりも、子どもの命の方が大事だ……。
そして赤子は五歳になった時にロルンに入るという条件と引き換えに、一年間の身の安全を保証されたのである。
だが――。
人の心は不変ではない。夫婦がその決断を後悔するのに長くはかからなかった。
しかも、2人目の子どもが生まれたとあっては。
まして、ロルンに無理矢理入れられた子どもが、皮肉にも暗黒魔術師としての才能をめきめきと伸ばしているとあっては。
夫婦は自分達の決断を悔やんだ。だがどうにもならないと悟ると、そのやり場のない怒りは当の息子に向けられた。
息子は両親に疎んじられていることに気付いたが、どうすることもできなかった。
「……それでどうやってロルンを好きになれるっていうんだ?」
少年はつぶやく。
少年の語った物語がほかならぬ少年自身の話だということに、ゲイリーは気付いていたが、あえて語らず、少年の話に耳を傾けていた。
ロルンの暗黒魔術師など「破壊神の意志」とやらのもとに盲目的に従っているだけの人間だと思っていた。だが、そうではないらしい。
(ロルンにもちゃんと”人間”がいるんだな……)
ゲイリーはそう思う。そして同時に、少年の境遇に同情せずにはいられなかった。
他の客がぽつぽつと入って来るころ、少年は立ち上がった。
ゲイリーは思わず尋ねていた。
「名前は?」
「ガルト……ガルト・ラディルン」
ちょっとだけ笑みを見せる。
それが少年の名だった。
2・破壊神ウドゥルグ
確かにガルトは他の暗殺者とは違っていた。そしてそのことは、ガルト自身が最もよく知っている。それは両親とのわだかまりのせいだけではない。
黒猫亭を出て、中心部にある礼拝堂へ向かう。ロルンはヘスクイル教の下部組織であるから、朝夕の礼拝への出席が義務づけられているのである。
(でなけりゃ、誰が出るもんか)
ガルトはつぶやく。
ヘスクイル教徒と呼ばれる立場にありながら、彼はヘスクイル教に関するすべてを嫌っていた。そしてヘスクイル教の根幹をなす欺瞞に気付いていた。
礼拝堂には既に大勢の人が集まっていた。普段着の者は信徒かロルンの者。黒のローブを着て白い仮面をつけているのが下級司祭、同じローブに青い仮面が中級、赤い仮面は上級司祭である。地区ごとに定期的な出席を義務づけられている一般市民もいるが、信徒との区別がつかない。
ざわめいていた群衆が、波がひくように静まり返っていく。
赤い仮面の上級司祭が一人、祭壇の前に立つ。
祭壇の中央には黒い石像が一体安置されている。長い髪の男性、額に額飾りをつけ、恐ろしげな甲冑に身を固めている。
ヘスクイル教の神、破壊神ウドゥルグの像。
額飾りに縁取られて、眉間に第三の目が開いている。生きるものすべての生死を左右する目と言われている。
「死をもたらす破壊神よ!」
祭壇の前の司祭は、像に向かって祈りの声を上げる。
「死をもたらす破壊神よ!」
群衆がそれに唱和する。
「来るべき破滅の世に」
「来るべき破滅の世に」
「我等を救い」
「我等を救い」
「汝の王国を打ち立てたまえ」
「汝の王国を打ち立てたまえ」
司祭の言葉に続いて、群衆が同じ言葉を復唱する。
ガルトも口を動かしていた。
動かしているだけである。
実際には何もしゃべってはいない。だが、唱和している振りだけでもしておかないことには、あとでどんな面倒が起きるかわからないのである。
それでも、ガルトは内心ばかばかしくてやっていられない心境だった。
破壊神ウドゥルグが人間の姿で降臨し、この世を「死界」と呼ばれる死者の世界に変える――それがヘスクイル教の教義である。この世が死界となっても、破壊神に従う者だけは死を超越し、死界に君臨することができるのだという。
破壊神の降臨には多くの犠牲が必要であり、破壊神像にかかる血が多いほどに降臨の日は近づくとされていた。
嘘だ。
それがまるきりの嘘だということを、彼は知っていた。
像を幾分にらみつけるような表情で、ガルトは偽りの信徒を演じる。
ウドゥルグの存在を信じていないわけではない。信じないわけにはいかない。
なぜなら……。
彼がまさしく「ウドゥルグ」であるからだ。
おぼろげではあったが、彼は人とは異なるものを感じる力を持っていた。
生命の流れ――生まれ、死に、死者のいるべき所へ帰り、新たな生を繰り返す――それは自然の摂理である。その摂理の一部であるという感覚を、彼ははっきりと感じることができる。
形も意思もなく、だが確かに存在する力。「ウドゥルグ」と名づけられたその力は、はじめはただの「力をあらわす記号」でしかなかった。
だが、人は死を恐れ、死をも含む生命の流れの抗し難い力を恐れる。
次第に人々のイメージの中で、その力は恐ろしいものとして受け止められるようになり、やがて「ウドゥルグ」は恐ろしい破壊の神という人格を与えられるようにようになっていった。
ガルトは普通の家庭で、平凡な人間として生まれた。だが彼は同時に、生命の摂理の力が具現した存在であった。それだけならばまだ、特別な力の持ち主というだけであるが、問題は、破壊神ウドゥルグに与えられた人々のイメージの影響を、彼もまた受けてしまうということだった。
両親や妹とは違う――この島では滅多に見られない――闇色の髪と目。伝えられる破壊神と同じ色だ。
額のほくろも、ちょうど破壊神の第三の眼と同じ位置にある。
そして――。
詠唱が終わると、祭壇の前に一頭の犬が引き出されてきた。傍らに、大剣を持った男が立っている。ガルトと同じロルンの一員であるが、覆面で顔はわからない。
犬の足元には、金の大皿が置かれている。
司祭が高らかに叫ぶ。
「破壊神ウドゥルグよ、今ここに犠牲を捧げ、降臨を祈願するものなり!」
大剣が振り降ろされる。
悲鳴ともうめきともつかぬ奇妙な声を上げ、犬の首から血が吹き出す。
完全に切断しきれなかった犬の首は、それでも骨を断ち切られ、真下の大皿に向けて落下する。
僅かばかりの筋肉と皮でつながった胴体が、首に引きずられるように倒れこんだ。
あたりには犬の血飛沫が飛び散っている。無論正面の破壊神像も、血を浴びてぬるりとした光沢を放っている。
ガルトはかすかに表情をゆがめる。
自分が血を浴びたような感覚が、はっきりと感じられる。
今に始まったことではない。
確かに、彼は生贄の血を浴びつづけてきた。赤ん坊の時には、礼拝に参加してもいないのに、生贄を捧げる時刻になると火がついたように泣き出したという。
彼だけが知る秘密。
ウドゥルグはとうに降臨している。ガルト・ラディルンという人間として。
それでも彼は破壊神ではない。
そのはずだった。
3・発覚
数日後。
ヘスクイル島南西部の街、シガメルデに近い小さな村、アズレン。
「お兄ちゃん!」
振り向いた少女の顔がぱあっとほころぶ。
「おかえり」
「ただいま。元気にしてたか?」
ガルトは微笑した。妹のエリア。今年12歳になったばかりだ。
ロルンには宿舎があり、暗殺者達はそこで過ごす。養成所時代には年に幾度かの長期休暇があり、その時は家に帰ることを許されるが、教団の教育を受けた子ども達は帰らずに過ごすことが多い。ガルトのように「暗殺者の刻印」を受けたものは、比較的行動が自由になるが、やはり家に帰るものは稀だ。教団こそが居場所だと思えばこその話であろう。
ガルトはそんな中で、できる限り家に帰るようにしていた。
はじめのうちは両親も息子に会うことを喜んでいてくれたのだが――。
「元気よ。父さんや母さんたちには会った?」
「……うん」
両親にはごく儀礼的な挨拶をしてきたばかりだ。それ以上に言う言葉が見つからない。相変わらず両親には疎んじられたままである。
エリアだけが、ガルトの味方だった。
だからこそ、ガルトは家に戻る。妹の喜んでくれる表情だけが、彼にとって救いであったのだ。
「エリア、これ」
無造作にポケットからペンダントを取りだし、エリアにつき出す。淡い色合いのムーンストーン。島外の土産である。
「これって高いんじゃない? もらっていいの?」
「そのつもりで買ったんだってば」
「わぁい、ありがとう、お兄ちゃん」
エリアの笑顔を見ていると、心が安らぐ。無邪気に振る舞ってはいるが、決して兄と両親の事情を知らないわけではない。それでもことあるごとに兄を理解し、庇おうとしてくれる。
無論エリアとて、ガルトの正体を知っているわけではない。だが、世間ではロルンの暗殺者というだけで、十分すぎるほどに爪はじきの対象となりうるのだ。それでも理解者であろうとするエリアは、ガルトにとってなくてはならない存在だった。
「ね、似合う?」
ペンダントを早速つけ、エリアは問う。
やわらかい輝きの宝石は、花がほころぶように可憐に笑うエリアに似合う。ガルトがうなずいたのは言うまでもない。
「エリア!」
隣室から母の声が聞こえた。
「何してるの、こっちに来て手伝いなさい!」
