魔の島のシニフィエ番外編・意志を持つ力

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1・死者の叫び

 ゴォォォォ……。
 風が吹きすさぶ。
 島全体を冷たく荒れた風が駆けぬける。
 ヘスクイル島の冬の訪れを告げる北風。
 島の人々はこの風を「死者の叫び」と呼ぶ。高く低く音を立て、夜通し吹きつける風はなるほど、無念のうちに死んでいった者達の呪詛の声に聞こえなくもない。ダーク・ヘヴン――暗黒大陸と呼ばれ、恐れられるこの島に吹く風に、実にふさわしい名前だ。
 今年もまた、その風の吹く季節がやって来た。

 港町ドリュキス。
 ヘスクイル島……「ダーク・ヘヴン」の中で最も活気にあふれた町である。
 港近くには今日とれたばかりの魚や、どこか島の外から仕入れたらしい様々な品物を売る店が軒を連ねている。
 売る者がいれば、買う者もいる。一見して町の住人とわかる者の他にも、海から帰ってきたばかりの船乗りや巡礼の信徒らしき旅の者が、通りを歩きまわっている。
 表向き他国との交渉のないヘスクイルだが、ここドリュキスに限っては、覆面商人――ヘスクイルの者ということを隠して島外へ赴き、商品の売買を行う商人――が黙認されていた。
 人通りの多さも売り手の声も、港町ならばありふれた風景だ。
 だが、人々の表情に、時折陰りがよぎる。
 まるで何かにおびえているかのように。
 今の活気が、うわべだけのものでしかないことを、皆が知っているかのように。
 ここはダーク・ヘヴン。
 暗黒大陸と呼ばれる、北の果ての地。
 来るべき破壊神の降臨と世界の破滅に恐れおののく者達、そしてそれを利用しようとする者達の島。

 港近くの裏通りに「黒猫亭」はある。一階が酒場、二階が宿屋になっている。港を利用する者達の拠点の一つだ。
 なんといっても、昼間から強い酒を出してくれるのがいい。ドリュキスはヘスクイルの中では比較的温暖な気候の町であるが、それでも冬の寒さはなかなかに厳しいのだ。
 とはいえ、昼すぎにはほとんど客はいない。
 その日の客も、船乗りらしき男二人と、たった今入ってきたばかりの十四、五歳の少年だけだった。
「見たか? 港に入ってた船」
 船乗りの一人が、連れに言う。
「死の船か」
 ヘスクイルには、大規模な暗殺組織「ロルン」がある。
 ロルンとは、破壊神ウドゥルグを崇めるヘスクイル教の下部組織である。ロルンの暗殺者は、司祭の命令によって儀式の生贄を殺し、また島外からの依頼を受けて島外の要人を暗殺する。ドリュキスはその窓口でもあった。
 そして、暗殺者を乗せた船を「死の船」と呼ぶ。船首の破壊神像が目印だった。
「ロルンの奴等が帰って来たんだな」
「またどこかで人殺しをしてきたんだろうよ」
「なんであんな奴等がのさばってるんだかな」
「そりゃあおまえ、『ウドゥルグ様』のためだよ。血が流れれば流れるほど、ウドゥルグ様の復活が近づくってんだからよ」
「ああ。だけど俺は嫌だぜ。破壊神が支配する世の中なんて」
「まったくだな」
 よくある世間話だ。教団の者に聞かれれば無事では済まないが、教団の者がこんな酒場に来ることはまずないし、この店の店主は客の話したことを教団に密告するような者ではない。
 が。
「おっさん」
 不意に、船乗り2人に声をかけた者がいる。もう一人の客の少年だ。
「あー? なんだよ坊主」
 船乗り達は、やや酔いのまわった目で少年を見た。
 漆黒の髪と目。顔だちはまだ幼さを感じさせるが、それでいて身にまとう鋭利な刃のような雰囲気は、奇妙に大人びた印象をも与えている。額にはほくろが一つ。
 少年はにやりと笑う。
「そういう話には気をつけな。どこで誰が聞いてるか、わかったもんじゃないからな」
「なんだと? 小僧が……!」
 船乗りの一人が、明らかに気分を害したように立ちあがりかける。が、もう一人がそれを止めた。
「よせ」
「うるせえな、なんで邪魔するんだよ」
「見ろ、そいつの左手を」
 テーブルの上に何気なくつかれた少年の左手に視線が注がれる。
 小指に指輪がはめられていた。金にブラックオニキスがちりばめられ、一つだけルビーが赤くきらめいている。たかだか十代前半の少年には、いくぶん似つかわしくないように思われた。
 が、それを見た船乗りは顔色を変えた。
「ま、ま、まさかそれは……」
「そうさ」
 少年は目を細めた。
「噂のロルンの暗黒魔術師だよ」
 ロルンは暗殺組織である。従って暗殺者達はそれとはわからぬように変装しているのが常である。暗黒魔術によって暗殺を行う者が、魔術師とわかるような格好をすることはほとんどない。杖すら持たず、指輪や首飾りなどの装身具によって杖と同じ効果――精神集中を高め、呪文の効力を強める効果――を得る。
 少年の指輪は、その証しだった。
「ひ……」
 船乗り達の酔いが一気に醒めた。慌てるあまりに椅子を倒して立ちあがる。客のいない酒場に、その音は大きく響いた。
「み、見逃してくれ。悪気はなかったんだ」
 どう見ても20は年下の少年に向かって、船乗り達は媚びるような目つきをしながら後ずさる。ひけた腰が、「ロルンの暗黒魔術師」の恐怖を雄弁に語っていた。
 少年は刃物の目で薄く笑う。
「酔ってただけなんだ、信じてくれ……」
 半ば恐慌状態の船乗り達に、少年は答える。
「何をだい?」
「……へっ?」
「俺は何も聞いちゃいねーよ。おっさん達、夢でも見たんじゃねーの?」
「……?」
 二人は顔を見合わせる。少年は口の端に笑みを浮かべたままだ。だが、それは一般に言われているような、ロルンの暗殺者の残忍な笑みではない。
 いたずら好きの少年のような表情が、刃物の目にちらりと見え隠れしている。
 ――なかったことにしてくれるんだ!
 二人がそれに気付くまでには、しばらく時間がかかった。
 気付いた二人は、そそくさと席を立ち、飛び出すように店を出ていった。
 店のドアを出る直前に、一方が振り向く。
 命拾いしたぜ――顔にはそう書いてあった。

