番外編競作 その花の名前は 参加作品

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 「魔の島のシニフィエ」番外編

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サイレント・ウィッシュ〜希望の花咲く時〜

片岡美魁

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 そんなばかな、と、誰かがかすれた声をあげた。
 船のへさきに無造作に立つ人物。立っていられるはずのない細い足場に平然とたたずむその姿に、乗船していた者達は一様に驚愕のまなざしを向ける。
 それが何者かは、誰もが知っている。
「ウドゥルグ……様」
 それは、彼らが信仰していることになっていた死と破壊の神の名だった。死者の世界に君臨し、封印を解いて現世をも支配しようとする強大な魔。このヘスクイル島は、破壊神を信仰し、封印を解くべく生贄を捧げ続けた教団に、数百年もの間支配されていた。
 ヘスクイル島北西部の町ゲインに停泊中のこの船に乗っているのは、教団の暗殺者組織「ロルン」の構成員達である。教団の命令に従い、反抗的な態度を取る一般民やくじで生贄に選ばれた子供を手にかけ、破壊神に捧げてきた者達だ。
 だが。
 今ここに破壊神が現れるはずはない。七百年近くもの間、教団のいう封印が解けたという報告はいっさいなかったし、この世が死者の世界に覆われるような兆候もない。なによりこの時、破壊神を信仰して島を恐怖で支配し続けた教団は、もう存在していなかった。
 長いあいだ教団の圧政に苦しんできた一般民が生命の神をかかげて蜂起し、教団は崩壊した。それが十日ほど前。彼らに命令を下すことのできる司祭ももはやいない。
 こんな時に破壊神が彼らの前に姿を現すことなど、まず考えられない。
 だが今彼らの目の前には、各地の教団の聖堂で伝えられてきたままの「ウドゥルグ」の姿があった。
 これまで「ウドゥルグ」の姿を見た者はいない。だがその姿が「ウドゥルグ」であることは疑いようもなかった。黒いマントと長い黒髪を荒い海風になびかせてへさきに立つ。その額には第三の目が開いている。鋭い三つの目で見つめられると、抗しがたい威圧感に襲われ、手だれの暗殺者達が誰一人として動くことができなくなっていた。
 なぜ「ウドゥルグ」がここに現れたのか、誰にも想像がつかない。誰もが驚きと当惑のまなざしで、三つの目を持つ者を凝視する。
 その中で。
(あれは……)
 ティア・ルクシアもまた、船の上で凍り付いたまま「ウドゥルグ」の姿を見つめていた。
 以前会ったことがある。そんな気がする。
 彼女の脳裏には、一人の若い男の顔が浮かんでいた。目の前の「ウドゥルグ」とは、目鼻立ちや髪の色は似ていたものの、身にまとう雰囲気がまるで違っているし、何より額に目などなかったが、なぜかティアの中では、彼と「ウドゥルグ」は何の違和感もなく結びついていた。
(あなたは、あの時の……)
 声を出すこともできないほど威圧されながらも、ティアは心のなかでそう呼びかけていた。