ヒステリックな声。ガルトがエリアと話すことが気に入らないのであろうか。
「はーい」
返事だけしておいて、エリアはガルトに向かって言う。
「嫌んなるよね。お兄ちゃんにはなかなか会えないってのに、貴重な時間も取り上げようとするんだから。私がくじ引かずに済んだのだって、お兄ちゃんのおかげなのにね」
「……忙しいんだよ、母さんも。俺は気にしてないから、行っておいで」
まるで模範生のような言葉だと自分でも思いながら、ガルトは笑ってみせた。
その頃はまだ、それでも平和な日常だったのかも知れない。
それから半年もした頃だろうか。
長い冬が終わり、やっと生命が大地のそこかしこから芽ぶくようになってきた頃。
ガルトは何度か島外での仕事を経て、一人前の暗殺者として認められるようになっていた。暗殺者として認められても、彼にとってはあまり嬉しいことではなかったが。
その日は、シガメルデにあるロルン付属の魔術研究所で、新しい魔法を学ぶことになっていた。養成所を終えても、時折このような学習の時間が設けられている。
研究所の一室で、ガルトの他に数名の若い魔術師が講義を受ける。
「今日の魔法は、ちと高度なものじゃ。心するように」
講師の老魔術師は、そう前置いて講義を始めた。
魔法は、死者を蘇らせて意のままに操るというものである。ウドゥルグをあらわすシンボルを使う、最も高度な魔法のひとつであった。
一通りの理論と描くべきシンボルの説明が終わると、老魔術師は実習に移った。
「それでは、実際にやってしんぜよう。よく見ておくように」
助手が運んで来たのは、コウモリの死骸だった。老魔術師はその前で、先刻黒板に描いたシンボルを宙に描き、発動のことばをつぶやく。
が、何も起きなかった。
死骸は死骸のままだった。
「む……?」
再度試みるが、結果は同じだった。
「おかしい。失敗などするはずは……」
額に浮かぶ汗を拭いながら、老魔術師は落胆した面持ちでつぶやいた。
死者を蘇らせる魔法の失敗。
一度や二度ならば、偶然で済んだであろう。だが、偶然と片付けるにはあまりに頻繁に、それは起こった。
ロルンの上層部も、不審を抱き始める。
彼らが魔法の失敗する時の共通項に気付くまでに、さほど時間はかからなかった。
魔法が失敗する時。
ガルト・ラディルンが必ずそばにいた。
ロルンのシガメルデ支部で、緊急の協議会が開かれた。何が魔法を失敗させるのか、その現象がガルトとどのような関係にあるのか……上層部の司祭達には、見当もつかなかった。
が。
「その少年に話を聞いてみてはいかがです?」
首都レブリムからやって来た上級司祭が提案した。バルベクト・ユジーヌという、その司祭の名を、ロルンで知らない者はいない。ヘスクイル教の頂点に立つ教皇に次ぐ権力者だと言われている。
協議の間、仮面の下に表情を隠しながらじっと考え込んでいた、この高位の司祭が初めて発した言葉に、その場の一同が賛成する。
「しかし……話を聞いて何かわかるのでしょうか」
かなり遠慮がちに、中級司祭の一人が尋ねる。ユジーヌ司祭の答えはあっさりとしていた。
「さあ……もしかすると、我々の待ち望んでいるものが手に入るかも知れません」
「……は?」
あまりに謎めいた言葉に、一同は首をかしげる。だがユジーヌはそれ以上語ろうとはしなかった。
ガルトは修養室に呼び出された。
講師だった幾人かの魔術師と、青い仮面の中級司祭が一人。
「ラディルン君」
中級司祭がまず口を開いた。
「君がいると、死体制御の魔法が成功しない。なぜだ?」
「わかりません」
無愛想にガルトは答える。理由を知らないわけではない。彼の持つ摂理の力のせいだ。一度断たれた生命を呼び戻すような、摂理に反するまねを、摂理の力の象徴の前でできるわけがない。
だが、司祭達の前でそんな理由を言えるはずもない。だから彼はうまくごまかし通すしかなかった。だが、やり過ごすには、彼はあまりに反抗的な目をしていた。
「何か心あたりがあるのではないかね?」
「あるはずがないでしょう」
「ラディルン君」
老魔術師が横槍を入れて来た。
「おぬしは若さの割に優秀な魔術師じゃが、どうにも反抗的過ぎる。ウドゥルグ様のみ心にかなわずば、破滅の時に救われぬぞよ」
ガルトはかなり怒りを感じていたのだが、なんとか堪えていた。
が、老魔術師はさらに追いうちをかける。
「死体制御の呪文はウドゥルグ様のお力によるもの。おぬしはウドゥルグ様を怒らせることをしたのではないかね?」
「……」
「暗殺に気が進まなかったか、修行を怠ったか、何か思い当たることはないかね?」
たび重なる的外れな追求に、ガルトは思わずこう叫んでいた。
「ウドゥルグを……俺を怒らせてるのはあんたらなんだよ!」
気付いた時には遅かった。
かっとなるあまりに、決定的な言葉を口走ってしまったことを、ガルトは認めざるを得なかった。
「な……」
「今なんと……」
その言葉の意味に気づいた司祭達に、明らかな動揺が走る。
ガルトはやにわに、机の上にあった本を司祭達に投げつける。
彼らがひるんだ隙に、彼は部屋を飛び出す。
「あっ、ま、待て……!」
叫ぶ声に耳を貸さず、ガルトは走り去った。
「まさか……」
部屋に残された司祭達は、呆然とつぶやく。
ロルンの一暗黒魔術師、それもまだ15歳の少年が、自分がウドゥルグだと口走ったのだ。
どうしたものか、彼らにはわからない。
「騒がしいですね、どうなさいましたか?」
そんな声とともに、ドアが開く。その場にいた者達が居ずまいを正す。
赤い仮面。上級司祭である。丁寧すぎるほどの言葉づかいから、それが上級司祭のバルベクト・ユジーヌであるとわかる。
「じ、実は……」
中級司祭が事情を話す。ユジーヌ司祭の頬がぴくりと動いた。
「そのガルトとかいう少年が、ウドゥルグ様だと……?」
「は……本人はそう申しておりました」
「……本当に現れるとはな……」
ユジーヌの声は、ほとんどつぶやきに近かったので、周囲には聞き取れなかった。
「して、その少年の実家は?」
「アズレンに……」
「わかりました。私がアズレンに先回りしてウドゥルグ様をお出迎えすることと致しましょう。馬を用意なさい」
仮面の奥で、ユジーヌの目が不気味な光をたたえている。
ユジーヌは、何を計画したのか、喉の奥でくっくっと笑った。
ガルトは走った。
あてはない。だがロルンに戻るわけにはいかないのだ。
確かに彼は、ウドゥルグと呼ばれて来た者である。だが、破壊神ウドゥルグが持つと信じられている力を持っているわけではない。
摂理の力は生命あるものすべてに働くと言われる。その力を引き出すために「シンボル」を用いるのが暗黒魔術だ。だが、自分自身にそなわった力をどのように制御してよいのかを、彼はまだ知らない。
暗黒魔術の失われた呪文を密かに研究するなどして、信徒達に対抗する方法を見つけようとしてはいた。だが、決定的に効果のある方法はまだ思いつかず、今に到る。
正体を明かすには、まだ早すぎたのだ。
己の軽率さを悔やみながら、彼は走る。
アズレンの家に。
家にももういられないだろう。だが、追手がかかる前に、逃げる準備をしなければならない。それに、エリアにも一目会って別れを告げたい。
時間は残されていない。
彼は走りつづける。
そして家に着き、扉を開け、はっと立ちすくんだ。
赤い仮面の司祭が、家の中にいた。
4 兄妹
ガルトは立ちすくむ。
そういえば家の外に、馬がつないであった。
「これは……」
司祭はやけに仰々しくひざまずく。
「お待ちしておりました、ウドゥルグ様」
「や、やめろ……」
震える声をガルトは絞り出す。視野の片隅に、青ざめた両親の姿が見えた。
エリアまでもが、そこにいた。
「おや、どうなさいました?」
赤い仮面の司祭は、その恭しい態度を続ける。
「破壊神ともあろうお方が、かりそめの家族にとらわれて、大事な目的をお忘れになるようでは困ります。どんな策略ゆえに今まで、こんな片田舎でただの人間の振りをなさっていたのですか?」
「言うな……それ以上……」
ガルトの声は、ひどく弱々しかった。司祭の一言一言が、心に突き刺さるような気がする。
「まあ、仮の姿とはいえ、ご家族を思うお気持ちもよくわかります。明朝迎えをよこしますゆえ、今夜は人間としての最後の夜をお楽しみになって下さい」
司祭はゆっくりとガルトに歩みより、すっとすれ違ってドアを開け、出て行った。
すれ違う時にガルトが見た仮面の下の目は、言い知れぬ冷たい光をたたえていた。
ぞくりと身体が震える。なぜかはわからない。だがあの司祭はただ者ではない……ガルトはそう悟っていた。
だが、今は司祭のことを考えているゆとりはない。
ガルトは恐る恐る家族の顔を見た。
明らかな恐怖と嫌悪の表情。
両親の後ろに隠れるように、エリアが青ざめた顔をしている。
断ち切られた絆。