 黒猫亭の主人ゲイリー・クランジェは、奇妙な驚きをもって一部始終を見ていた。
 ロルンやヘスクイル教、そして彼らが信仰する破壊神ウドゥルグを誹謗した者がその場で無残な殺され方をするのを、ゲイリーは幾度となく見てきたからだ。
 だからこそ、酒場の主人という表向きの仕事の傍らで、信徒や司祭に狙われた人々を島の外へ脱出させる「渡し屋」として密かに活動しているのだ。
 だが、少年の行動はロルンの暗殺者らしからぬものだった。
 見逃すとは。
 カウンターに座りなおして、年齢不相応な強い酒を注文する少年を、ゲイリーはそっと観察する。
 彼はゲイリーが見てきたロルンの者達とは明らかに異なっていた。
 強い意志を秘めた目だ。命令のままに人を殺し、破壊神に血を捧げるようには思えない。
 少し興味がわいた。
 ロルンの者に下手に関われば、命の危険にさらされる。だが、少年に対する興味の方が強かった。
 ゲイリーは酒を少年の前にとんと置き、いかにもついでといった風に話しかけてみる。
「死の船で外から帰って来なすったんで?」
 少年は闇色の目でゲイリーを見た。この島には珍しい髪と目の色である。
「……ああ」
「仕事、ですか」
「そうさ」
 少年は酒を一息にあおる。
「俺は人を殺して来たんだ」
 どこか吐き捨てるように、そう言う。
 その目から、はからずもこぼれ落ちた一粒の涙を、ゲイリーは見逃さなかった。
「!?」
 少年自身が一番動揺している。
「……畜生……」
 うつむいて少年がつぶやく。
 どう見ても、それは暗殺者の態度ではない。
 グラスが空になっている。ゲイリーは同じ酒を少年の前に置いた。
「?」
 頼んでないぜ、というような表情で、少年が顔を上げる。
「私からのおごりですよ、どうぞ」
 少年はまだ怪訝な顔をしていたが、ゲイリーが笑ってみせると、やっと笑いを返した。
「……ありがとう」
 少年は不器用な礼を述べた。