 ティアが久しぶりにヘスクイル島の港に降り立ったのは、一年ほど前のことである。
「相変わらずね……」
 整ってはいるが表情の変化に乏しい顔には、四年ぶりの故郷に対する感慨は浮かんでいない。暗殺者としての任務をこなし、新たな任務の一環として島に召還されただけのことだ。久々の再会があるわけでも、迎えてくれる家族がいるわけでもない。
 両親や弟妹はいる。だが、教団の暗殺者となった自分が訪れるのはかえって厭わしく思うだろう。だから、顔を出すわけにはいかない。自分をロルンに入れることで家族が準信徒の立場を得て、それなりの生活を送れるようになった。自分の存在がどこかで役に立っている。それで十分だと思う。
 今のティアにできるのは、任務に従うことだけだった。
 実のところ、彼女は教団に心からの忠誠を誓っているわけではない。破壊神に心酔しているわけでも、破壊神の統べる世界で死を超越した存在になることを願っているわけでもない。命令が下れば人を殺すが、進んで他人の命を奪いたいとは思っていない。彼女が教団の命令に従っているのはただ単に、命令に背けば自分が処刑されるだけではなく、家族にまで累が及ぶからだ。
 教団に従い、命ぜられるままに人を殺す。無駄のない身のこなしで標的の急所を狙う。彼女には他に選択肢はない。
 教団に疑問を抱き、それを態度に示したために処刑されていったロルンの仲間達を数多く見ている。自分がその一員とならないために、あらゆる疑問を持つことを、彼女は自分自身に対して禁じていた。
 何も求めず、何も問わない。それが彼女の生き方だった。
 が。
 ティアはふと立ち止まり、親指大の丸いものを取り出し、手のひらにのせてじっと見つめた。茶色く堅い殻を持ったそれは植物の種のようだが、実際には何なのか、ティアは知らない。
 島外で立ち寄った道具屋で、謎めいた言葉とともに渡されたものだ。つい受け取ってしまったが、時折無性に気になって、こうして取り出して見てしまう。
「この花には、まだ名前がありません」
 道具屋は、そう言った。
「ですがこれは、あなたの求める世界に咲く花です。あなたがどのような世界を求めるかによって、この花の名前も決まるでしょう」
 なんのことだかわからず問い返したが、謎めいた微笑を浮かべた道具屋は、そのうちにわかりますとしか答えなかった。
 仕方なく受け取ったが、しだいに気になってくる。
 何も考えず、命令に従うだけ。ティアはそうやってロルンで生き延びてきた。何も求めず、何も問わず、ただ、命令を確実に実行する。それ以外に自分には選択肢はないのだと、ずっと思っていた。
 その自分が「求める世界」とは何なのか。
 ティアにはわからなかった。
 建前上、ロルンの暗殺者である彼女はウドゥルグの君臨する死の世界を求めていることになる。だが、そんなふうに願ったことは一度もない。
 それだけにいっそう、あの店主の言葉はティアの心に引っかかる。
(私は……何かを求めているの?)
 種を見つめたまま、ティアはそうつぶやいた。