沈黙を破ったのは、ヒステリックな母の声だった。
「やっぱり……おまえは私達を不幸にするために生まれてきたんだわ」
ガルトは答えない。言葉の一つも出せない。
疎んじられていたにせよ、こう直接的に存在をなじられるとは。
思わず目をそらすガルトに、母親はさらに追いうちをかけた。
「おまえなんて生まれてこなければよかったのよ!」
「やめなさい」
父親が制止する。だがそれは、ガルトを思いやってのことではない。
「破壊神なんだぞ、怒らせたら何をされるか……」
そう母親にささやく声が、ガルトの耳にも届く。
「誤解だ……俺は……」
思わず一歩踏み出した瞬間。
「いやああぁっ!」
母親が悲鳴を上げた。
「来ないで、こっちに来ないでーっ!」
「……!」
ガルトは立ちすくんだ。父親が母親をかばうように立ち、静かに言う。
「頼むから出て行ってくれないか。なぜわしらなんぞの子どもとして生まれたのかわからんが……これ以上わしらに関わらないでくれ」
ガルトはうなだれた。
もはや一片の修復の余地も残されてはいない。
視野の片隅で、エリアがくるりと振り向き、奥の部屋へと駆け込むのが見える。
それを見た時、ガルトの意志は決まった。
無言のまま、両親に背を向ける。
胸がつかえたように痛かった。
息をするのも苦しかった。
扉を閉め、一人歩き出す。
恐らくあの司祭は、こうなることを計算した上で、わざわざアズレンまでやって来たのだ。ガルトから人間としての暮らしを奪い去るために。
彼は独りぼっちだった。
エリアさえも、彼に背を向けて逃げて行ってしまった。
もう、この故郷には帰れない。
彼は島外へ出ようと決めていた。ドリュキスに行けば、島外へ出る手筈を整えてくれる「渡し屋」がいるという。いったん島から逃れ、いつか力をつけて戻って来るのだ。
だが、ドリュキスまでの旅費も食料もない。
どうすればよいのか。
ぱさっ。
何かが服に当たった。振り向いたガルトは、目を丸くする。
エリアだ。
家の窓から身を乗り出し、しきりに地面を指さしている。ガルトが足元を見ると、今服に当たって落ちたとおぼしき、丸めた紙が落ちていた。
拾い上げて開いてみる。錘がわりにくるまれていた石を取り、書かれているメッセージを読む。
「夜に見晴らしの丘で待ってて」
エリアの字で、そう書いてある。
ガルトは慌てて顔を上げた。だが、窓にエリアの姿はなかった。
「アズレンの様子はどうですか?」
突然のユジーヌの問いに、シガメルデの下級司祭は面食らう。
「は? あの……別に何も変わったところはないかと……」
「そうですか……それは、残念ですね」
下級司祭には事態が読み取れなかった。
「あ、あの、アズレンでなにか……」
「あなたが知る必要はありませんよ」
丁寧でかつ、歌うような美しい声だった。だが、その陰に潜む猛毒ははかり知れない。下級司祭は出過ぎた質問をしてしまったことを悟った。
「も、申し訳ございませんっ!」
「どうやら、追いつめ方が甘かったようですね……」
ユジーヌはつぶやく。下級司祭の言うことなど聞いてはいないかのようだった。
「出かけてきます。馬の用意を」
ユジーヌにしてみれば、周到に計算された行動であるのだが、周囲の凡人には、その意図がすぐにはわからないことがままある。
下級司祭にもユジーヌの言葉は突飛だとしか思えなかったが、それでも命令には従う。
馬にまたがり、シガメルデの教団施設を後にしようという時、ユジーヌはふと思い出したかのように下級司祭の方を向く。
「ああそうだ。あなたには明日、重大な仕事をしてもらうことになります。そのおつもりで」
馬を駆って夜も更けたシガメルデを北に向かうユジーヌを、下級司祭は見送る。
ユジーヌの言っていた「仕事」について、彼はこの時はまだ理解していなかった。
見晴らしの丘は、アズレンの北東の外れにある小高い丘である。頂上からシガメルデやロヴァイユといった周囲の町や村が一望のもとに見渡せることから、この名がある。丘の北東部は崖になっていて、崖下には鬱蒼と茂った森がある。この針葉樹の森はずっと東へ伸び、島の四分の一を覆う広大なものであり、モンスターなども多いことから「デスフォレスト」と呼ばれている。
崖の上から、ガルトは黒いデスフォレストを見渡していた。
人知れず東のドリュキスに向かうには、デスフォレストを抜けるのが最も早道だ。だが、未だ謎の多い森を抜ける旅の困難は想像に難くない。
どうしたものだろう。
半月が森を照らす。
エリアがどういうつもりであの紙を渡してくれたのか、ガルトには見当がつかなかった。とりあえず、言われた通りに丘の上で待つこと数刻。
そろそろあきらめて旅立とうかと思っていると、エリアの声が聞こえた。
「お兄ちゃーん」
エリアが小走りに斜面を駆け上がって来る。手には旅人用の皮袋を持っていた。
「母さん達が寝るの待って抜け出してきたから……」
そう言いつつ、エリアは皮袋をガルトに手渡す。
「これは……?」
「ごめんね、私、母さんや父さんを止めることができなくって。だからせめて、お兄ちゃんが逃げられるようにと思って……」
ちらっと皮袋の中身を見る。旅に必要なものがあらかた入っていた。
「エリア……」
「ねえ、朝になったらまたあいつが来るよ、あの怖い司祭様が……だからその前に逃げて」
ガルトは驚いていた。自分の正体を聞いてなお、自分の味方でいてくれる妹に。
「エリア……俺が怖くないのか?」
「……」
エリアは困ったような表情を浮かべた。
「……そりゃあ、ちょっとね。でもお兄ちゃんがそんなひどいことをするようには見えないもん。それにあの司祭様を見て、嫌そうな顔してたでしょ?」
「……」
「私もあの司祭様、怖いの。なんだか信じちゃいけないって気がして」
ガルトが司祭に対して感じた震えるような感じを、エリアもまた感じたのだろうか。
「でも……ほんとにお兄ちゃんが『ウドゥルグ』様なの?」
「うん……」
肯定せざるを得ない。今更嘘などつけはしない。言葉を選びつつ、ガルトはさらに続けた。
「でもね、みんなが信じてるのとはちょっと違うんだ」
「違うって?」
「どう言ったらいいのかなあ……死んだ人って、生き返らないだろ? 命には流れがあってね、その流れに逆らうと、世界全体がまずいことになるからそうなってるんだ。その流れが……ウドゥルグって言われてたんだよ。昔はね」
「じゃあお兄ちゃんは、世界を破滅させようとしてるわけじゃないのね?」
「もちろんさ。ウドゥルグの名を誤解してる人にわかってもらいたいだけだよ」
「よかった」
エリアはにっこりと笑った。
「やっぱりいつもの優しいお兄ちゃんが、ほんとのお兄ちゃんなんだよね」
「優しかったっけ……?」
ガルトは照れてつぶやくように言い、エリアがくすくす笑う。
「ん……でもエリアだけでもわかってくれて嬉しいよ」
「あたりまえじゃない。暗殺者だってなんだって、ほんとは優しい私のお兄ちゃんだもの。それぐらいちゃんとわかってるよ」
よい妹を持ったものだと、彼は思う。いったいどれほど、彼女に精神的に救われたことだろう。
「ありがとう……エリア」
心からの言葉を、ガルトは口にする。
「もう行かなきゃ……馬で追われたらまずいしな」
「どこに行くの?」
「とりあえずドリュキス……で、そこから島を出るよ」
「もう会えないのかなあ」
「そんなことはないさ」
ガルトは力強く言ってみせた。
「いつか絶対戻って来るよ」
「うん……」
「さ、そろそろ帰らないと、母さん達が……」
陽気を装ってガルトが別れを告げようとした時である。
「エリアっ!」
カン高い声が夜を引き裂いた。
ガルトとエリアは、驚きに目を見張る。
「エリア、戻りなさい!」
丘を駆け上がってきた母がわめいた。後ろから父も来ている。
母親はエリアの手首をつかむ。
「母さん!?」
「こんなところにいちゃいけません、帰りましょう」
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
なすすべもなく、エリアは引きずられる。
「ガルト」
後から上がって来た父親が、ガルトに声をかけた。
「おまえも来なさい」
「……えっ?」
「ユジーヌ様がお迎えに来ておられる。さあ」
ユジーヌ。
名前を聞いたことはある。ベルレン教皇に次ぐ権力を持つという上級司祭の名だ。
(あいつか……)
昼間、家に来て毒のこもった言葉を投げかけて去った司祭の名だと、ガルトは直感的に悟った。
逃げねばなるまい。だが追手がかかっていることだろう。
これから進むルートをすばやく計算し、両親を振りきって走り出そうとした時。
エリアが先に動いた。
「逃げて、お兄ちゃん!」
そう言うなり、母の手を渾身の力で振りほどく。
ガルトは地面を蹴り、走り出す。止めようとする両親の前に、エリアが立ちはだかる。
(エリア……!)
