魔の島のシニフィエ番外編・意志を持つ力

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7・出航

 船が出る。
 大陸に仕入れに出かける覆面商人の乗る船だ。
 だが、酒場「黒猫亭」の主人、ゲイリー・クランジェにとってはそれ以上の意味を持つ船だった。
 酒場を経営する一方で彼は、島の外へ脱出する人の援助をしている。「渡し屋」と呼ばれる仕事だ。
 島の南西部、シガメルデ周辺がある日突然壊滅したという噂が広まったことから、最近は客が多い。信徒達に知られれば無事では済まないが、彼らに密かな反感を抱いているゲイリーはこの「裏の仕事」に誇りを感じていた。
 それゆえに覆面商人に扮した客を乗せた船が気にかかるのも無理はない。
 まして、今日の船に乗った客の一人は、他のどの客とも違っていた。
 暗殺組織ロルンの暗黒魔術師で、壊滅した都市から森を抜けてやって来た少年。彼は信徒達から追われているらしい。半年前に会った時、そのロルンの一員らしからぬ振る舞いに驚きを感じたものだが、どんな事情で追われることになったのだろうか。
 彼は語らない。だが、シガメルデ地方の壊滅になにか関っているらしいことが、その態度からうかがえた。
 彼を商人として偽装登録し、船に乗せた段階で、ゲイリーの仕事は終わったはずだ。だが、なぜか彼のことが気にかかってならない。
 船はゆっくりと岸壁を離れ、沖合いへと遠ざかって行く。
 彼はいずれ、ダーク・ヘヴンを変える存在になるかも知れない。見送るゲイリーの胸にわけもなく、そんな予感が去来した。
 が、その時。
 同じように船を見送る人影に、ゲイリーは気付いた。
 司祭服に赤い仮面。
 なぜ上級司祭がこんな場所にいるのか、ゲイリーにはわからなかったし、その司祭が国で2番目の権力を持つ者だということにも、無論気付くわけはなかった。