 港町ドリュキスから街道を通って西に進むと、首都レブリムに到達する。ティアはレブリムの支部へ向かい、次の任務の指示を受けることになっていた。
 北方に位置するこの島では、夜の間も空が明るい。宿屋で仮眠を取り、朝まだ早いうちに出発する。若い女性の一人旅とはいえ、ティアは剣の扱いに長けている。夜盗や獣に襲われても身を守る自信は十分にあった。
 町はずれの橋の上で、下に交差する道を歩く人影が目に入り、ティアは足を止める。
(珍しい……)
 それは、闇色の長い髪を後ろで束ねた青年だった。この島には淡い色の目と髪の住人が多い。漆黒の髪は滅多に見られるものではなかった。
 しかも、それだけではない。
 青年はのんびりと歩いている。早朝の散歩中という様子だ。
 だが、ロルンの暗殺者の目から見れば、驚くほどに隙のない身のこなしをしていることがわかる。一般民にはこのような動きはできない。訓練され、身についた動きだ。
(ドリュキス支部の人かしら)
 ティアはまず、そう思った。この町を拠点とするロルンの暗殺者であれば、その身さばきにも納得がいく。
 が、そうではないことがわかったのは次の瞬間だった。
 青年の周囲に走り出てきた三人の男女に、ティアははっとする。
 ティアと同じ、ロルンの暗殺者。
 三人は青年を取り囲むように素早く展開し、おのおのの武器を構える。一人は魔術師らしく、手を動かして魔法のシンボルを描こうとしていた。
 ティアは黙ってその様子を見守る。
 どうやらあの青年は、暗殺者に狙われるような何かをしでかしたのだろう。だが暗殺者相手に身を守るすべを持たない一般民を三人がかりで襲うということは考えられない。脱走した元暗殺者の可能性が高いが、それにしても一人の標的を三人で狙うというのはかなり異例のことだった。よほど手ごわい標的なのだろうか。
 青年は暗殺者達に囲まれる形で立ち止まる。表情はティアの位置からは見えなかったが、動揺した様子は少しも見られない。かといって反撃の体勢を取るわけでもなく、ただ突っ立っているように見えた。
 が、次の瞬間、三人が声もなく倒れる。
 ティアは目を疑った。青年は指一本動かしてはいないし、一声も発してはいない。魔法のシンボルをあらかじめ描いていたのだとしても、発動には声を出さなければならないはずだ。
 青年がふと顔を上げ、ティアの方に目を向ける。ティアが身を隠すと、彼はそのまま歩き出し、ドリュキスの市街の方へと消えて行った。
 青年の姿が見えなくなるのを見はからい、ティアは下の道へひらりと飛び降りる。倒れた三人を調べてみたが、既に命はなかった。毒を使った形跡もなく、まったくの自然死に見える。彼らがなぜ死んだのか、ティアにはどうしてもわからなかった。
 しかも、一つの事実にティアは気づく。
(屍鬼にもならない……)
 屍鬼は、死体にある魔法をかけることによって誕生する、生ける屍である。その魔法は破壊神の力を表し、破壊神の恩恵がなければ屍鬼を作り出すことはできないとされていた。
 ティアも含めてロルンの暗殺者達には、死ぬと自動的に発動し、よみがえって屍鬼となる魔法がかけられている。任務の途中で倒れてもそのまま任務を続行できるような仕掛けだ。だが、あの青年に挑んだ暗殺者達が屍鬼になる気配はなかった。
(……私には関係ないわ)
 ティアは立ち上がって歩き出す。
 余計な問いを抱くべきではない。あの青年を標的にせよという命令が下らない限り、これはティアとは関係のないできごとだ。彼女がすべきは、首都レブリムに向かい、そこで新しい任務を受けることであって、目の前の謎めいた事件を読み解こうとすることではない。まして、彼の目的を推し量ることなど、してはならないことなのだ。
 おそらくは教団に刃向かう存在。本来そういった存在を粛清するはずのロルンの暗殺者に、いとも簡単に死を与えた力。
 彼ならば、あるいは。
 ティアはかすかに首を振る。
 その先は考えてはならない。彼女がそれを求めることは、決して許されてはいないのだ。