心の中で呼びかけながら、ガルトは森に向かって急な斜面を駆け降りた。暗い道だが、子どもの頃に遊んだ場所だ。地形は熟知している。
が、森の中、木々に隠れるようにして、追手らしき明かりがちらちらと見えるのに気付き、彼は足を止めた。
とりあえず、追手をまかなくてはならない。
ガルトは道を外れて茂みの中に入り、一本の木に近づいた。根元付近にうろがあるのだが、草や根に遮られて見えない。エリアとよく、秘密の隠し場所にして遊んだものだった。
そこに皮袋を入れ、注意深く隠す。
追手をふりきってから、取りに戻るつもりである。もしも荷物を持ったまま捕まってしまえば、その後逃げられたとしても、旅を続けることができない。
そうしておいて、明かりの見えない方向へと、ガルトは歩き出した。
しばらく歩いた頃。
(……おかしい)
ガルトは首をかしげた。
静かすぎる。もしも追いかけてきているのなら、もう少し人の気配がしてもよさそうなものだ。
周囲にはちらちらと明かりが見えている。追跡をあきらめたわけではなさそうだが……。
(待てよ……あの明かり、動いてない……?)
微風に揺らいではいるが、松明と見えた炎は、その位置を動いていない。
明かりのもとに、人がいると思っていたが、もしもそうではないとしたら……?
嫌な予感がした。
(まさか……罠?)
あたりをもう一度見渡す。
その時。
彼の目の前の暗闇が、突然ぱあっと明るくなった。
いくつもの松明が、彼を照らす。
(しまった!)
さも追手がいるかのように明かりを配置し、一方向に追いつめて待ち伏せる。
罠と気付いた時には、もう遅かったのだ。
追手達がが姿を現す。
ロルンの捕獲部隊。標的を殺さず捕らえるために、気配を消す術にたけている者達だ。
(俺一人捕まえるのに、ここまでやるなんて)
だが、彼は「ウドゥルグ」なのだ。
降臨を待ち望まれていた破壊神。ならば、いかなる人員を投入しても迎えたいと司祭が思うのも無理はないのかも知れない。
いずれにせよ、彼に逃げ道はなかった。
アズレン。
ガルトの住む家。
いや、ガルトが住んでいた家、と言うべきか。
「申し訳ありません。取り逃がしまして……森の方に……」
父親が頭を下げる。赤い仮面に表情を隠したユジーヌは、手を上げてそれをとどめるしぐさをした。
エリアはこの場にはいない。外に出ないように閉じ込めてある。
「お気になさらずに。ロルンの捕獲部隊が森で待ち伏せておりますから、すぐに見つかるでしょう」
父親も、傍らの母親も、ほっとしたような表情を浮かべる。彼らにとっては、この上級司祭の不興をかうことが何より恐ろしかった。追い出し、半ば自分達の手で司祭に売り渡した息子のことが気にならなかったわけではないが、以前から忌まわしい暗殺者の彼を快く思ってはいなかったし、破壊神だと言われてはなおのこと疎ましかった。本当に彼が破壊神であるならば後の怒りが恐ろしいが、司祭がとりなしてくれるだろうという計算もある。
「しかし……いいのですか?」
ユジーヌの問いが、両親にはわからなかった。
「は?」
「息子さんでしょう? ご心配なのでは?」
「……いえ、あれはもう、私どもの子とは思っておりませんので」
「そうですか。それでは、あなた方のお子さんはあの勇敢な娘さんだけだと……?」
「そのとおりです」
ユジーヌの真意を知らぬまま、両親はうなずく。彼らは司祭の気に入る発言をしようと必死だった。
が、ユジーヌの次の言葉は、彼らを慄然とさせるものだった。
「それでは、明日の儀式に娘さんをおよこしいただけますね。身内にロルンの暗殺者がいないのですから、反対なさる理由はないと思いますが?」
「! そ、それは……」
「おや、顔色がお悪いようですね」
ユジーヌの口調は、明らかに彼らの狼狽ぶりを楽しむものだった。
「喜びなさい。あなた方の娘さんが、降臨なさった破壊神への最初の生贄として捧げられるのですから」
彼らは、ようやく悟った。
何もかも周到に仕組まれた罠だったことを。
自分達がこの赤い仮面の司祭の手の内で踊らされていたに過ぎなかったことを。
彼らが感じたのは、あまりに遅すぎる後悔の念だった。
5・最後の鐘が鳴るとき
「俺をどうする気だ?」
シガメルデの中央にある聖堂の地下。
その一室で、ガルトは椅子に縛られたまま、目の前の上級司祭をにらみつけた。
暗黒魔術はシンボルを描くことで発動する。両手の自由を奪われたガルトに抵抗のすべはない。
それでも彼は、服従するつもりはなかった。
普通の人ならばたじろぐほどの激しさでにらみつけるガルトに、しかし赤い仮面の司祭ユジーヌは平然としていた。
「降臨した破壊神として、すべきことをしていただきたいだけですよ」
「あいにくだが、俺はあんたらが期待するような力なんて持っちゃいねぇよ」
「そうでしょうか?」
ガルトはふっと、不安を覚えた。この司祭は何を知っているのだろうか。
「な……んだと?」
「あなたはあなた自身の力をご存じない……」
「ふざけるな! 俺は死者をあるべき所へ導く力の象徴なんだ。あんたらの言うような破壊の力なんて持っちゃいねえんだよ!」
「だから、ご存じないと言ったのです」
「……どういうことだ?」
恐ろしい答えが待っているような気がする。だが、問わずにはおられなかった。
ユジーヌは語り出す。
「万物はみな、下へ向かって落ちる。これを何と言うかご存じですか?
「重力のことか?」
「そう、これは普遍の力で、これを免れる者は存在しません。鳥でさえ、羽ばたきをやめればこの力に従って落ちてゆくのみです。ですが、この力を制御し、逆方向に働かせる呪文があります」
「重力制御の魔法……」
「そうです。これによって人や物を宙に浮かべることができますね。……この魔法は、今ではどこでも普通に見られるようになりましたが、開発された当初は多くの災害を引き起こしたものでした」
ガルトは、ユジーヌが何を言おうとしているのかわからなかった。
ユジーヌはかまわず続ける。
「普遍に働く力に逆らい、同じ力を異なる方向で使った場合、互いの力の間に反発が生じ、大規模な災害が起こります。それゆえに重力制御の方法が確立するまでは、多くの犠牲が出たのです」
「それが……俺と何の関係があるっていうんだ?」
「簡単なことです。あなたはあなたの意志次第で大破壊を起こすことができるのですから」
「な……に?」
「『ウドゥルグ』はかつては生命を導く力を指す言葉でしたね」
「知っていたのか……?」
本来のウドゥルグの性質など、とうに忘れ去られているものと思っていたガルトにとって、ユジーヌの言葉は衝撃的だった。
「恐らくあなたが意志を働かせずとも、ただ存在しているだけで生命の摂理は正しく流れていくはずです。……でもあなたは今、人間としてここにいる。つまり、意志次第でどのような方向へも力を働かせることのできる可能性を持っているのです」
「俺が……」
少しずつ飲み込めてきたような気がする。
「俺が本来あるべきでない方向へ摂理の力を働かせば、相反する力がぶつかり合って破壊を引き起こすっていうことか?」
「その通りです。そしてその破壊力は、力の本質に近いほどに大きい。つまりあなたは無限の破壊力を振るうことができるのですよ」
「ふ……ふざけるんじゃねえ。誰がそんなことを……」
「そう……」
ユジーヌは静かに言う。
「あなたはよほど強い意志をお持ちのようだ。この世に君臨するだけの力を持ちながら、その力を使うことを拒否している。恐らく私の説得にも、耳をお貸しになるつもりはないのでしょう」
「わかってるならなんで……」
「ですが」
ユジーヌは続ける。
少しずつ、砥ぎ澄まされた牙をむき出しにしていく毒蛇のような、不気味な凄みが感じられる。
聞いてはいけない――そう直感していた。
こいつの言葉は毒だ。耳から少しずつ侵入し、気付かれぬうちに心を蝕む猛毒。
だが、聞かないでいるわけにはいかない。耳を塞ぐことも、この場から逃げることもできないのだから。
「私は予言しましょう。あなたは必ず、自分の意志で摂理を曲げるようになる……」
「ばかなことをッ!」
ガルトは吐き捨てるように答えた。
「信じられないようですね」
ユジーヌは優しく教え諭すような口調でそう言った。が、仮面の下では悪意に満ちた目が底光りしている。
「無理もありません。でもあなたは近いうちに、私が正しかったことを悟るでしょう。必ず、ね」
あまりにも自信ありげな口調。
ユジーヌの言葉は、さながら物語の悪魔の誘惑のごとく、巧みにガルトの不安につけ入り、ざわざわとあおり立てていく。
ガルトの背中を冷汗が伝う。この司祭の言うことを信じてはならない――そう自分にいい聞かせるのだが、それでも不安はつのっていた。
言葉ひとつで人の心を動かしてしまう人間がいるという。だがユジーヌの言葉は、そういったものとはまた別種の、悪意めいたものが感じられる。
まるで相手の葛藤そのものを楽しんでいるかのようだった。
「おまえは……ほんとに人間なのか?」
思わずガルトはそう尋ねていた。
クックッと笑い声を上げ、ユジーヌは答える。
「……お見せしましょうか」
そして赤い仮面についと手をかける。
ガルトはどきりとした。仮面の下に隠された顔は、どんな魔物のものなのだろうか。
仮面が外される。その下の素顔を見た時、ガルトは息を呑んだ。