 船の中に不穏な空気が漂っている。
 追われるガルトの感覚は鋭敏だった。商人でも脱出者でもない者が、この船に乗っている。しかも殺気をみなぎらせて。
 この気配を、ガルトは知っていた。
(ロルンの暗殺者か……)
 ターゲットはガルトか、それとも他の脱出者の誰かか。
 いずれにせよ、このままにしておくことはできそうになかった。
 船が沖合いに出て、ターゲットが安心したところを狙うつもりだろう。
 ガルトは船内を歩きまわる風を装って、暗殺者達の様子を探った。かつての仲間達だけに、ちょっとした挙動や服装から、どういう方法で暗殺するのかの見当はすぐにつく。
 彼らがさり気なく監視しているのが自分だということも。
 人数は3人。吹き矢の筒を持つ大柄な男と、恐らくナイフ使いであろう、敏捷そうな男、それに派手な装身具の中に呪具を紛れ込ませた若い女。
(やっぱりな……)
 摂理の力も破壊の力も使えないが、暗黒魔法は使える。
 計略を練り、時を待つ。
 船が沖に出て、商人達はみな船室へと入ってしまった頃。
 ガルトは一人、風の強い甲板に立つ。天候は晴れ。日を選んで出発した甲斐があって、島周辺にしては珍しく穏やかな天気だ。それでも甲板の風は強く、冷たい。
 風は船の進行方向から最も強く吹いている。それを計算した上で、ガルトは風上に立った。
 物陰から毒の吹き矢で彼を狙う暗殺者は、風にあおられて矢を放てない。
 ガルトは不敵な笑みを浮かべた。
「ばーか。狙われてるのがわかってて、わざわざ船室になんか入るかよ」
 不意にナイフを持った、別の暗殺者が飛びかかって来る。が、ガルトは動揺すらしなかった。
 ナイフはガルトに届く前に止まる。切っ先とガルトの間に、得体の知れない黒い渦のようなものが生じていた。
「?」
 異変を感じた暗殺者があたりを見回した。
 が、その時にはもう、暗殺者の身体は暗黒の渦に呑み込まれ、消えていこうとしている。
「暗黒魔術師をなめるんじゃねえよ」
 指輪をきらめかせ、ガルトは言う。もっとも、この魔法――攻撃を仕掛けてきた者を呑み込む暗黒の渦を作る技――を知っている人間は、現在ではガルトのほかにはいないかも知れない。古い本をあさり、密かに身につけた魔法なのだ。
 吹き矢の男の後ろで、暗黒魔術師の呪具を持つ女が手を動かす。魔法を使うためのシンボルを描いているのだ。
「闇に潜みし、力ある者よ……風の精霊に命じて道を空けさせたまえ」
 呪文は本来、暗黒魔法には意味がない。描いたシンボルがすべてだからだ。だが、養成所では呪文を学ぶ。島外で暗殺を行なう際にカムフラージュとなることと、言葉の力がシンボルを強めると信じられていることが理由だ。
 風に逆らって飛び道具を飛ばす補助魔法。だが、風下にいる以上、その呪文を使ってくることは予想がついていた。
 負けずにガルトもシンボルを描く。
「闇よ、剣となりて我に仇なす者の胸を貫け!」
 闇の気が凝縮し、鋭い剣となって吹き矢の男を狙う。風に逆らって飛ぶ吹き矢を空中で打ち砕き、そのまま男の胸に深々と突き立った。
 残るは、あと一人。
 女は前に進み出る。ちょうどガルトと向かい会う形になって、女はやっと口を開いた。
「……なかなかやるわね。でも本番はこれからよ」
 仕事を楽しんでいる口ぶり。人の命を摘み取ることに快感を覚える表情。暗殺を天職と思うことのできる種類の人間であることがわかる。
「ひとつ、聞いていいか?」
「なによ」
「あんたらが来たってことは、俺を殺せっていう指令が出てるんだな」
「あたりまえじゃない」
 女の答えはあっさりしたものだった。
「なんとしてでも、ここで始末するようにって言われてるわ」
「誰に?」
「そんなこと、わかるわけないじゃない。あなたもロルンにいたんでしょ?」
 ガルトはうなずく。確かにロルンでの指令は文書で下され、その場で焼き捨てられる。立ち聞きを防ぎ、証拠を残さないやり方だ。
 女はつけ加えた。
「……ただ、かなり上の方からの指令だったみたいよ」
 二人は一見なごやかに会話している。甲板の上で、強い風にあおられながら。
 だが、その陰で二人は互いの隙を探している。一瞬の攻撃の機会を求めて。
 女はかなりの使い手らしい。その自信からもそれがうかがえる。
「なんでわかる?」
「それはね……」
 女が動いた。
 すぐ前で仰向けに倒れている吹き矢の男に向けてシンボルを描く。
「このあたしが受けた指令だからよ!」
 男が、ゆらりと起き上がった。
「なっ……!」
 完全に不意をつかれる形になった。
 死体制御の魔法。
 ガルトにとっては、初めて見る魔法である。いや、成功した場面を初めて見る魔法というべきか。彼の周囲で摂理の力に反する魔法は使えなかった。そのために失敗した場面しか目にしていなかったのだ。
 だが、ガルトは以前のガルトではない。摂理の力をもう一人の自分に渡してしまった彼は、ただの暗黒魔術師でしかなかった。
 屍鬼となってよみがえった男は、うつろな目を開き、じりじりとガルトに迫る。手には吹き矢を持っている。
「暗黒の世界よ、この者に永遠なる安らぎを……!」
 屍鬼を消し去る魔法を使う。だが、何の反応もなかった。
「無駄よ」
 女が勝ち誇ったように笑う。
「呪文は効かないわ」
 屍鬼の身体がうっすらと赤く光っている。魔法を無効化する魔法が既にかけられていたのだ。屍鬼に虚をつかれたガルトが動揺している間に、女がかけたものだろう。
 しまった、と思う。生半可な物理攻撃では、痛みを感じない屍鬼の足を止めることはできない。その上に魔法が無効化されるとあっては、反撃の手が塞がれたも同然である。
 いや。一つだけ手があった。
 屍鬼の視力を奪う。吹き矢の攻撃を封じ、接近してその身体にシンボルを刻むのだ。
 だが、魔法は効かない。直接攻撃を加えようとしても、その前に屍鬼の持つ吹き矢の射程内に入ってしまう。
 飛び道具が必要だった。
 ガルトの手には、黒い刃がある。小さな刀子の形をしたそれは、さっき吹き矢の男を倒した闇の剣のかけらだ。これを投げるしか、方法はなさそうだった。
 だが、この強風の中、歩く敵の目に命中させることなど、ガルトにとっては不可能に等しい。
(ええい、いちかばちか……!)
 彼は刃を手に持ち、構えた。
 その時。
(……る……)
 頭の中で、声が聞こえた。
(?)
(俺の身は……俺が守る……!)
 次の瞬間、ガルトは意識の表舞台から引き降ろされていた。
「彼」だ。
 ガルトの意志とは無関係に、手が動く。
 放たれた刃は正確に屍鬼の片目をえぐり、屍鬼は一瞬よろめく。すかさず駆け寄って吹き矢を叩き落とし、腕を取って一回転してそのまま海へと屍鬼を投げ込む。
 一瞬の後。
「ま……まさか……」
 女が呆然とつぶやく。
「なんて身のこなし……あなた魔術師だったんじゃなかったの?」
 呆然としているのは、ガルトも同じだった。
 身体の支配権はすぐに戻って来た。
「彼」によって形勢が逆転したのだ。
「勝負あったな」
 先に我に返ったガルトは、自信を打ち砕かれて立ち尽くす女に向かって声をかけた。手はさり気なくシンボルを描き、いつでも闇の剣を飛ばせるようにしてある。
「ま……まだよ!」
 女の描くシンボルが完成するより早く、闇の剣が放たれた。
 倒れる女に向かって、ガルトは言う。
「命を奪うことなんか嫌いだけどな……振りかかる火の粉だけは払うぜ。これからもな」
 女の息は既にない。
 ガルトの言葉は、今や敵にまわした教団に対する、誰も聞くことのない挑戦状だった。

 戦いは終わった。
 刺客達の死体を海に放り込み、ガルトは海を見つめながらさっきのできごとについて考えていた。
 予想外のできごとだった。「彼」の出現も、「彼」の意外な才能も。
 だがその驚き以上に、「彼」が自分の身を守るために出て来たことが嬉しかった。
 恐らく「彼」ならば、ガルトが表に出なくてもうまくやっていけるだろう。そう思うとなんだか愉快なような、寂しいような、奇妙な気分になる。
(そうだ、こいつ……まだ名前がなかったよな)
 ガルトの名では、追手に見つかってしまうかも知れない。新しい名前をつけてやろうと、ガルトは思う。
(そうだな……)
 いつもの癖で胸元に手をやり、エリアの形見のペンダントに触れ、しばらく考える。
 エリアの残したペンダントの石は月長石。ムーンストーンと言われるその石を、アズレンの方言ではディングと言う。
(ディング……そうだ、それにしよう)
 この船が目的地に着いた時から、ガルト・ラディルンは消え、「ディング」の人生が始まる。

 ガルトは再び海を見つめた。

 ダーク・ヘヴンは、もう見えない。

                                 (end)


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