 少年は相変わらずうつむいたままだったが、ゲイリーが問いかけるとぽつりぽつりと答えた。
 ロルンで暗黒魔術師として修行を積んできたこと、一人前と認められ、暗殺者の刻印を受け、初めて人を殺して帰ってきたところだということ……。
 少年が暗殺者らしくないのは、経験の浅さのせいかも知れない。
 いや――。
(それだけじゃない)
 ゲイリーはそう感じた。根拠はない。ただ、ロルンにいてなお意志の強さを失わない目が気にかかるのである。
「死者の叫び」が吹きすさぶ季節、少年の他に客はいない。
 秘密めいた話をするにはうってつけの時期だ。
 思い切って口に出してみる。
「失礼ですがお客さん、とてもロルンの方には見えませんでしたよ」
「だろうな」
 少年は小さくため息をつき、意外な一言を口にした。
「俺、あいつら嫌いだから」
 ゲイリーはしばしあっけにとられた。
 ロルンの暗黒魔術師が、そのようなことを言うとは。
「どうして……」
 言いかけた言葉を、ゲイリーは慌てて呑みこむ。だが、少年は自分から続けた。
「どうしてかって? 嫌いなものは嫌いなんだよ」
「いや、しかし……」
 そんな彼が、なぜロルンにいるのか。
 あからさまな疑問の表情を呈するゲイリーに、少年は苦笑する。
「昔な……」
「は?」
「あるところに、一組の夫婦がいたんだ」
「はあ」
 酔いのせいもあるのだろうか、少年は話したがっているようだ。ゲイリーはそれに気付き、少年の語るに任せた。

 一組の夫婦がいた。
 長い間子どもに恵まれなかった彼らは、それゆえに男の子が生まれた時の喜びも大きかった。
 だが、喜びはやがて不安に変わる。月に一度の例祭の折、破壊神に捧げられる生贄は、生後一年未満の赤子と決まっているからだ。
 せっかく生まれた自分達の子どもを、破壊神に捧げたくはない――、親としてはもっともであるが、この島の住人としては表に出してはならない考えを彼らは抱いた。そして子どもを生贄にしないための方法を探し求めた。
 方法は容易に見つかった。
 破壊神に一生を捧げると誓った者とその家族は生贄のくじから外される。
 具体的に言えば、信徒か司祭になればよい。だが、そのためには教団への多額の寄付が必要であり、なおかつ司祭や司教といった幹部クラスから信任を得ねばならない。それほど裕福ではない一般市民の夫婦には不可能な話だった。
 残された最後の手段。
 一般市民にも容易に信徒と同等の地位を手に入れる方法が一つだけあった。
 ロルンに入り、暗殺者となることである。
 それは、人の血で手を汚し、人々に恐れられながら一生薄暗い道を歩んでいかねばならないということだ。本人だけではなく、家族すらも後ろ指を指されて生きていくことになる。だが、夫婦は赤子をなんとしてでも助けたかった。
 ――暗殺者でもいい、生きていてくれたら。
 ――自分達の評判などよりも、子どもの命の方が大事だ……。

 そして赤子は五歳になった時にロルンに入るという条件と引き換えに、一年間の身の安全を保証されたのである。
 だが――。
 人の心は不変ではない。夫婦がその決断を後悔するのに長くはかからなかった。
 しかも、2人目の子どもが生まれたとあっては。
 まして、ロルンに無理矢理入れられた子どもが、皮肉にも暗黒魔術師としての才能をめきめきと伸ばしているとあっては。
 夫婦は自分達の決断を悔やんだ。だがどうにもならないと悟ると、そのやり場のない怒りは当の息子に向けられた。
 息子は両親に疎んじられていることに気付いたが、どうすることもできなかった。

「……それでどうやってロルンを好きになれるっていうんだ?」
 少年はつぶやく。
 少年の語った物語がほかならぬ少年自身の話だということに、ゲイリーは気付いていたが、あえて語らず、少年の話に耳を傾けていた。
 ロルンの暗黒魔術師など「破壊神の意志」とやらのもとに盲目的に従っているだけの人間だと思っていた。だが、そうではないらしい。
(ロルンにもちゃんと”人間”がいるんだな……)
 ゲイリーはそう思う。そして同時に、少年の境遇に同情せずにはいられなかった。

 他の客がぽつぽつと入って来るころ、少年は立ち上がった。
 ゲイリーは思わず尋ねていた。
「名前は?」
「ガルト……ガルト・ラディルン」
 ちょっとだけ笑みを見せる。
 それが少年の名だった。


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