やがて、静かに言う。
「……からかってるのか?」
「いいえ」
仮面に隠されていた顔は、どう見ても凡庸な四十過ぎの男の顔だった。知的な、それでいて妙に冷笑的な光をたたえる目が特徴的だが、それを除けばどこにでもいる平凡な人間のものに過ぎない。
だが、かえってその方が戦慄を呼び起こすのはなぜだろう。
「私は人間でないなどとは一言も言ってはいませんよ。むしろ最も人間らしい人間だとさえ思っているのですから」
「俺にはそうは思えねえ」
「それは、あなたが人間というものの本質を理解なさっていないからですよ」
ユジーヌは仮面をつけ直す。
「本質だと?」
「人間は、か弱い生物です。だからこそそれを補うために、あらゆる力を利用してきました。たとえ誤った方向の力だろうとお構いなく。私はそれに忠実でありたいだけなのですよ」
「……」
ガルトはその言葉に詭弁を感じ取ったが、うまく表現できなかった。
「あるべき方向への力に逆らってでも、自らが強くなりさえすればいい……それが人間なのです。あなたも同じです」
「嘘だ、そんなことはない!」
「今はなんとでも言えるでしょう。しかし、すぐにわかります」
ユジーヌはガルトのそばを離れ、扉へと歩みよる。
扉を開き、振り向いて言う。
「……あなたも所詮、私と同類なのだということがね」
「冗談じゃねえ、誰がおまえなんかと……!」
ガルトは叫ぶ。再び閉ざされた扉が、彼の声をはね返した。
白い仮面の下級司祭が、祈りの文句を唱えている。儀式でいつも見られる光景だ だが、今日はどこかが違う。
――視点が。
ガルトは、祭壇の上にいた。
後ろ手に縛られ、妙に立派な椅子に座らされている。暴れることを恐れた司祭達の手によって薬を嗅がされたせいでぐったりとしている。
手にも足にも、力が入らなかった。それでいて目や耳の感覚は砥ぎ澄まされたように冴えわたっている。緊張した下級司祭の、わずかな言い間違いさえ聞き取れた。
信徒の席を見る。司祭達が自分に向かって恭しく礼をし、祈りを唱和している。
どの司祭の仮面も、青か白である。赤い仮面の上級司祭が、ここにはいなかった。
おかしい、と思う。首都レブリムほどではないとはいえ、シガメルデにも何人かの上級司祭がいたはずである。しかもガルトを捕らえた中心人物であるユジーヌさえもいないとは、どういうことなのだろうか。
祭壇の上、通常は破壊神像が安置されている場所にガルトが座らされているということは、彼を破壊神として披露するための儀式であるはずだ。それなのに上級司祭がいないのは、あまりに不自然すぎる。
だが、不自然に思ったところで、彼に何ができるわけでもなかった。今の彼には、見ることと聞くことしかできない。
それでも彼は、希望を捨ててはいなかった。
いつかは逃げる機会もあるだろう。ユジーヌ達の狙いは破壊神の力を手に入れることであり、それはガルトが生きていて初めて利用可能なものなのだ。ゆえに彼らはガルトを傷つけることができない。
その上、彼らが期待するような破壊の力を、ガルトは持っていない。
破壊神と崇めてきたものが実は虚像だったと皆が知れば、ヘスクイル教の求心力は失われる。それこそがガルトの狙いだったのだから、ある意味でこれは絶好の機会である。
だが、それでは済まないことに、彼は気付いていた。
信徒の誰もが破壊神を恐れ、崇めているわけではない。
バルベクト・ユジーヌ。
彼はウドゥルグが生命の摂理の力であると知った上で、その力を利用したがっているのだ。彼のような人間に対して対処する効果的な手段を、ガルトはまだ知らない。
ユジーヌは様々な意味で、ガルトを不安にさせた。
なぜ彼は、ガルトが破壊の力を使うと断言したのだろうか。その根拠となるべき何かを隠しているというのだろうか。
その不安はすぐに的中した。
祈りの唱和が高まる中、生贄が引き出されて来る。
見た瞬間、ガルトの顔色が変わった。
(……エリア!?)
あるはずのないことだった。
生贄になるのは、生後1年未満の赤ん坊である。儀式によっては10歳未満の少女が生贄になることもあるが、いずれにせよ12歳のエリアは対象ではない。しかも、ロルンに身内がいれば、対象年齢だとしても生贄のくじを引かずに済む。
どう考えても、エリアが生贄になるはずはない。何らかの権力が働いたとしか考えられなかった。
見間違いであってくれたらと思う。だが、両手を縛られてなお抵抗するそぶりを見せている少女の顔は、間違いなく彼の妹のものだ。
(だめだ……助けなきゃ)
薬のせいで身体の自由がきかない。せめて声だけでも出せればと思ったが、それすらままならない。
(エリア……!)
悪夢を見ているようだった。
ガルトの思いは届かず、儀式は確実に進んでいく。
祭壇の前にひざまずかされたエリアの顔に涙が光っている。
祈り続ける司祭の傍らに控えていたロルンの男が一歩前に進み出て大剣を振りかざす。
「破壊神ウドゥルグよ……」
司祭がまっすぐガルトを見て、言った。声がわずかに震えている。
緊張するのも無理はない。祭壇の上でぐったりとしている少年が、世界を死界へと変える破壊の神なのだから。前日にユジーヌから申し渡されて以来、恐怖と興奮とで一睡もできなかったのだ。
「ここに生贄を捧げ、降臨を祝し、来たるべき世の到来を誉めたたえん!」
大剣が振り降ろされる。
ガルトの目の前で、妹の首が切り落とされ、祭壇に叩きつけられた。
(あ……)
唯一の理解者だったエリア。
兄の正体を知ってなお、その優しさを信じ続けたエリア。
彼女の生命が無残に絶ちきられたことを、ガルトは悟った。
(エ……リア……)
額が、熱い。
(だめだ……エリア……死んじゃだめだ……)
彼を縛っていた紐が、音もなく弾け飛ぶ。
だが、ガルトはそれにすら気付いていなかった。
(生き返ってくれ……エリア!)
自分が何を願ったのか、彼はその時まだ知らなかったのだ。
不意に、世界が弾けた。
ゴオォォ……ン。
地面が、空気が……万物が彼を中心に歪み、渦巻くような感覚に襲われる。
「……っ」
ふっと力が抜け、ガルトはそのまま気を失って椅子に倒れ込んだ。
(ここは……?)
気がつくと聖堂の中は、気味が悪いほどに静かだった。
足もとに首のない死体が転がっている。
(エリア……)
ガルトも、認めざるを得なかった。
祭壇に転がった妹の首を拾い上げ、顔についた血を拭き取ってやる。
「ごめん……俺のせいで……」
そうつぶやいた声が、奇妙に大きく反響する。
(……?)
何気なく見回したガルトの目が、大きく見開かれる。
凄惨な光景が、そこに広がっていた。
聖堂の中は、死体で埋め尽くされていたのである。
信徒も司祭も、ことごとく死に絶えていた。苦しんだわけではないらしい。一瞬のうちに死がすべてを覆いつくしたというような光景だ。
(な、なんだよ、これは……?)
祭壇の裏手から、外に出てみる。
そこは、生命あるものが存在しない世界だった。
人間だけではない。空を飛んでいて災禍に遭ったとおぼしき鳥の死骸、枯れ果てた木……あらゆる生命が、突然の死を迎えていた。
ただ一人、ガルトを除いて。
(どうなってるんだ……?)
自分だけが無事だったのはなぜか。そう考えた時、不意にある考えがひらめく。
(まさか……)
呆然と、ガルトはつぶやいた。
「俺が……やったことなのか?」
なぜこんなことになったのか思い出せない。それが余計に不安をつのらせる。
焦燥にかられてあたりを見回した時。
人の声が聞こえた。
(助かった人がいるのか?)
声は少し離れた石造りの家の陰から聞こえた。二人ぐらいの人間が会話しているらしい。
「……やはり、ユジーヌ様のおっしゃった通りですね」
声のする方向へ向かいかけたガルトだったが、そんな声を耳にして立ち止まる。
(司祭か!?)
そっと物陰から様子をうかがう。青い仮面の中級司祭と、赤い仮面の上級司祭だった。どうやらレブリムから様子を見にやってきたらしい。
司祭達はガルトには気付かず、話を続けている。
「いや、それ以上だろうな。シガメルデはおろか、ロヴァイユもマルシュピールも……アズレンまでも全滅だったのだから」
「破壊神の力を試すためとはいえ、随分被害が大きかったのではありませんか? ユジーヌ様は満足しておられるようですが……」
「この程度の犠牲は必要だったのだ。これで破壊神の力を持つあの少年を捕らえれば、我々は最強の兵器を手に入れたことになるのだからな」
「しかし……本当にこの薬で奴を思いのままにすることができるのでしょうか」
「心配はいらぬ。奴は今頃、自分のしたことに気付いて動揺しているはずだ。ユジーヌ様が自ら奴を追いつめたのだからな。ユジーヌ様からいただいた薬は、そういった心の傷を持つ者にことのほか効くそうだ」
(な……んだと……?)
すべて、ユジーヌが仕組んだ罠だったのだ。
ガルトと両親の不仲を決定的にしたのも、彼の目の前でエリアを殺させたのも。
すべて、ガルトを生きた兵器として利用するための布石だったのだ。
そしてシガメルデ礼拝堂に集められた信徒や司祭が、破壊の力の犠牲となることを承知の上で、自分や腹心の部下たる司祭達だけが安全圏へ逃げ、力の威力を試したのだ。
(バルベクト・ユジーヌ……)
ガルトの闇色の目が怒りに燃え上がる。
(貴様だけは許さない!)
