魔の島のシニフィエ番外編・意志を持つ力

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2・破壊神ウドゥルグ

 確かにガルトは他の暗殺者とは違っていた。そしてそのことは、ガルト自身が最もよく知っている。それは両親とのわだかまりのせいだけではない。
 黒猫亭を出て、中心部にある礼拝堂へ向かう。ロルンはヘスクイル教の下部組織であるから、朝夕の礼拝への出席が義務づけられているのである。
(でなけりゃ、誰が出るもんか)
 ガルトはつぶやく。
 ヘスクイル教徒と呼ばれる立場にありながら、彼はヘスクイル教に関するすべてを嫌っていた。そしてヘスクイル教の根幹をなす欺瞞に気付いていた。
 礼拝堂には既に大勢の人が集まっていた。普段着の者は信徒かロルンの者。黒のローブを着て白い仮面をつけているのが下級司祭、同じローブに青い仮面が中級、赤い仮面は上級司祭である。地区ごとに定期的な出席を義務づけられている一般市民もいるが、信徒との区別がつかない。
 ざわめいていた群衆が、波がひくように静まり返っていく。
 赤い仮面の上級司祭が一人、祭壇の前に立つ。
 祭壇の中央には黒い石像が一体安置されている。長い髪の男性、額に額飾りをつけ、恐ろしげな甲冑に身を固めている。
 ヘスクイル教の神、破壊神ウドゥルグの像。
 額飾りに縁取られて、眉間に第三の目が開いている。生きるものすべての生死を左右する目と言われている。
「死をもたらす破壊神よ!」
 祭壇の前の司祭は、像に向かって祈りの声を上げる。
「死をもたらす破壊神よ!」
 群衆がそれに唱和する。
「来るべき破滅の世に」
「来るべき破滅の世に」
「我等を救い」
「我等を救い」
「汝の王国を打ち立てたまえ」
「汝の王国を打ち立てたまえ」
 司祭の言葉に続いて、群衆が同じ言葉を復唱する。
 ガルトも口を動かしていた。
 動かしているだけである。
 実際には何もしゃべってはいない。だが、唱和している振りだけでもしておかないことには、あとでどんな面倒が起きるかわからないのである。
 それでも、ガルトは内心ばかばかしくてやっていられない心境だった。
 破壊神ウドゥルグが人間の姿で降臨し、この世を「死界」と呼ばれる死者の世界に変える――それがヘスクイル教の教義である。この世が死界となっても、破壊神に従う者だけは死を超越し、死界に君臨することができるのだという。
 破壊神の降臨には多くの犠牲が必要であり、破壊神像にかかる血が多いほどに降臨の日は近づくとされていた。
 嘘だ。
 それがまるきりの嘘だということを、彼は知っていた。
 像を幾分にらみつけるような表情で、ガルトは偽りの信徒を演じる。
 ウドゥルグの存在を信じていないわけではない。信じないわけにはいかない。
 なぜなら……。
 彼がまさしく「ウドゥルグ」であるからだ。

 おぼろげではあったが、彼は人とは異なるものを感じる力を持っていた。
 生命の流れ――生まれ、死に、死者のいるべき所へ帰り、新たな生を繰り返す――それは自然の摂理である。その摂理の一部であるという感覚を、彼ははっきりと感じることができる。
 形も意思もなく、だが確かに存在する力。「ウドゥルグ」と名づけられたその力は、はじめはただの「力をあらわす記号」でしかなかった。
 だが、人は死を恐れ、死をも含む生命の流れの抗し難い力を恐れる。
 次第に人々のイメージの中で、その力は恐ろしいものとして受け止められるようになり、やがて「ウドゥルグ」は恐ろしい破壊の神という人格を与えられるようにようになっていった。
 ガルトは普通の家庭で、平凡な人間として生まれた。だが彼は同時に、生命の摂理の力が具現した存在であった。それだけならばまだ、特別な力の持ち主というだけであるが、問題は、破壊神ウドゥルグに与えられた人々のイメージの影響を、彼もまた受けてしまうということだった。
 両親や妹とは違う――この島では滅多に見られない――闇色の髪と目。伝えられる破壊神と同じ色だ。
 額のほくろも、ちょうど破壊神の第三の眼と同じ位置にある。
 そして――。

 詠唱が終わると、祭壇の前に一頭の犬が引き出されてきた。傍らに、大剣を持った男が立っている。ガルトと同じロルンの一員であるが、覆面で顔はわからない。
 犬の足元には、金の大皿が置かれている。
 司祭が高らかに叫ぶ。
「破壊神ウドゥルグよ、今ここに犠牲を捧げ、降臨を祈願するものなり!」
 大剣が振り降ろされる。
 悲鳴ともうめきともつかぬ奇妙な声を上げ、犬の首から血が吹き出す。
 完全に切断しきれなかった犬の首は、それでも骨を断ち切られ、真下の大皿に向けて落下する。
 僅かばかりの筋肉と皮でつながった胴体が、首に引きずられるように倒れこんだ。
 あたりには犬の血飛沫が飛び散っている。無論正面の破壊神像も、血を浴びてぬるりとした光沢を放っている。
 ガルトはかすかに表情をゆがめる。
 自分が血を浴びたような感覚が、はっきりと感じられる。
 今に始まったことではない。
 確かに、彼は生贄の血を浴びつづけてきた。赤ん坊の時には、礼拝に参加してもいないのに、生贄を捧げる時刻になると火がついたように泣き出したという。
 彼だけが知る秘密。
 ウドゥルグはとうに降臨している。ガルト・ラディルンという人間として。
 それでも彼は破壊神ではない。
 そのはずだった。


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