 三人の仲間の死を教団のドリュキス支部に報告し、今度こそティアはレブリムに向かう道を歩き出す。
 だが、この日は厄介ごとに巻き込まれる日だったらしい。
 ドリュキスを出て間もなく、ティアは足を止めた。
 正面に人影が立っている。それも、ただの人影ではない。
 不自然にねじれた首、鼻をつく独特の臭い。明らかにそれは、生きた人間ではなかった。
(屍鬼!)
 ティアの全身に緊張が走る。
 教団では命を落としたロルンを屍鬼とし、島内を監視する部隊を編成している。ティアの目の前に現れた屍鬼は、そうした屍鬼部隊の一員のようだった。だが、目の前のティアを同じロルンの一員だと認識している様子はない。じりじりとティアに迫り、ゆっくりと手を上げようとする。
 屍鬼は身体の腐敗が進むにつれて、思考力や判断力を失っていく。はじめは教団の命令に従っているが、その判断力がなくなれば、近くを通りかかった人間をだれかれかまわず襲う存在となる。たとえロルンの仲間であっても同じことだった。なまじ殺傷力があるだけに、それは厄介である。
 ティアは無言で剣を抜き放った。
 迫ってくる様子から、制止しても無駄だとわかっていた。ならば、立ち向かうしかない。
 屍鬼の手が上がり、宙に図形を描き出す。ロルンの魔術師が用いる魔法のシンボルだ。
 ティアはその手に斬りかかった。手首から先が跳ねとんだが、屍鬼の動きは止まらない。シンボルが完成すれば、ティアには何らかの魔法が放たれるだろう。何の魔法かは定かではないが、標的を即死させるものもあったはずだ。そんなものを放たれてはひとたまりもない。
 腕を落としたぐらいでは、屍鬼を止めることはできない。だが、ティアはロルンで剣術と体術しか専攻していなかった。屍鬼をもとの死体に返す方法など、知るはずもない。
 屍鬼の動きを止めるべく突きを繰り出そうと、ティアは剣を構える。
 が、その時、屍鬼が不意にどさりと倒れた。まるで操り糸の切れた人形のように、そのまま動かなくなる。
(死体に戻った……?)
 何が起きたのか、とっさには理解できない。だが、当面の危機が去ったことは確かなようだった。
 はっと目を上げると一人の男の姿が見えた。くるりと背を向け、そのまま歩み去ろうとしている。
 闇色の髪の、あの青年。
「待って!」
 気がつくとティアは彼を呼び止めていた。
 青年は振り返る。年は二十代半ばといったところだろうか。額の中央にほくろが一つ。後ろで一つに束ねられた髪と同じ闇色の目からは、呼び止められて驚いているような表情が見て取れた。
「あ……」
 ティアは後に続けるべき言葉を見つけることができなかった。
 礼を言うべきか、それとも。
 屍鬼を倒し、ティアを助けたのは、おそらくこの男だ。だが、そもそも屍鬼を倒す者がこの島にいるのだろうか。
 ロルンの魔術師でなければ、屍鬼を倒すことはできない。だがロルンの一員が、自分が攻撃を受けているわけでもないのに屍鬼を倒すことなど、まず考えられないし、まして任務でもなく誰かを助けることなどありえない。
 この青年は何者なのか。 
 言いよどむティアを、彼はしばらく怪訝そうに見ていたが、やがてつかつかと近寄ってくる。足下の死体を避けて回り込み、ティアの正面に立つ。かすかに笑みを浮かべつつ、彼は初めて口を開いた。
「よう、やっぱりロルンでも、屍鬼に襲われるのはイヤだろ?」
 陽気で快活な口調だったが、その言葉にティアははっとする。
 ロルンは一般民の間にまぎれ込み、偵察や暗殺の機会をうかがう。外見からロルンだと判断することは困難である。わずかな身のこなしや剣の使い方からロルンかどうかを判断できるとすれば、それは同じロルンの一員に他ならない。
 だが、教団に仕えるロルンが教団の作り出した屍鬼を倒すはずはない。さらには同じロルンに狙われることもなかろう。ティアはそこから、男が何者であるか判断した。
(やっぱり、元ロルンの反乱分子ね)
 教団に抵抗する集団。その中にはロルンからの脱走者も含まれるという。
 反乱分子を発見した場合、自分の判断で始末してもよいことになっている。だが、ティアはここで目の前の男に手を出すつもりはなかった。命令を受けてもいないのに人を殺す気はない。まして彼は、指一本動かさずに三人に死を与えた力の持ち主なのだ。
 手に持ったままだった剣をおさめ、ティアは彼に問いかける。
「どうしてロルンだとわかってて助けたの?」
 反乱分子であれば、ロルンを助けることはかえって自分を危地に追い込みかねない。彼がわざわざそんな真似をした理由がわからなかった。
 青年は端正な顔に笑みを浮かべる。その目には強い意志のようなものが感じられた。
「屍鬼を眠らせるのが、俺の役割だからさ」
「この島で、しかもロルンにそんなことを言っていいわけ? 反乱分子だと思われるわよ?」
 思わずティアは尋ねる。屍鬼は破壊神の恩寵だ。それを倒すことは、破壊神に逆らうことを意味している。教団に対しても、そして教団の下部組織であるロルンに対しても、言っていいはずはない。なにより、破壊神は死界――誰もが必ず行き着く場所――の王なのだ。生きているあいだの反逆は、死後に罰せられるだろう。
 そういった恐怖を持たずにこの島に住む者など、普通は存在しないはずだ。少なくともティアの記憶にはない。が、そんなティアに目の前の青年は悠然と笑ってみせた。