手が無意識のうちに動く。「前進」を示すシンボルを描き、発動の言葉を唱える。
そんな魔術は存在しない。「前進」のシンボルは、前進させるもののシンボルと組み合わせて使うものなのだから。それなのに、なぜ自分がそんなことをしたのか、彼にもよくわからなかった。
だが一言も声を上げず、二人の司祭は倒れる。
ガルトがはっと我に返った時には、既に二人とも死んでいた。
(俺……今、何をやったんだ?)
「前進」のシンボルに続けようとしていたのは「ウドゥルグ」のシンボルだ。ふたつを組み合わせて「即死」の魔法になる。だが、彼は「ウドゥルグ」のシンボルを描いていない。
(あ……)
気がついたことがあった。
(……そうか)
彼は自分の両手を見た。エリアの血で染まった手を。
(俺が、「ウドゥルグ」のシンボルなんだ……)
生命を導く――死に向かって。
それが「ウドゥルグ」の力なのだ。そしてガルトは、存在するだけでその力を発揮できる。シンボルのかわりとして。
(だけど……なぜこんなに多くの生命が……?)
バルベクト・ユジーヌは言っていた。ガルト自身が摂理を曲げる方向に力を使えば、強大な破壊の力となる、と。
(俺が、摂理を曲げる? ……あっ!)
思い出した。
エリアの首がはねられた時、自分が何を願ったのか。
――生き返ってほしい。
死んだものは蘇らない。それが摂理だ。
それを、彼は逆転させようとした。エリアが生き返って欲しいと、痛切なまでに願った。その結果がこの惨事なのだとしたら……。
「う……嘘だ……」
ガルトはその場にへたり込む。
ただ、それだけのことで。
彼の頭の中でこだまのように鳴り響く声。
――あなたは必ず、自分の意志で摂理を曲げるようになる……。
「嘘だぁッ!」
ガルトは叫んだ。
信じたくない。認めたくない。
――あなたも所詮、私と同類なのだ。
ガルトはユジーヌを憎んでいる。エリアを殺したのはロルンの男だったが、それを命じたのはユジーヌだ。そればかりか、一連の計画を練り、周到にガルトを追い詰めて利用しようとしている。
そのユジーヌの言葉が正しかったと認めざるを得ないということは、彼にとって堪えがたいことだった。
様々な思いに、彼は引き裂かれていた。
ユジーヌを憎めば憎むほど、彼の心はずたずたに裂かれていった。
「違う……俺は……」
あとに続く言葉が見つからない。
自分が何者なのか、何者だったのか……それすらわからない。
摂理の力でありながら、その力を誤った方向に使ってしまった自分が許せなかった。
人間として生まれたことを、彼は初めて後悔した。
ひどいありさまだった。
見晴らしの丘から見渡せる風景は一変している。
動物も植物も、命あるものはみな消え去っていた。見なくても、生命が存在しないことを感じることができる。
視界に入る一帯は、つい先刻まで普通の平和な暮らしが営まれていた町や村だった。それが今ではモノトーンの死の領域と化している。
ガルトの力は、故郷の村さえも滅ぼし尽くしていた。両親ももう、生きてはいまい。
(俺は……本当に破壊神になってしまったのか)
廃墟を見渡して、ガルトはつぶやく。
それでも彼にはわかっていた。
この力をユジーヌに渡してはならない。彼の意のままにされるようなことがあってはならない。
生きるものすべてのために、また、彼自身のために。
逃げなくてはならなかった。
二度と破壊の力を使わぬように。
ガルトは振り返る。
破壊の力は、この丘のあたりで止まっている。丘の北東部の崖下に広がる森は、なにごともなかったかのように青々としていた。
皮肉な光景だった。
デスフォレスト――死の森と呼ばれるところが、今最も生き生きした生命力に満たされている。
森へ続く道を下り、隠しておいた皮袋を取り出す。今となってはエリアの形見のようなものだ。中身を確認して、小さな包みが入っているのに気付く。
それは、ガルトがエリアへと買ってきた、月長石のペンダントだった。手紙が添えてある。
「お兄ちゃん、私が一番大事にしてるペンダントです。これを見て私のことも思い出してね。帰って来る日を待ってます。 ……エリア」
純真なエリアの、最後のメッセージ。
ペンダントを握りしめて、ガルトは立ち尽くす。
言葉が見つからない。見つかったところで、エリアはもういない。それがわかっていてなお、彼はエリアへの謝罪の言葉を探していた。
エリアを死なせたのは自分だ。
ガルトという兄がいなければ、生贄になどされることもなかっただろう。
償おうにも償いきれるものではなかった。
彼は知っている。死者は生者を監視しているわけではない。生者が死者をどう扱おうが、それは生者の論理であって死者の関知するところではない。死んだエリアにガルトがどう謝罪しようと、それは届くことはないのだ。
それでも謝罪と償いとを、ガルトは求め続けるだろう。
それが、生きている人間の論理なのだ。
彼は摂理の力の象徴であると同時に、生きた人間でもあるのだ。それゆえに今、彼は苦しんでいるのである。
たった一人の妹を、自分と野望を持つ者との争いに巻き込み、死なせてしまった。そればかりではなく、使うべからざる力を使って、両親を含む多くの人間を殺した。その重みを、彼は背負って生き続けねばならないのだ。
それは、たかだか十五歳の少年の心にはあまりに重い負担であった。
6・引き裂かれた心
夜の森。
焚き火に投げ込んだ、魔物よけの香が不思議な香りを放つ。
その傍らでガルトは、マントにくるまって眠っていた。
人目を避け、森を抜ける旅は困難である。比較的気候の穏やかな初夏とはいえ、夜ともなればかなり冷え込む。魔物や野獣のたぐいも多い。気を抜くことはできなかった。
それだけに睡眠は貴重であった。たとえ短く浅い眠りでしかないにしても。
だが、それすらもガルトには許されていなかった。
うとうとと眠りに落ちるガルトの耳の奥で、焚き火のはぜる音は聖堂の信徒のざわめきに変わっていく。
夢の中、彼はあの儀式の場にいた。
エリアが目の前に引きずり出される。
(助けなきゃ……)
身体は動かない。何もかもあの時のまま、再現されていた。
司祭の祈りの文句が終わりにさしかかる。
次に何が起こるのか、ガルトにはわかっていた。だが、どうすることもできなかった。
動けないガルトの目の前で、大剣が振り降ろされる。
「エ……」
不意に喉が自由になった。
「エリアァァーっ!」
ガルトは絶叫し――、そしてはっと目を開けた。
「……夢か……」
幾分ほっとしたように、彼はあたりを見回し、そして、愕然とした。
彼の周囲の森が消えている。
さほど広範囲というわけではない。せいぜい彼を中心にして半径6、7メートルといったところだろうか。だが、その範囲内にあった木々や草がことごとく枯れている。
破壊の力。
ガルトの記憶の中の悪夢が、またもや破壊をもたらしたのである。
一連のできごとで負った心の傷は、ガルト本人が考えていたよりもはるかに深かった。 今の彼には、破壊の力を制御することはできない。わずかな感情の乱れが歪みを引き起こし、周囲の生けるものを死に到らしめるのだ。
ガルトは自分自身を恐ろしく感じた。そしてこのような乱れを起こすことが可能な人間という存在に恐怖心を抱いていた。
人間にさえならなければ。
だが、それは言っても無意味なことだった。彼はもとから人間だったのだから。
悪夢は、その一夜だけのものではなかった。
毎晩のように、眠るとあの儀式の夢を見、自分でも制御できぬままに破壊を繰り返す。
迂闊に眠ることさえできなかった。それが旅をますます過酷なものにした。
数日もたたないうちに、ガルトは肉体的にも精神的にも、極限まで追いつめられていった。
「こんな力……もう……いらない」
木の根元に座り込んで、彼はぽつりと言った。そのつぶやきには、もはや気力のかけらも感じられない。
このままここで行き倒れてしまうのだろうか――まるで他人ごとのように、彼は思った。だが、それすらももう、どうでもよかった。
「ん……?」
彼は目を覚ます。
「あれ……なんで俺、こんなところにいるんだ?」
頭の中がぼんやりとしていた。霧がかかったような頭で彼は、脇に置いてある荷物を探り、地図を取り出す。地図には何かが書き込まれている。
「はーん、今ここにいるってわけか。で、この○印の……ドリュキスに向かってたんだな」
地図を指でたどりながら、彼は推測する。こんな簡単なことをなぜ忘れているのか、彼には理解できなかった。まだ頭がぼうっとしている。
「……ま、いいか。とりあえず寝ようっと」
明るい調子でつぶやき、彼は再びマントにくるまった。
眠りに落ちる直前、彼はふと目を開け、つぶやく。
「あれ……俺って……誰だっけ?」
ガルトは当惑を覚えていた。
自分の身体が、自分以外の何者かによって動かされている。ガルトは意識の内側からその様子を眺めていた。
「彼」の見るものが見え、聞くものが聞こえる。触れるものの感触さえ、自分自身が感じているように感じられた。
だが「彼」はガルトではない。
「彼」の考えていることが手にとるように分かったが、それはどれも、ガルトならば考えるはずのないようなことだ。自分が誰かもわからないのに、気にせずに眠ってしまうことなど、ガルトには到底できることではない。
(何が起こったんだ?)
ガルトには「彼」の正体がわからなかった。
「森の様子は?」
ユジーヌは側近の中級司祭に尋ねた。
「はい。やはりアズレンより東で数箇所、彼によると思われる破壊の跡が見つかっています」
「引き続き、破壊の跡を追いなさい。そろそろ捕獲部隊を出した方がいいでしょうね」
「は。そのように致します。現在第二次偵察隊が出ておりますので、すぐに結果をご報告に上がれることと存じます」
「いいですか」
ユジーヌは教え諭すような口調で続けた。
「彼は手負いの猛獣のようなものです。焦って捕らえようとすると、ヴァエルとジュラの二の舞いになることでしょう」
「は……」
シガメルデにガルトを捕らえに行ったが死体で発見された司祭達の名を聞いて、中級司祭は幾分鼻白んだように答えた。
「時を待ちなさい。彼はいずれ、自分で自分を追いつめていくことでしょう。……破壊の力を使う自分と、それを認めたくない自分とに引き裂かれてね。そうして弱った状態ならば、たやすく操ることができるでしょう。多少精神や身体に異常をきたすかも知れませんが、そのくらいはどうでもよいことですからね」
くっくっとユジーヌは笑う。
彼にとってガルト・ラディルンという少年は、野望を実現させるための最強の兵器に過ぎない。その兵器を手に入れるために立てた計画は、おおむねうまく進行している。予想外だったのは、ガルトの力が強すぎて、アズレン付近に配置した監視人をも消し去ってしまったために、まんまと森に逃げられてしまったことぐらいなものだ。それもガルトが自分の力を制御できないために引き起こす破壊の跡を追うことで、十分に解決可能なことだった。
あと少しで、彼は思いのままになる兵器を手に入れることができる。
この島を長らく支配してきた破壊神の力が、彼自身の手によって。
ユジーヌは低く笑う。
「失礼致します」
ノックの音。
「入りなさい」
「第二偵察隊、ただ今戻りました」
「どうでしたか?」
「そ……それが……痕跡が消えました」
「……何ですって?」
低くユジーヌは聞き返す。空気が凍りついたかのような錯覚を覚え、報告に来た下級司祭は内心震え上がったが、なんとか続けることができた。
「ヘルヴァム北部で発見されたものが、最後の破壊の跡でした。それ以降……少なくともこの2日間、破壊の力は使われておりません」
「野宿の跡は?」
「ありましたが……いつのものかは不明です。あるいは古いものに見せかけているのかもしれませんが……」
そのていどの技術は、ロルンで教えられることである。ガルトがしていても不思議ではない。
「……」
ユジーヌは沈黙した。
(死んだか? それとも……)
ガルトの破壊力を引き出し、捕らえて意のままに操る計画。ガルトはここまで、面白いほど計画通りに動いてくれていた。
だが、順調にいっていたはずの計画が、ここへ来て狂い始めている。
嫌な予感をユジーヌは感じていた。
まさか、たかだか15歳の少年に出し抜かれるはずはない。計画は完璧だったはずだ。それなのに、何が起こったというのだろうか。
葛藤に堪えきれずに力尽きたのであれば、まだよい。
もしも破壊の力を自在に制御する方法でも見つけられてしまっては、すべてが終わりになってしまう。
最強の兵器は、瞬時にして最強の敵になることもあるのだ。
敵と化したガルトは、その力でユジーヌを狙うかも知れない。ユジーヌとて生身の人間である。ガルトの破壊の力にかなうはずはない。
そうなる前に手を打たねばならなかった。
「……探しなさい。何としてでも」
長い沈黙を破り、ユジーヌは口を開いた。
「薬で操りきれない場合には、殺してでもかまいません」
それは、バルベクト・ユジーヌが初めて見せた焦りの現われだった。
翌朝には元通りに身体の自由がきくようになっていたが、それからも時折「彼」は現れた。
ガルトは意識の内側から「彼」を観察する。
「彼」には記憶がなかった。また、ガルトが身体を動かしている間の記憶もないらしい。従って「彼」の記憶はひどく断片的なものだった。だが「彼」がそれを気にする様子はない。ガルトはこのことに少なからず驚いていた。楽観的にもほどがある。到底理解できないが、ある意味でうらやましくもあった。
追いつめられ、心の平衡を失ったガルトに「彼」のような明るさがあれば。
そう思ったとき、ガルトははっと気付く。
「彼」は自分の分身だ。
今のガルトに最も必要なもの――前向きな明るさを「彼」は持っている。
かつて聞いたことがある。一人の人間が、いくつもの人格を持つことがあると。そしてその場合に現われる人格は大抵、元の人格を補うような特性を持っているのだという。
ある意味で病的な状態だ。少なくとも、普通ではない。
だが、ガルトはこの状態を拒絶する気にはなれなかった。
「彼」はまだ不安定な人格だった。記憶も思考も断片的で、ただ楽観的な性格だけが際立っている。表に出ている時間もごくわずかだった。
生まれたばかりのガルトの分身。ガルトが少し強く念じれば「彼」は消えてしまうかも知れない。あるいは少なくとも、意識の片隅に封じ込めるぐらいはできそうだった。だが、彼はそうするつもりはない。自分自身の状況に興味があったし、「彼」の明るい様子を見ているだけでほっとした気分になれたからだ。
それに、ガルトは疲れている。極限まで追いつめられた心を回復させるためにも、少し休んでいたかった。
しばらく観察を続けているうちに、もう一つ気付いたことがある。
ガルトは摂理の力を使えなくなっていた。
力そのものが失われたわけではない。彼の存在がすなわち、力の存在なのだから。だが、自分の意志で力を使うことが、彼にはできなくなっていたのだ。これまで感じることのできた生命の流れが、今のガルトには見えない。
だがそれは同時に、破壊の力を使う危険がなくなったことを示している。摂理の力を誤った方向に働かせることで起きる歪みが、破壊の力であるからだ。
その証拠に、ガルトは相変わらず悪夢を見るが、その衝撃で周囲を死の領域へ変えてしまうことはなくなっている。
なぜ摂理の力を使えなくなったのか、理由はすぐにわかった。
「彼」が表に出ている時にだけは、生命の流れがわかる。ガルトではなく「彼」が、摂理の力を使うことができるようになっているらしい。
だが「彼」は自分にそのような力があることを知らない。知らぬがゆえに、使いようがない。
(つまりどのみち摂理の力は使えないってことか)
ガルトは結論を出す。
ガルトと「彼」は、2人で1人だ。ガルトの持っていた力を代わりに「彼」が引き受けてくれているのだ。今の状態ならば、「彼」が自分の持つ力に気付かない限り、破壊の力を使わずに済む。
自分で破壊の力を制御できなかったガルトにとって、これは願ってもないことだった。 自分の意志で力を制御できるようになるまで、「彼」がいた方が都合がいい。それに、「彼」が表に出て身体を動かしてくれることで、ガルトはゆっくりものを考えることができる。
ドリュキスから島を出るまでは、追手を警戒しなければならない。記憶のない「彼」が不用意な行動をとってしまう危険もある。だから「彼」にすべてを任せてしまうわけにはいかない。だが、島から脱出したら、後はしばらく「彼」にこの身体を預けよう――そう、ガルトは考えた。
「彼」は島外のどこかで、ガルト・ラディルンではない誰かとして暮らしていくことだろう。それをガルトは内側から見つめるのだ。
いつかガルトの心の傷が癒え、己の力を制御できるようになった時、彼らは再びひとつの人格へと戻るであろう。
そうなった時、彼はヘスクイル島に戻る。バルベクト・ユジーヌに立ち向かうために。
だが、それはまだ先の物語となる。
7・出航
船が出る。
大陸に仕入れに出かける覆面商人の乗る船だ。
だが、酒場「黒猫亭」の主人、ゲイリー・クランジェにとってはそれ以上の意味を持つ船だった。
酒場を経営する一方で彼は、島の外へ脱出する人の援助をしている。「渡し屋」と呼ばれる仕事だ。
島の南西部、シガメルデ周辺がある日突然壊滅したという噂が広まったことから、最近は客が多い。信徒達に知られれば無事では済まないが、彼らに密かな反感を抱いているゲイリーはこの「裏の仕事」に誇りを感じていた。
それゆえに覆面商人に扮した客を乗せた船が気にかかるのも無理はない。
まして、今日の船に乗った客の一人は、他のどの客とも違っていた。
暗殺組織ロルンの暗黒魔術師で、壊滅した都市から森を抜けてやって来た少年。彼は信徒達から追われているらしい。半年前に会った時、そのロルンの一員らしからぬ振る舞いに驚きを感じたものだが、どんな事情で追われることになったのだろうか。
彼は語らない。だが、シガメルデ地方の壊滅になにか関っているらしいことが、その態度からうかがえた。
彼を商人として偽装登録し、船に乗せた段階で、ゲイリーの仕事は終わったはずだ。だが、なぜか彼のことが気にかかってならない。
船はゆっくりと岸壁を離れ、沖合いへと遠ざかって行く。