「かまわないぜ、その通りだし。止めたければ止めてみればいい。勧めはしないけどな」
「……やめとくわ。命令を受けてるわけじゃないし」
 この島で破壊神に刃向かい、ロルンの前で堂々と反乱分子だと言ってのけるという、あまりにも危険な態度を取れる自信を、彼は持っている。なにより暗殺者達を返り討ちにし、屍鬼を倒す力の持ち主なのだ。
「そうだな。その方が助かる」
 青年はまっすぐにティアを見つめて続けた。
「さっき、見てただろ?」
「!」
 ティアは表情を硬くする。
 気づかれていた。もしかするとこの場に彼が現れたのも、ただの偶然ではないのかも知れない。
「あんまり近づかない方がいいぜ。下手すると巻き込まれる」
 自分にはこの男は倒せない――そう、ティアは思う。命令が下されれば、ティアはこの青年の命を狙う。自分の持てる技を駆使して、確実に死をもたらす方法を選び、実行する。だが、おそらく実行する前に、自分の命はこの青年によって奪われる。むしろ、今自分がこの青年を目の前にして生きていることの方が不思議なのかも知れない。
「私を殺そうとは思わないの?」
「あんたはまだ、俺も仲間も狙ってないからな」
「余裕なのね。いつかあなたを狙うかも知れないのに」
「その時は悪いが、止めさせてもらう。けど、やらずに済むならそれにこしたことはないよ」
 青年の言葉は明快だった。
 無駄な殺戮はしないが、目的の障害は確実に排除する。それはロルンで教え込まれてきた論理だ。目の前の青年が脱走した元ロルンだとすれば、同じ論理を共有していてもおかしくはない。
 だが彼の目的は、ティアのそれとは違う。ティアは命令によって与えられた目的のもとにしか行動できないが、この青年は自らの意志で、この島ではほとんどありえないと言ってよい目的を持っている。
 なぜ、そんな意志を持ちうるのだろう。
 ふと、興味がわいた。
「聞いてもいい?」
「なんだ?」
「あなたが求める世界を教えて」
 青年は首をかしげ、怪訝そうな表情を浮かべた。目鼻立ちのはっきりした顔つきのせいか、わずかな目の動きで表情や雰囲気さえもが違って見える。
「……反乱分子に、それを聞くわけ?」
「あなたは、ただの反乱分子じゃない」
 ティアは正面から青年を見つめる。
「さっきの力がなんなのかは知らない。けれど、なにか強く求めているものがあるから、あなたはその力を使えるんじゃないの?」
 ティアの問いに、青年ははっとしたような顔をする。
「……まあ、そういうことかもな」
 自分でも気づいていなかったことを指摘された、そんな様子で、彼はうなずく。
 強い意志をたたえたまなざしだと、ティアは思う。その闇色の目が見つめる先を知りたくなったのは、その強さに彼女自身が惹かれたからかも知れない。
「俺が求める世界か」
 少し考えて、青年は答える。
「破壊神のいない世界、だな」
「……そんなものが可能なの?」
 思わずティアはそう尋ねる。死の世界を統べ、今は封印されていると伝えられる神の存在など確かめようがないし、まして倒すことなど不可能ではないか。
 が、彼は少しも迷うことなく答えた。
「俺はできると思ってる」
「そう……」
 その言葉に、ティアは一つの決意をする。そして腰の物入れから島外の道具屋で渡された種を取り出し、青年に歩み寄ってその掌の上に種を乗せる。
「これ、持っていてもらえないかしら」
「これは……?」
「外でもらったの。私の求める世界に咲く花だと言われたけれど、私には求める世界なんてないし、求めることも許されてはいない。だから……あなたの求める世界を私も求めてみることにするわ」
 目の前の青年に種を渡す気になったのは、ただの思いつきに過ぎない。だが「求める世界に咲く花」の種を持つのにふさわしいのは、求める世界を持つ者だ。だから彼が種を持つべきだ。そう、ティアは思う。
 闇色の髪の青年は、低く問いかける。
「ロルンにいるままで?」
 暗に反乱分子に加わらないかという勧誘の含みを持つ問いに、ティアは静かに答える。
「それは、私には選べないから」 
「……そうか」
 青年は掌上の種に目を落とす。
「もし、俺を殺すように命令が下ったら?」
「従うわ」
 ティアはあっさりとそう言った。
「勝てるとは思わないけれどね。その時は私の分まで、その世界を実現して頂戴」
「わかった」
 彼も多くを尋ねない。反乱分子には加わらず、ロルンから抜けることもせず、命令を守り続ける。ティアにはそれ以外に選択肢がないということを、彼もまた理解したようだった。
「できればそんな命令が下らないことを願うけどな」
 ティアは無言でうなずく。
 命令が下れば、ティアはこの青年を狙う。そして彼はその力でティアに死を与えるだろう。ティアが任務をためらうことも、彼が自分の命を狙った者を生かしておくこともない。互いに憎み合っているわけではなくても、教団の暗殺者と反乱分子の間に手加減や情けはありえないのだ。
 どちらもそれをよく知っている。破壊神の影に覆われている限り、この島では他の生き方はできないのだ。
「俺はガルト・ラディルン。あんたの名は?」
「……ロルンに名前を聞かないで」
 ティアは寂しげに微笑した。
 いつかこの花が咲いた時、私が生きていたら聞いてほしい。
 そう言いたかったが、自分でもなにやら遺言のように思えてしまい、どうしても言葉にはできなかった。