彼はいずれ、ダーク・ヘヴンを変える存在になるかも知れない。見送るゲイリーの胸にわけもなく、そんな予感が去来した。
が、その時。
同じように船を見送る人影に、ゲイリーは気付いた。
司祭服に赤い仮面。
なぜ上級司祭がこんな場所にいるのか、ゲイリーにはわからなかったし、その司祭が国で2番目の権力を持つ者だということにも、無論気付くわけはなかった。
船の中に不穏な空気が漂っている。
追われるガルトの感覚は鋭敏だった。商人でも脱出者でもない者が、この船に乗っている。しかも殺気をみなぎらせて。
この気配を、ガルトは知っていた。
(ロルンの暗殺者か……)
ターゲットはガルトか、それとも他の脱出者の誰かか。
いずれにせよ、このままにしておくことはできそうになかった。
船が沖合いに出て、ターゲットが安心したところを狙うつもりだろう。
ガルトは船内を歩きまわる風を装って、暗殺者達の様子を探った。かつての仲間達だけに、ちょっとした挙動や服装から、どういう方法で暗殺するのかの見当はすぐにつく。
彼らがさり気なく監視しているのが自分だということも。
人数は3人。吹き矢の筒を持つ大柄な男と、恐らくナイフ使いであろう、敏捷そうな男、それに派手な装身具の中に呪具を紛れ込ませた若い女。
(やっぱりな……)
摂理の力も破壊の力も使えないが、暗黒魔法は使える。
計略を練り、時を待つ。
船が沖に出て、商人達はみな船室へと入ってしまった頃。
ガルトは一人、風の強い甲板に立つ。天候は晴れ。日を選んで出発した甲斐があって、島周辺にしては珍しく穏やかな天気だ。それでも甲板の風は強く、冷たい。
風は船の進行方向から最も強く吹いている。それを計算した上で、ガルトは風上に立った。
物陰から毒の吹き矢で彼を狙う暗殺者は、風にあおられて矢を放てない。
ガルトは不敵な笑みを浮かべた。
「ばーか。狙われてるのがわかってて、わざわざ船室になんか入るかよ」
不意にナイフを持った、別の暗殺者が飛びかかって来る。が、ガルトは動揺すらしなかった。
ナイフはガルトに届く前に止まる。切っ先とガルトの間に、得体の知れない黒い渦のようなものが生じていた。
「?」
異変を感じた暗殺者があたりを見回した。
が、その時にはもう、暗殺者の身体は暗黒の渦に呑み込まれ、消えていこうとしている。
「暗黒魔術師をなめるんじゃねえよ」
指輪をきらめかせ、ガルトは言う。もっとも、この魔法――攻撃を仕掛けてきた者を呑み込む暗黒の渦を作る技――を知っている人間は、現在ではガルトのほかにはいないかも知れない。古い本をあさり、密かに身につけた魔法なのだ。
吹き矢の男の後ろで、暗黒魔術師の呪具を持つ女が手を動かす。魔法を使うためのシンボルを描いているのだ。
「闇に潜みし、力ある者よ……風の精霊に命じて道を空けさせたまえ」
呪文は本来、暗黒魔法には意味がない。描いたシンボルがすべてだからだ。だが、養成所では呪文を学ぶ。島外で暗殺を行なう際にカムフラージュとなることと、言葉の力がシンボルを強めると信じられていることが理由だ。
風に逆らって飛び道具を飛ばす補助魔法。だが、風下にいる以上、その呪文を使ってくることは予想がついていた。
負けずにガルトもシンボルを描く。
「闇よ、剣となりて我に仇なす者の胸を貫け!」
闇の気が凝縮し、鋭い剣となって吹き矢の男を狙う。風に逆らって飛ぶ吹き矢を空中で打ち砕き、そのまま男の胸に深々と突き立った。
残るは、あと一人。
女は前に進み出る。ちょうどガルトと向かい会う形になって、女はやっと口を開いた。
「……なかなかやるわね。でも本番はこれからよ」
仕事を楽しんでいる口ぶり。人の命を摘み取ることに快感を覚える表情。暗殺を天職と思うことのできる種類の人間であることがわかる。
「ひとつ、聞いていいか?」
「なによ」
「あんたらが来たってことは、俺を殺せっていう指令が出てるんだな」
「あたりまえじゃない」
女の答えはあっさりしたものだった。
「なんとしてでも、ここで始末するようにって言われてるわ」
「誰に?」
「そんなこと、わかるわけないじゃない。あなたもロルンにいたんでしょ?」
ガルトはうなずく。確かにロルンでの指令は文書で下され、その場で焼き捨てられる。立ち聞きを防ぎ、証拠を残さないやり方だ。
女はつけ加えた。
「……ただ、かなり上の方からの指令だったみたいよ」
二人は一見なごやかに会話している。甲板の上で、強い風にあおられながら。
だが、その陰で二人は互いの隙を探している。一瞬の攻撃の機会を求めて。
女はかなりの使い手らしい。その自信からもそれがうかがえる。
「なんでわかる?」
「それはね……」
女が動いた。
すぐ前で仰向けに倒れている吹き矢の男に向けてシンボルを描く。
「このあたしが受けた指令だからよ!」
男が、ゆらりと起き上がった。
「なっ……!」
完全に不意をつかれる形になった。
死体制御の魔法。
ガルトにとっては、初めて見る魔法である。いや、成功した場面を初めて見る魔法というべきか。彼の周囲で摂理の力に反する魔法は使えなかった。そのために失敗した場面しか目にしていなかったのだ。
だが、ガルトは以前のガルトではない。摂理の力をもう一人の自分に渡してしまった彼は、ただの暗黒魔術師でしかなかった。
屍鬼となってよみがえった男は、うつろな目を開き、じりじりとガルトに迫る。手には吹き矢を持っている。
「暗黒の世界よ、この者に永遠なる安らぎを……!」
屍鬼を消し去る魔法を使う。だが、何の反応もなかった。
「無駄よ」
女が勝ち誇ったように笑う。
「呪文は効かないわ」
屍鬼の身体がうっすらと赤く光っている。魔法を無効化する魔法が既にかけられていたのだ。屍鬼に虚をつかれたガルトが動揺している間に、女がかけたものだろう。
しまった、と思う。生半可な物理攻撃では、痛みを感じない屍鬼の足を止めることはできない。その上に魔法が無効化されるとあっては、反撃の手が塞がれたも同然である。
いや。一つだけ手があった。
屍鬼の視力を奪う。吹き矢の攻撃を封じ、接近してその身体にシンボルを刻むのだ。
だが、魔法は効かない。直接攻撃を加えようとしても、その前に屍鬼の持つ吹き矢の射程内に入ってしまう。
飛び道具が必要だった。
ガルトの手には、黒い刃がある。小さな刀子の形をしたそれは、さっき吹き矢の男を倒した闇の剣のかけらだ。これを投げるしか、方法はなさそうだった。
だが、この強風の中、歩く敵の目に命中させることなど、ガルトにとっては不可能に等しい。
(ええい、いちかばちか……!)
彼は刃を手に持ち、構えた。
その時。
(……る……)
頭の中で、声が聞こえた。
(?)
(俺の身は……俺が守る……!)
次の瞬間、ガルトは意識の表舞台から引き降ろされていた。
「彼」だ。
ガルトの意志とは無関係に、手が動く。
放たれた刃は正確に屍鬼の片目をえぐり、屍鬼は一瞬よろめく。すかさず駆け寄って吹き矢を叩き落とし、腕を取って一回転してそのまま海へと屍鬼を投げ込む。
一瞬の後。
「ま……まさか……」
女が呆然とつぶやく。
「なんて身のこなし……あなた魔術師だったんじゃなかったの?」
呆然としているのは、ガルトも同じだった。
身体の支配権はすぐに戻って来た。
「彼」によって形勢が逆転したのだ。
「勝負あったな」
先に我に返ったガルトは、自信を打ち砕かれて立ち尽くす女に向かって声をかけた。手はさり気なくシンボルを描き、いつでも闇の剣を飛ばせるようにしてある。
「ま……まだよ!」
女の描くシンボルが完成するより早く、闇の剣が放たれた。
倒れる女に向かって、ガルトは言う。
「命を奪うことなんか嫌いだけどな……振りかかる火の粉だけは払うぜ。これからもな」
女の息は既にない。
ガルトの言葉は、今や敵にまわした教団に対する、誰も聞くことのない挑戦状だった。
戦いは終わった。
刺客達の死体を海に放り込み、ガルトは海を見つめながらさっきのできごとについて考えていた。
予想外のできごとだった。「彼」の出現も、「彼」の意外な才能も。
だがその驚き以上に、「彼」が自分の身を守るために出て来たことが嬉しかった。
恐らく「彼」ならば、ガルトが表に出なくてもうまくやっていけるだろう。そう思うとなんだか愉快なような、寂しいような、奇妙な気分になる。
(そうだ、こいつ……まだ名前がなかったよな)
ガルトの名では、追手に見つかってしまうかも知れない。新しい名前をつけてやろうと、ガルトは思う。
(そうだな……)
いつもの癖で胸元に手をやり、エリアの形見のペンダントに触れ、しばらく考える。
エリアの残したペンダントの石は月長石。ムーンストーンと言われるその石を、アズレンの方言ではディングと言う。
(ディング……そうだ、それにしよう)
この船が目的地に着いた時から、ガルト・ラディルンは消え、「ディング」の人生が始まる。
ガルトは再び海を見つめた。
ダーク・ヘヴンは、もう見えない。
(end)