 こんな形で再会するとは思っていなかった。
 ティアの目はじっと、へさきに立つ「ウドゥルグ」に注がれている。
 何者も逆らうことのできない峻厳たる摂理が、あたりを支配していた。手だれの暗殺者達が、一歩も動けない。
 額の目を除けば、その顔をティアは知っている。闇色の髪の反乱分子、ガルト・ラディルン。だが、身にまとう雰囲気はあの快活な青年のものとはあまりにかけ離れている。
 摂理そのものがガルトの姿を借りて現れたように、ティアには感じられた。
 教団が崩壊してなお、いまだにロルンを支配する神「ウドゥルグ」として。
 凍り付いたままのロルンの生き残りに向かい、「ウドゥルグ」はゆっくりと口を開いた。
「もう、無益な血を流すな。私がそう望んだことなど、一度もなかったのだから」
 彼らが気づいた時、へさきには誰もいなかった。
 やっと動けるようになっても、彼らはしばし呆然としていた。
「今のはいったい……」
「どうしたらいいんだ」
 そんなつぶやきが船上のあちこちから聞こえた。
 それは、破壊神の言うことではない。これまで彼らは破壊神の復活のために血を流し続けてきた。それなのに、肝心の破壊神がそう望んでいなかったとは、どういうことなのか。
 当惑が一同の表情に見て取れる。
(あれは、破壊神じゃない)
 ティアはそう思った。
 蜂起の折、反乱組織の指導者が掲げたのは「生命の神ウドゥルグ」だった。ウドゥルグは実は破壊神ではなく生命を導く神であり、教団はそれを隠蔽してきた……それが彼の主張だった。
 生命を導く神。ティア達の目の前に現われ、血を流すなと命じたのは、まさしくそんな「ウドゥルグ」ではなかったか。
 あれが本当にガルトだったのかは、ティアにはわからない。だが、一つだけはっきりしていることがある。
 彼女達の前に現れた「ウドゥルグ」は、命じる者を失ったティア達を救い、命令を与えてくれた。無益な血をこれ以上流すなという命令を下すことによって、彼女達を教団と破壊神の影から解き放ったのだ。
 死と破壊の神はもういない。そうティアは思った。
 破壊神のいない世界。それは、種を託したガルトが求めていた世界だ。
 その中で今、自分も生きている。
 ティアは一同を見渡した。
「提案があります」
 自分と同じように手を血に染めて生きてきた――そうするより他になかった――仲間達に、ティアは言う。
「反乱組織の指導者が今、ゲインに来ています。ウドゥルグ様のご命令に従い、彼に投降しましょう」
 無益な血を流すことなく、生命の神を説く者に下る。破壊神に命を捧げていた過去と決別し、たった今現れた「ウドゥルグ」の命令に従う。それは、この島で生命の神のもとで生きていくということだ。
 暗殺者としての過去がどんなに暗い影を落とそうとも、未来は決して閉ざされはしないだろう。
 それが、自分の求めた世界なのだ。
 初めて自分の意志で発した言葉に、仲間達がうなずくのを見て、ティアは感慨を覚える。彼らもまた、求めることの許されない中で、この世界を求めていたのかも知れない。

 ゲイン、中央広場。
 敷石を突き破り、背丈ほどの高さに伸びている若い木を、ティアは見つめていた。
 反乱組織の指導者の求めに応じるかのようにして「ウドゥルグ」が現れ、奇跡を起こしたという。一瞬のうちに出現したこの木を、人々はいつしか「希望の木」と呼ぶようになっていた。
 ふと、傍らに人の気配がした。顔を向けると、闇色の髪の青年が口の端に笑みを浮かべている。ティアは口を開きかけたが、ガルトが目をゆっくりと上げていくのに気づいて、その視線の先を追う。
 まだ細い枝の先に咲く、小さな白い花。
「あんたにもらった種だ」
「……」
 白く可憐な花は、華やかではないが素朴なあたたかさを感じさせる。破壊神のいない世界に、いかにもふさわしく思えた。
「あなたが咲かせてくれたのね」
 神の奇跡と呼ばれるような現象ををどのように起こしたのか、あの額の目は何なのか。それはティアの関心にはない。重要なのは、ガルトに託した種が求める世界に咲き、「希望」の名で呼ばれているということだけだ。
「ああ」
 ガルトはうなずいた。
「けど、俺一人の力じゃない。あんたや……この島のたくさんの人たちが、破壊神のいない世界を求めてくれたから、この花は咲いたのさ」
 自分だけではなかったのだ、と、ティアは思った。
 蜂起した人々、ともに投降したロルンの仲間達。
 これまで求めることを許されていなかった人々が、声にならぬ思いで求めていた、死と破壊の神におびやかされることのない世界。それが今、ここにある。
「……そういや、名前聞いてなかったな」
「この花の?」
「なんでそこでボケるんだ」
 首をかしげるティアに、ガルトは明るい笑い声を上げた。
「あんたの名前だよ。もう任務につく必要はないんだろ?」
 ティアもつられて笑う。笑うことにはあまり慣れていないが、自然に笑みが浮かんでくるのを禁じるものは、もう何もなかった。

FIN


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その花の名前は

短編

  サイレント・ウィッシュ〜希望の花咲く時〜

片岡美魁

番外編紹介:

死と破壊の神を崇める教団が支配する島。教団の暗殺者ティアは「求める世界に咲く花」の種を受取る。自由意志の許されない彼女に与えられたその種が島にもたらすものとは?

注意事項:

年齢制限:なし

本編完結済

本編注意事項なし

◇ ◇ ◇

本編:

魔の島のシニフィエ

サイト名:

無限範列(パラディグム・アンディフィニー)

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